シリーズ『実践の糧』vol.37

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第234号,2017年10月.

実践の糧」vol. 37

室田信一(むろた しんいち)

私は大学で社会福祉の導入の授業を担当している。人文・社会という広い関心を抱いて入学し、1年間教養を学んだ2年生が、社会福祉学を専攻として選び最初に必ず受講する専門科目が私の授業になっている。その初回の授業で私は学生に次の課題を与える。

社会福祉にかかわる「なぜ」や「どうして」について思いつく限り書いてください。

社会福祉学を専門的に学んだことのない学生がどのような認識や印象を抱いて社会福祉学を受講するのか、この質問にはそれを確認する意図がある。面白いことは、社会福祉を学んでしまうと出てこないような根源的な問いが出てくることだ。「なぜ、社会福祉が必要なのか」「なぜ、虐待は起こってしまうのか」「なぜ、生活保護受給者が生まれるのか」「なぜ、保険制度や手続きをもっと簡単なものにできないのか」といった質問である。

こうして出された質問に対して、授業一回を使って、学生に議論してもらうことにしている。受験勉強で一つの正解を導き出すことに慣れてきた学生に、人の生活や社会の現象、またそのあり方に対して一つの正解があるわけではないということを、一緒に考えてもらうことにしている。

毎年、それらの問いに答えてもらう前に、次のような例を示す。「なぜ、砂糖は辛いのか。」

この問いに対して、学生からは「砂糖は辛くない」という答えが返ってくる。地球の何処かには辛い砂糖があるかもしれないが、多くの場合砂糖は辛くない。したがって、この問いは間違った認識に基づく問いである、ということを確認する。

というのも、学生が挙げる問いの中には間違った認識に基づく問いが少なくないからである。「なぜ、野宿者は生活保護を受けることができないのか」「なぜ、日本は低福祉低負担を選択しているのか」「なぜ、社会福祉の仕事に従事する人は忙しいのか」といった問いである。これらの問いは、該当する側面があるかもしれないが、前提としている認識について問い直すことが求められる。

実は、学生に限らず、行政や現場の専門家がこうした間違った認識に基づいて問題意識を抱くことは少なくないのではないだろうか。「経済が停滞すると生活が悪化する」「高齢化で地域活動の担い手が不足する」「予算をつけなければ地域の取り組みは安定しない」などの認識を前提に施策や取り組みを考えていることが少なくないように思う。そのような前提は、現象レベルでは当てはまるように見えるかもしれないが、社会構造としては普遍的なものではないはずである。もしくは良い・悪い、成功・失敗のものさしがその狭い構造に限定されたものになっている可能性が高い。

このような思考は浮世離れしているという指摘があるかもしれない。それでも、現場がこのような根源的な問いをもった時に社会は大きく変わってきたのではないだろうか。

砂糖は甘いという認識を身につけた上で、改めて辛い砂糖の存在について探求することが求められる。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.36

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第233号,2017年8月.

実践の糧」vol. 36

室田信一(むろた しんいち)

サービス提供とコミュニティ・オーガナイジングは違う、という考え方があるが、それは100年ほど前から続く、ソーシャルワークにおけるミクロとマクロの対立と似ている。メアリー・リッチモンドの言葉を借りれば「小売り」と「卸売り」の違いである。

コミュニティ・オーガナイジングはマクロのアプローチに該当する。ある問題の根源的な原因を探り、その原因に対してはたらきかけることを指す。たとえば、人種差別の構造が根底にある(具体例として、差別が原因で良い仕事に就くことができない)にもかかわらず、その問題の解決はあまりに大きな問題ということで棚上げして、人種差別が原因で起こる日々の問題(低所得となり、食費が不足していること)を解決するためにサービスを提供する(フードバンクの無料の食料を提供する)ことは、コミュニティ・オーガナイジングの実践とは異なると考える。

コミュニティ・オーガナイジングにとっての関心事は、個別の課題の根底にある構造上の問題(具体例で言うところの人種差別)である。また、その構造上の課題を解決した時に、課題に直面する当事者が力を得るという視点が重要になる。そのため、課題の根源的な解決から目を背け、当事者が構造的に不利な立場に置かれている状態を持続する結果になるにもかかわらず、サービスを提供し続けることに対して否定的な態度をもつ傾向にある。

