シリーズ『実践の糧』vol.40

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第237号,2018年4月.

実践の糧」vol. 40

室田信一(むろた しんいち)

落語家の立川談志が、落語とは人間の業の肯定だとかつて述べた。業とはすなわち、欲や怠け心など、人間の醜い部分や弱い部分として卑下され、通常は他人に知られないように隠される部分のことである。親孝行や勤勉といった世の中で是とされる価値観ではなく、落語は、人間のそうした醜い部分や弱い部分に光を当て、それらを認め、肯定すると談志は述べたのである。

社会福祉というのは本来、落語同様に業を肯定する価値観を備えていると私は思っている。欲や怠け心はもちろん、人間の心の奥底にあるドロドロとした感情を肯定するところから社会福祉の実践が始まると思っている。しかし、一般的には異なる印象が抱かれることが多い。社会福祉に従事する人やそれを目指す人は清い心の持ち主であり、高い志をもち、正しい判断力をもって人の生活の乱れを正す人という印象である。確かに、そのような意識をもってソーシャルワーカーを目指す人や福祉の仕事に従事する人がいることも事実だし、そうした姿勢を否定するつもりはない。いろいろな人がいていい。ここで言いたいことは、人には誰にでも醜い部分や弱い部分があり、それを取り繕わなくても良いのではないかということだ。

同様の考え方が、最近では市民活動や地域の活動にまで拡散しているような気がする。国の政策などで地域の活動に対する期待が高まっていることも追い風となり、まちを良くするための活動をする立派な市民像のようなものが蔓延していて、たまに恐ろしくなる。そこには、市民とは善いおこないをする存在という前提があり、その市民像に該当するようにみんなが努力するという構図ができているように感じる。コミュニティソーシャルワーカーなどの専門家にはそうした善き市民を生み出すためのコーディネートが期待されている。繰り返すが、善き市民を否定するつもりは毛頭ない。善くない市民よりは善い市民の方がいいのかもしれないが、善くなくてもいいじゃないかと思う。社会から期待されるような役割を果たさなくてもいいし、社会に貢献したいと思わなくてもいい。人と付き合うのは面倒だなとか、自分のことが一番大事だと思っていていい。実際、みんなどこかでそういう気持ちになることはあるだろう。そういう市民像を肯定するところから市民活動は始まるのではないかと思う。

晩年、談志はさらに踏み込み、人間の奥底にあるワケのわからないものを「イリュージョン」と呼び、落語はそうした人間の不完全なものにまで踏み込んで演じる必要があると述べた。人間は不合理な生き物である。さっきまでやりたいと思っていたことをやりたくなくなったり、食べたいと思っていたものを食べたくなくなったりする。そんな不合理な人間同士のやり取りが落語では描かれている。人が生きるということはそうした不合理の繰り返しである。

自由な市民の活動であるはずの市民活動こそ、理想の形や常識にとらわれずに取り組んでいいのではないだろうか。自己満足で取り組んだっていいだろうし、空回りしたっていい。そういう市民活動を歓迎する態度が問われていると思う。人間の業を肯定する落語のような少し力の抜けた態度が。

結果として思ったような活動にならなくても、「うまくいかなかったね」と一緒に笑い話にして、いい失敗をしたねと肯定するということだ。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

実践の糧