掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第225号,2016年4月.

実践の糧」vol. 28

室田信一(むろた しんいち)

「一人のカリスマリーダーの力では社会は変わらない」とよく言われるが、それについてもう少し丁寧に考える必要があると思う。カリスマリーダーは本当に求められていないのか。そもそもカリスマリーダーは世の中に存在するのか。

カリスマリーダーにはワンマンとしてのイメージが伴うため、市民社会や民主主義を信望する者は、カリスマリーダーの存在を理想的な社会からかけ離れたところに位置づける傾向がある。どちらかというと私もその口だが、どうも私たちはその「頭の中のカリスマリーダー像」に惑わされているのではないかと思うことがある。

市民活動(ここではボランティア活動を含めてそう呼ぶ)をしていると、カリスマリーダーと呼ばれる人に出会うことがある。しかし私がこれまで出会った人たちは、いわゆる人間的な魅力で周囲を巻き込むカリスマリーダーというよりも、むしろ「思いの強い人」たちであったように思う。その人たちは思いの強さによって周囲の人間や組織を巻き込み続けていた。そして、その人が歩みを止めると、その動きは止まってしまう。従って、そのようなリーダーでは社会を変えることができないといった評価が下される。

しかし、市民活動のように他者の関与を前提とする活動の場合、その背景に「思い」がなければ何も始まらないだろう。強い思いは市民活動の原動力となる。

カリスマリーダーという時、その人には他の人が努力しても得ることができない生まれもった才能が備わっていると考えることが多いと思うが、私は市民活動の領域でそのような人に出会ったことがない。芸術の分野などでカリスマ性を備えた人が活躍することは少なくないと思うが、市民活動のリーダーにそのような人はいるのだろうか。市民活動でカリスマリーダーと呼ばれる人は、実は「思いの強い人」であって、それは特別な才能をもっている/もっていないという二元論で区分される人ではなく、思いの強さのグラデーションの中に存在する人なのではないだろうか。

そう考えると、「あの人はカリスマリーダーだから社会を変えることはできない」と揶揄されている人は、実は不当な評価を受けているのかもしれない。もちろん中にはカリスマ性を備えた人もいるかもしれないが、多くの場合、カリスマリーダーと呼ばれる人も、実は私やあなたと同じように何かしらの「思い」を抱き、社会に対して行動を起こしている人であって、その思いの強さがゆえに、周囲から「カリスマ」のカテゴリーの中に押し込められてしまっているのかもしれない。

むしろ、「思いの強さ」と同時に重視しなければならないことは、「思いの密度」である。その強い思いが推進されるための具体的で綿密な計画があり、その計画が遂行されるための工程表があるのか。その工程表は他者が関与できるような設計になっているのか。他者の関与を可能にするための仕組みが含まれているのか。

「思いの強さ」とは別の「思いの密度」という尺度でその人物を評価したとき、カリスマの有無とは関係なく、社会を本当に動かす人かどうか、正当な評価を下すことができるのではないだろうか。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

実践の糧