しかしサービスを提供する側の立場は、すぐに解決しない構造上の問題に対してはたらきかけていても、その間、日々の生活が営めないほどに当事者が困窮しているとしたらそれは看過できない、という主張をする。これがソーシャルワークの黎明期から今日まで続くミクロ・マクロの対立である。

この対立にはある視点が欠けていると私は考える。それは「サービスは政治的」という視点である。この視点は生活が政治的という主張ともつながるが、サービスは生活以上に政治的である。なぜなら、サービスは財源が投入されて成り立つからである。その財源は税や社会保険によるものもあれば、民間の寄付(現金、現物)の場合もあるが、ポスト工業化と言われる今日の先進資本主義国家では、多くのサービスは政府の公的な財源によって成り立っている。その公的な財源の拠出を決定するのは政治である。したがって、サービスを利用するということは政治的な関係の中に成立する行為だといえる。

サービスを利用することは、自身の生活を政治と強いつながりで結ぶことになる。政府がそのサービスを充実させるという決断や、取りやめるという決断がサービス利用者の生活に直接的な影響を与えるのである。そのため、ソーシャルワーカーによるサービスの利用につなぐというミクロの実践は、サービス利用者という政治的な集団を作り上げるマクロな実践と連続しているのである。

私がニューヨークでコミュニティ・オーガナイザーとして働いていた時、私は外国人コミュニティとともにオーガナイジングの実践をしていた。その中でも無料の英語サービスを受講しているサービス利用者が主たる対象であった。毎年のように彼(女)らと一緒に政治家の事務所を訪問して、そのサービスが彼(女)らの生活に欠かせないものであることを伝えていた。

しかしそのことと、サービスで解消できない構造的な課題に対してはたらきかけることは別である。つまり、サービス提供とコミュニティ・オーガナイジングは深く関わっているし、サービス提供とはまた別にコミュニティ・オーガナイジングのはたらきかけが必要だということである。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.35

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第232号,2017年6月.

実践の糧」vol. 35

室田信一(むろた しんいち)

地域包括ケア政策が各地で推進され、行政や社協などが中心となり、住民を地域のサービスの担い手として養成する事業に取り組んでいる。私もそうした事業の推進をアドバイスする立場でいくつかの自治体に関わっている。

そうした事業を推進するための会議に出席して思うことは、自分が理想と思う地域の助け合いのイメージと政府が模索している地域の助け合いのイメージがあまりにもかけ離れていることである。その結果、私が想定する助け合いのイメージを現場の担当者(主に行政の職員)と共有することが難しく、「政府のイメージさえなければ」というような被害妄想さえ抱いてしまう。

地域づくりをする上で実際に手を動かすのは私ではない。そのため、アドバイザーという立場であっても私の描く理想像を現場の担当者に押し付けることはしない。むしろ、担当者が頭の中で描いている絵を引き出すお手伝いをして、その絵が本当に理想の地域像なのか議論する中で、徐々に私の思い描いている絵と重なり合うようになればいいと思っている。

いや、正確には、思っていた。最近その考えが少し変化してきた。

というのも、昨今の政府の政策は、地域活動や住民活動に対して一方的に推進方法を押し付けてきていて、その負の影響力を軽視することができなくなったからだ。

ハバーマスという哲学者が「システムによる生活世界の植民地化」とかつて述べていたが、近年の地域包括ケア政策は草の根の住民活動を植民地化しようとしている。

そうした傾向は今に始まった事ではない。日本では1960年代からコミュニティ政策が推進されてきており、人工的にコミュニティが作られてきた。アメリカでは公民権運動を契機に連邦政府が貧困地域におけるコミュニティづくりに政策的に関与するようになり、コミュニティ・オーガナイザーの配置に予算を充てた。そこで重視されていたことは住民による自治である。そのため、住民がどのような活動に取り組むかということは住民側に委ねられていた。住民が考える課題やニーズに対して、オーガナイザーが中心となり、自分たちで取り組む課題を決めていた。

