シリーズ『実践の糧』vol.36

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第233号,2017年8月.

実践の糧」vol. 36

室田信一(むろた しんいち)

サービス提供とコミュニティ・オーガナイジングは違う、という考え方があるが、それは100年ほど前から続く、ソーシャルワークにおけるミクロとマクロの対立と似ている。メアリー・リッチモンドの言葉を借りれば「小売り」と「卸売り」の違いである。

コミュニティ・オーガナイジングはマクロのアプローチに該当する。ある問題の根源的な原因を探り、その原因に対してはたらきかけることを指す。たとえば、人種差別の構造が根底にある(具体例として、差別が原因で良い仕事に就くことができない)にもかかわらず、その問題の解決はあまりに大きな問題ということで棚上げして、人種差別が原因で起こる日々の問題(低所得となり、食費が不足していること)を解決するためにサービスを提供する(フードバンクの無料の食料を提供する)ことは、コミュニティ・オーガナイジングの実践とは異なると考える。

コミュニティ・オーガナイジングにとっての関心事は、個別の課題の根底にある構造上の問題(具体例で言うところの人種差別)である。また、その構造上の課題を解決した時に、課題に直面する当事者が力を得るという視点が重要になる。そのため、課題の根源的な解決から目を背け、当事者が構造的に不利な立場に置かれている状態を持続する結果になるにもかかわらず、サービスを提供し続けることに対して否定的な態度をもつ傾向にある。

しかしサービスを提供する側の立場は、すぐに解決しない構造上の問題に対してはたらきかけていても、その間、日々の生活が営めないほどに当事者が困窮しているとしたらそれは看過できない、という主張をする。これがソーシャルワークの黎明期から今日まで続くミクロ・マクロの対立である。

この対立にはある視点が欠けていると私は考える。それは「サービスは政治的」という視点である。この視点は生活が政治的という主張ともつながるが、サービスは生活以上に政治的である。なぜなら、サービスは財源が投入されて成り立つからである。その財源は税や社会保険によるものもあれば、民間の寄付(現金、現物)の場合もあるが、ポスト工業化と言われる今日の先進資本主義国家では、多くのサービスは政府の公的な財源によって成り立っている。その公的な財源の拠出を決定するのは政治である。したがって、サービスを利用するということは政治的な関係の中に成立する行為だといえる。

サービスを利用することは、自身の生活を政治と強いつながりで結ぶことになる。政府がそのサービスを充実させるという決断や、取りやめるという決断がサービス利用者の生活に直接的な影響を与えるのである。そのため、ソーシャルワーカーによるサービスの利用につなぐというミクロの実践は、サービス利用者という政治的な集団を作り上げるマクロな実践と連続しているのである。

私がニューヨークでコミュニティ・オーガナイザーとして働いていた時、私は外国人コミュニティとともにオーガナイジングの実践をしていた。その中でも無料の英語サービスを受講しているサービス利用者が主たる対象であった。毎年のように彼(女)らと一緒に政治家の事務所を訪問して、そのサービスが彼(女)らの生活に欠かせないものであることを伝えていた。

しかしそのことと、サービスで解消できない構造的な課題に対してはたらきかけることは別である。つまり、サービス提供とコミュニティ・オーガナイジングは深く関わっているし、サービス提供とはまた別にコミュニティ・オーガナイジングのはたらきかけが必要だということである。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

実践の糧