シリーズ『実践の糧』vol.33

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第230号,2017年2月.

実践の糧」vol. 33

室田信一(むろた しんいち)

昨年、私の母親が体調を崩して入院した。とても複雑な病気で、現代の医療では治療することはできないとされている。いわゆる難病と呼ばれる病気で、昨年突然体調が悪化して入院先の病院では長くはもたないだろうと宣告された。

しかし、難病だからといって諦めるわけにはいかず、あらゆる可能性を含めて家族で最善策を検討した。結果的に効果的な対策が見つかったわけではないが、自然治癒により一命を取り留め、今は入院前の状態にまで回復している。

しかし、いつまた同じような状態になるかわからないので、母の病気のスペシャリストの先生を探し出し、飛び込みで診察してもらった。入院先の大学病院では「打つ手なし」と診断されていた母の症状を、その先生は「これくらいならまだまだですよ」と診断し、私たち家族にとって救いの神となった。

医療の素人からすると、都心の有名な大学病院であれば専門知が結集していると考えがちであるが、高度に複雑化した現代の医療では、ある特定の疾患に対する治療の開発はその道のスペシャリストの手に委ねられているようである。

エビデンス・ベースト・メディスン(EBM)という言葉がある。「根拠に基づいた医療」のことで、医師の個人的な診断に委ねるのではなく、同様の病気に関する過去のデータを参考にして、医師の診断がその病気の治療にとって適切かということを比較評価しながら患者にとって最適な治療を進める考え方である。大学病院を中心に、研究と教育によって専門性を構築してきた医療にとってその考えは当たり前のように聞こえるが、EBMという概念の登場を待たなければ属人的な要素が強かったということである。

しかし、母の病気を機に知ったことは、現実はEBMとはほど遠く、スペシャリストに巡り会えるかどうかが患者の命を左右しかねない世界ということだ。インターネットが普及した現代でも、スペシャリストに巡り会うためには努力と運が求められる。ただし、よく考えてみれば、人体の不思議はまだ解明されていないことだらけで、また、一人一人の人体は異なる特徴を備えていることを考えれば、医師の知識や技術が平準化されている状態よりも、スペシャリストの先生さえもまだ知らない新たな治療方法がどこかの別の医師の手によって開発されるかもしれない状態にこそ希望を感じる。

人と人との関係性や集団内の微妙な力動に介入するソーシャルワーカーも医師以上に固有で複雑な対象に向き合っているわけだが、ソーシャルワーカーの養成課程を見ると、平準化された知識と技術をマニュアル通りに教授することを重視しているように思う。

皆さんは自分の地域のソーシャルワーカーに何を求めるだろうか。マニュアルを遵守するワーカーか、それともその人の個性を発揮して他のどこにも存在しない実践を推進するワーカーか。私がかつてニューヨークでワーカーとして働いていた時、個人商店のように個性あふれるワーカーが各地に存在していたことを思い出す。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

実践の糧