日本のコミュニティ政策にも同様の傾向はあったのではないだろうか。コミュニティの中に意思決定機関を設置して、住民が中心となってその機関を動かす。しかし、そうしてできた機関が時間の流れとともに機能しなくなることがある。地域に課題があっても特に何も行動を起こさないこともある。そこで、地域住民が取り組むべき課題を政府が地域包括ケア政策によって示し、各地の住民は、右へならえで地域の支え合い活動に取り組むようになっている。

そのような歴史的な背景があったので、地域包括ケア政策もある程度は必要と思っていたが、現在の現場の状況を見ると、早いうちに手を打たなければならないと思い始めている。それも私の夢想なのだろうか。この連載を通してもう少し考えていきたい。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.34

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第231号,2017年4月.

実践の糧」vol. 34

室田信一(むろた しんいち)

先日、引越しをした。私は若い頃に引越し屋のアルバイトをしていたので引越しは得意で、業者にお願いしたことはかつて大阪から東京に引越した時くらいである。

今回の引越しは東京都内の引越しであったが、これまでとは勝手が違った。まず、5歳と1歳の子どもがいる中で引越しをしなければならないということである。二人が戦力になることは期待していないが、それ以前に、私と妻の作業をあの手この手で邪魔しようとする。本人たちに悪気はないので、やめてもらうのにも苦労する。さらに、年度末の超多忙な時期に引越すことになり、引越しの準備もままならないことは予測できた。

そこで、荷物の大半の搬送を引越し業者にお願いすることにした。繁忙期のため割高になったが、それでも背に腹は変えられない。引越し業者の若い人が本が詰まったダンボールを2つ抱えて階段をタッタッタと駆け上がる姿を目にすると若い頃引越し屋でアルバイトしていた時分を思い出し、血が騒いだ。そんなこんなで業者の人たちはものの数時間で大量の荷物を運び終えてくれた。

しかし残念だったことがある。今回引越し業者に手伝ってもらいたかった最大の理由はドラム式の重い洗濯機を新居の2階まで運んでもらう必要があったからである。重い洗濯機を慎重に運んでくれたところまでは良かったが、その設置は別料金だと言って置きっ放しにされてしまった。その場で別料金を払うと言っても、別の電気工事部の人が来る必要があるということで、「連絡しておきます」とだけ言い残して颯爽と引き上げて行ってしまった。その後、2日待っても電気工事部から連絡はなく、コインランドリー通いが続いた。

結局、こちらから引越し業者に連絡したら電気工事部を手配するまでに数日かかるということで、インターネットで別の業者を探して洗濯機を設置してもらった。

引越し屋のなんとも杓子定規な対応に切なくなった。以前私がアルバイトをしていた頃は依頼主の細かい注文に臨機応変に対応していたものだが、おそらくそうして現場で裁量を効かせることから、稀に問題を引き起こし、リスク管理の観点から全ては契約に基づいて対応するようになったのだと思う。

その一方で、エアコンの設置業者は当初の工事よりも余分にカバーが必要だったということで4万円も余計に支払わされた。現場でこれから取り付けるという時にそのような値段をふっかけられて断るという選択肢はなく、否応無しに4万円を支払った。この「先進国」日本にもまだこうした「ぼったくり文化」が残っているという点では新鮮だったが、財布には優しくなかった。

どちらの業者も当事者視点が欠けていることが何よりも残念だった。引越しという困難を乗り越えようとしているという意味で、私の世帯は誰かの助けを必要とする脆弱な存在である。その弱みに付け込んだり、その弱みを見て見ぬ振りをしたりする業者が普通に存在することにショックを受けたが、同様の対応を福祉サービスの中にも頻繁に散見することができると思った。引越しは数年〜数十年に一回のイベントだから良いが、同様の対応を毎日の生活の中で受けたらどれだけ苦痛だろうか。弱い立場に立って改めてそのようなことを考えた。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.33

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第230号,2017年2月.

