シリーズ『実践の糧』vol.70

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第268号,2023年6月.

実践の糧」vol. 70

室田信一(むろた しんいち)

 私は普段髭を生やしている。髭の形などに特にこだわりはないし、髭をさっぱり剃ることもあるが、最近はなんとなく口髭と顎髭を蓄えていることが多い。

 そもそも髭を生やし始めたきっかけは、アメリカ留学時のことである。友人とバーやクラブに出かけるときなど、入り口で身分証明書を確認されることがある。大抵は屈強な男性が入り口で待ち構えていることが多い。厳格なタイプの人は身分証明書を一人ずつ確認するが、多くの場合は見た目で判断して通してくれる。ちなみに私がいたニューヨーク州は飲酒年齢が21歳以上なので、21歳になるまでは身分証明書がなければ入店できない。しかし、アジア人は若くみられるので、40代でも身分証明書を求められることがある。そのため、入り口で止められずにお店に入る手段として髭を生やしていた。

 そのようなシチュエーション以外にも、周囲から年齢相応に見られるために髭を生やしていた。それ以来、20年以上髭を蓄えている。

 そうしたなか、今年になって法事が重なり、1週間ほど髭を剃り続けることがあった。すると、普段髭を生やしている部分がだんだん痛くなってきた。そのことで思い出したのは、髭を生やしたきっかけは海外で大人っぽく見られるためであったが、その後、髭が濃くなってくると、カミソリで肌を傷つけないために髭を伸ばすようになったことである。30代からは口髭も濃くなり、生やすようになった。

 そこで思ったことは、あることが成立する背景に身体的・物理的な理由があるにもかかわらず、その理由はいつしか忘れ去られ、慣習だけが残るということだ。その慣習には物語(私の場合、大人っぽく見られるために髭を生やす)が加えられ、その物語によって自分も他者も説得される。

 実は社会や地域の多くのものごとは身体的・物理的な条件によって成り立ってきたにもかかわらず、そうした起源は忘れられてしまい、慣習と物語によって上塗りされていることが少なくないのではないだろうか。

 自治体の中の圏域設定などはその典型例かもしれない。物理的な距離や地形(河川や街道、坂など)の条件によって集落が作られてきたところに、お祭りが始まったり、住民活動が生まれたり、人が集まる拠点が設けられたりすることで、いつしかそこに住民の帰属意識が形成されてきた。しかし慣習としての地域性にのみ着目してしまい、地理性を無視して人口減少による圏域の統合がおこなわれたり、新たな地区割が設けられたりすることがある。そうすると、人の身体的・物理的な感覚として、新たに統合された圏域を同じ地域として感じることができなかったりして、住民から不満が出たり、結局、新たな圏域単位での活動は進展しなかったりすることがある。地域福祉の世界ではありがちな話である。

 今回、髭を剃って気づいたことは、自分の身近な身体的な理由さえも忘却され、物語で上塗りされていたことである。そうであれば、地域のことや、さらにはもっと大きな単位の自治体や国などにおけるものごとの起源にある身体性や物理性はすっかり忘れられてしまっていて、変更が加えられた時に、特定の誰かに無理を強いる仕組みになってしまっているかもしれないということである。新たな慣習に慣れれば良いという問題ではないのだ。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

実践の糧