実践の糧」vol. 33

室田信一(むろた しんいち)

昨年、私の母親が体調を崩して入院した。とても複雑な病気で、現代の医療では治療することはできないとされている。いわゆる難病と呼ばれる病気で、昨年突然体調が悪化して入院先の病院では長くはもたないだろうと宣告された。

しかし、難病だからといって諦めるわけにはいかず、あらゆる可能性を含めて家族で最善策を検討した。結果的に効果的な対策が見つかったわけではないが、自然治癒により一命を取り留め、今は入院前の状態にまで回復している。

しかし、いつまた同じような状態になるかわからないので、母の病気のスペシャリストの先生を探し出し、飛び込みで診察してもらった。入院先の大学病院では「打つ手なし」と診断されていた母の症状を、その先生は「これくらいならまだまだですよ」と診断し、私たち家族にとって救いの神となった。

医療の素人からすると、都心の有名な大学病院であれば専門知が結集していると考えがちであるが、高度に複雑化した現代の医療では、ある特定の疾患に対する治療の開発はその道のスペシャリストの手に委ねられているようである。

エビデンス・ベースト・メディスン(EBM)という言葉がある。「根拠に基づいた医療」のことで、医師の個人的な診断に委ねるのではなく、同様の病気に関する過去のデータを参考にして、医師の診断がその病気の治療にとって適切かということを比較評価しながら患者にとって最適な治療を進める考え方である。大学病院を中心に、研究と教育によって専門性を構築してきた医療にとってその考えは当たり前のように聞こえるが、EBMという概念の登場を待たなければ属人的な要素が強かったということである。

しかし、母の病気を機に知ったことは、現実はEBMとはほど遠く、スペシャリストに巡り会えるかどうかが患者の命を左右しかねない世界ということだ。インターネットが普及した現代でも、スペシャリストに巡り会うためには努力と運が求められる。ただし、よく考えてみれば、人体の不思議はまだ解明されていないことだらけで、また、一人一人の人体は異なる特徴を備えていることを考えれば、医師の知識や技術が平準化されている状態よりも、スペシャリストの先生さえもまだ知らない新たな治療方法がどこかの別の医師の手によって開発されるかもしれない状態にこそ希望を感じる。

人と人との関係性や集団内の微妙な力動に介入するソーシャルワーカーも医師以上に固有で複雑な対象に向き合っているわけだが、ソーシャルワーカーの養成課程を見ると、平準化された知識と技術をマニュアル通りに教授することを重視しているように思う。

皆さんは自分の地域のソーシャルワーカーに何を求めるだろうか。マニュアルを遵守するワーカーか、それともその人の個性を発揮して他のどこにも存在しない実践を推進するワーカーか。私がかつてニューヨークでワーカーとして働いていた時、個人商店のように個性あふれるワーカーが各地に存在していたことを思い出す。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.32

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第229号,2016年12月.

実践の糧」vol. 32

室田信一(むろた しんいち)

社会の課題を解決するために、コミュニティ・オーガナイザーは住民に「その気」になってもらうように働きかける。その結果、課題は解決の方向に進むが、反面、住民に過度な負荷をかけてしまう危険性があるというジレンマについて前号で述べた。

非営利セクターの国際比較研究をおこなったラルフ・クレイマーは民間非営利セクターの役割を先駆者(vanguard)、価値管理者(value guardian/volunteer)、サービス供給者(service provider)、アドボカシー(improver and advocacy)の4つに整理している。この研究は今から35年前の研究で、現在の政府と非営利団体の関係は、当時のそれと大きく異なっているということができる。

アメリカでいうと、1980年代まで政府による社会保障費が非営利団体によって提供される福祉関係サービスの予算を上回ることはなかった。つまり、非営利団体は政府が提供していないサービスを先駆的に提供していたという意味において、クレイマーの言うところの「先駆者」としての役割を果たしていた。もしくは、政府のサービスでは不足する部分を補足する「価値管理者」としての役割が主流であった。さらに付け加えると、政府の政策が不十分であれば政府に対して要求する「アドボカシー」としての役割を担っていた。

しかし、1980年代を契機にそれは変わった。アメリカに限らず先進諸国では増幅する国家の社会保障費を効率的に運用するために非営利団体にそれらを委託する傾向が強くなった。政府の代わりにサービスを請け負う「サービス供給者」としての役割が主流になった。増幅する福祉ニーズを満たすために、政府は安い費用でサービスを外部委託し、それらを受託した非営利団体は事業の規模を拡大してきた。

ところが近年の政府の方針は、非営利団体よりもむしろ住民ボランティアによる互助活動によって拡大する福祉ニーズを満たすという政策へと転換してきている。そうした流れの中で、住民による互助活動を促進するために非営利団体に各種の「コーディネーター」を配置する政策が推進されている。コーディネーターがいることで、地域の住民活動が円滑に推進されるという側面はあるだろう。しかし、福祉ニーズを満たすための政策の一環として住民を「その気」にさせて互助活動に動員するというのは、結果的に住民に過度な負担を押し付けていることになる。

「担い手の高齢化」や「担い手不足」といった言葉を地域の活動でよく耳にする。しかし、ボランティア活動する人たちが高齢化して何がいけないのだろうか。高齢化しても活動したい人はしたらいいし、できなくなればやめればいい。担い手が不足するというのは、誰にとって不足なのだろうか。政府によって押し付けられた「目標」を達成するために不足するということではないだろうか。

非営利団体やボランティアの強みは「先駆者」や「価値管理者」「アドボカシー」としての役割である。「サービス供給者」に押し込められている現状について、改めて考え直す時期が来ているのではないだろうか。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.31

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第228号,2016年10月.

実践の糧」vol. 31

室田信一(むろた しんいち)

私はニューヨーク市のセツルメントで移民コミュニティのオーガナイザーとして働いていた。私の仕事は、彼らが移民として感じている生きづらさや、彼らが生活の中で権利を侵害されたと感じることなど、彼らの話を聞き(つまり、アセスメントして)、その課題に対して集合的に働きかけるためのリーダーを養成し、彼ら自身が活動の目標を掲げることを支援し、その活動を側面から支援するというものであった。前号の表現を引用すると、移民の彼らに「その気」になってもらうための触媒としての役割を果たしていたことになる。

そのようにボトムアップで意思決定をして活動に取り組むこともあれば、一方で、他の関係機関から提案された目標に向かって活動に取り組むこともある。たとえば、移民支援の中間支援団体から人権侵害の問題に対してアクションを起こすので、協力の要請がかかることがある。具体的には、○月○日に開催される集会に、当事者である移民を何人動員できるかといった要請である。

草の根の活動だけで政治的な変化を生み出すことは容易ではないが、小さな団体同士が連合体を組み政治的な圧力をかけることで変化を生み出す可能性は高まる。キャンペーン成功の鍵は、どれだけ多くの当事者を動員して、政策決定者である政治家や官僚に「無視することはできない」と思わせることである。より多くの当事者を動員することがコミュニティ・オーガナイザーの評価につながる。つまり、どれだけ多くの人に「その気」になってもらうかがオーガナイザーの手腕になる。取り組みの内容は異なるが、日本のコミュニティワーカーや生活支援コーディネーターが住民に「その気」になってもらうように働きかけることと原理的には同じである。

私にとってコミュニティ・オーガナイザーが天職だと感じたのは、この「その気」になってもらう働きかけが得意だったからである。働きかけようとしている課題が、当事者である移民の生活にどのように影響を及ぼすのか、なぜ影響を及ぼすのかについて丁寧な対話を繰り返した。あくまでも当事者である彼らの声を尊重して、意思決定を重んじた。強引な動員は絶対にしなかった。そうした手続きを重んじることが結果に結びついた。私がコミュニティ・オーガナイザーとして勤務してから市内の大きな集会などにコンスタントに動員することができ、中間支援団体からも一目置かれるようになった。

優れたコミュニティ・オーガナイザーがいることで、その団体に関わっている当事者はそれだけ自分たちの声を政治に反映することができる。声を反映させるそうした手続きは、中間支援団体による政策提案と政治的交渉、草の根団体による当事者の動員というように分業化されている。現代社会の政治的な意思決定のペースは早く、そのペースに合わせて当事者は「その気」になり、動員に加担する。

社会が回転するペースに合わせなければ、住民や当事者は社会の動きから取り残されていく。そのため、橋渡しをする役割がオーガナイザーやワーカーの仕事であるが、そのペースを住民や当事者に課すことは正義なのだろうか。避けることのできないジレンマだった。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.30

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第227号,2016年8月.

実践の糧」vol. 30

室田信一(むろた しんいち)

近年、住民が事業の担い手となることを前提とした政府の政策が増えてきている。社会福祉の領域は国家予算に占めるその割合が大きいため、予算の抑制圧力が強く、結果として住民の関与を求める傾向はより顕著に表れている。介護保険制度の新しい総合事業と呼ばれる領域もその一つである。

新しい総合事業では生活支援コーディネーターと呼ばれる職員が全国に配置され、住民同士による支え合いの活動を各地で推進することが求められている。言い方を変えれば、それまで地域で支え合いの活動など取り組んでこなかった地域住民に「その気」になってもらい、生活支援のための活動を一緒に生み出していくことがその趣旨である。

「その気」になってもらう、というところが重要である。住民に「その気」になってもらうための存在を触媒と形容することがある。コミュニティ・オーガナイザーには触媒としての役割が求められると従来から言われている。触媒としての役割とは、潜在的な意識を表面化させることである。具体的には、大気汚染などの公害被害を受けながらもどのように意見表明をしていいかわからない住民の声を集めて、その声を政府や加害者に伝えるといった場合がある。その場合、住民が抱く潜在的な問題意識に働きかけることになる。一方、新たに開発された住宅地で、住民同士が交流する夏祭りのようなイベントを開催して親交を深めるというような場合もある。その場合は、住民の潜在的な交流意欲に働きかけることになる。何れにしても、住民に「その気」になってもらうために、コミュニティ・オーガナイザーは様々な方法を駆使する。

綺麗事を言ってしまえば、コミュニティ・オーガナイザーという触媒なしで住民が自ら立ち上がり、行動を起こすことが望ましい。しかし、組織化が自然発生する確率は低く、多くの場合お互いを牽制しあって誰も行動を起こさず、機を逸してしまうということが少なくない。したがって、第三者であるコミュニティ・オーガナイザーがその地域に関与することで、潜在的な意識を集めて、行動へと繋げるのである。

新しい総合事業に関していえば、今後、各地で事業が推進されるにつれ、住民に「その気」になってもらうための方法論が蓄積されていくことが期待される。その結果、住民の触媒としての生活支援コーディネーターの専門性が地域の中に浸透していくかもしれない。地域住民に効率よく「その気」になってもらうことが高い評価につながるようになる。その時に、生活支援コーディネーターはふと思うかもしれない。自分は何のために人に「その気」になってもらっているのだろうか、と。生活支援コーディネーターにとっての「大義」は何か、と。そこを見失ってしまうと、生活支援コーディネーターという仕事は精神的に消耗するものになるだろう。

私自身、ニューヨークでコミュニティ・オーガナイザーとして働いていた時にそのようなジレンマを抱いていた。次回はそのことについて書きたいと思う。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.29

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第226号,2016年6月.

実践の糧」vol. 29

室田信一(むろた しんいち)

「良い実践」が一人の優れた実践者の功績として讃えられることや、反対に「その人にしかできない特異な実践」として片付けられてしまうことがある。実践とは大なり小なり「その人にしかできない」ものである。

「良い実践」と「良くない実践」の違いとはなんだろうか。成果(アウトカム)によって評価されるものだろうか。過程(プロセス)によって評価されるものだろうか。そもそも実践に対して「良い」や「良くない」といった評価を下すこと自体がナンセンスなのではないだろうか。かつての「良い」実践はいつしか時代遅れの実践になるだろうし、ある人が高く評価する実践は、他者からすると評価に値しない実践ということもある。

ただし、ある時代の、ある与えられた状況の中で多くの人が望ましいと思う実践は存在する。それらの実践はその時代の多くの人が求める実践であって、万人に通用する実践とは限らないが、「時代のニーズ」を捉えているという点において注目に値する。それらの実践は、従来の実践が用いてきた(課題を捉える)レーダーを刷新することや、従来の枠組みでは対応できていなかった課題に対応する術を示すものである。

昨今、子ども食堂の実践が各地で注目を集めている。しかし、地域で孤立している住民に対して会食の場を提供する実践はこれまでも取り組まれてきた。その多くは高齢者に対するものであったが、その対象を子どもや子育て世帯に広げたことで「子ども食堂」は注目されるようになっている。全国で爆発的に子ども食堂が増えているように、その実践自体は比較的取り組みやすいものである。その術(スキーム)を示した点において、先駆的な実践は注目に値する。

その「時代のニーズ」を捉えた実践は、複製可能なものとしてモデル化され、さらに実践の段階で複製可能な形にマニュアル化されていく。そのマニュアル通りに実践をしてもオリジナルである〇〇さんの実践のようにうまくはいかない、という評価が与えられたりする。

アメリカ人はマニュアル化することに長けているとよく言われるが、それはそもそもマニュアルを利用する人がマニュアル通りに実践しないことを前提にしているからだと思う。そのため、大胆であったとしても、その人やその組織にしかできないオリジナルの実践をマニュアル化して示すことを試みて、そのマニュアルが他者によって更新され、改善されることを期待する。そもそも万人に通用する実践をマニュアル化しようとは思っていないから、実践の要点を抽出することで分かりやすいマニュアルが作れるのではないかと思う。

この人にしかできないことやこの組織にしかできないこと、ということをもう少し堂々と述べてもいいのではないだろうか。その特異な実践が「偉人による実践」として崇められるのではなく、「編集可能な姿」で示されることで、次の新たな実践が生み出され、蓄積されていくだろう。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.28

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第225号,2016年4月.

実践の糧」vol. 28

室田信一(むろた しんいち)

「一人のカリスマリーダーの力では社会は変わらない」とよく言われるが、それについてもう少し丁寧に考える必要があると思う。カリスマリーダーは本当に求められていないのか。そもそもカリスマリーダーは世の中に存在するのか。

カリスマリーダーにはワンマンとしてのイメージが伴うため、市民社会や民主主義を信望する者は、カリスマリーダーの存在を理想的な社会からかけ離れたところに位置づける傾向がある。どちらかというと私もその口だが、どうも私たちはその「頭の中のカリスマリーダー像」に惑わされているのではないかと思うことがある。

市民活動(ここではボランティア活動を含めてそう呼ぶ)をしていると、カリスマリーダーと呼ばれる人に出会うことがある。しかし私がこれまで出会った人たちは、いわゆる人間的な魅力で周囲を巻き込むカリスマリーダーというよりも、むしろ「思いの強い人」たちであったように思う。その人たちは思いの強さによって周囲の人間や組織を巻き込み続けていた。そして、その人が歩みを止めると、その動きは止まってしまう。従って、そのようなリーダーでは社会を変えることができないといった評価が下される。

しかし、市民活動のように他者の関与を前提とする活動の場合、その背景に「思い」がなければ何も始まらないだろう。強い思いは市民活動の原動力となる。

カリスマリーダーという時、その人には他の人が努力しても得ることができない生まれもった才能が備わっていると考えることが多いと思うが、私は市民活動の領域でそのような人に出会ったことがない。芸術の分野などでカリスマ性を備えた人が活躍することは少なくないと思うが、市民活動のリーダーにそのような人はいるのだろうか。市民活動でカリスマリーダーと呼ばれる人は、実は「思いの強い人」であって、それは特別な才能をもっている/もっていないという二元論で区分される人ではなく、思いの強さのグラデーションの中に存在する人なのではないだろうか。

そう考えると、「あの人はカリスマリーダーだから社会を変えることはできない」と揶揄されている人は、実は不当な評価を受けているのかもしれない。もちろん中にはカリスマ性を備えた人もいるかもしれないが、多くの場合、カリスマリーダーと呼ばれる人も、実は私やあなたと同じように何かしらの「思い」を抱き、社会に対して行動を起こしている人であって、その思いの強さがゆえに、周囲から「カリスマ」のカテゴリーの中に押し込められてしまっているのかもしれない。

むしろ、「思いの強さ」と同時に重視しなければならないことは、「思いの密度」である。その強い思いが推進されるための具体的で綿密な計画があり、その計画が遂行されるための工程表があるのか。その工程表は他者が関与できるような設計になっているのか。他者の関与を可能にするための仕組みが含まれているのか。

「思いの強さ」とは別の「思いの密度」という尺度でその人物を評価したとき、カリスマの有無とは関係なく、社会を本当に動かす人かどうか、正当な評価を下すことができるのではないだろうか。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。