シリーズ『実践の糧』vol.28

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第225号,2016年4月.

実践の糧」vol. 28

室田信一(むろた しんいち)

「一人のカリスマリーダーの力では社会は変わらない」とよく言われるが、それについてもう少し丁寧に考える必要があると思う。カリスマリーダーは本当に求められていないのか。そもそもカリスマリーダーは世の中に存在するのか。

カリスマリーダーにはワンマンとしてのイメージが伴うため、市民社会や民主主義を信望する者は、カリスマリーダーの存在を理想的な社会からかけ離れたところに位置づける傾向がある。どちらかというと私もその口だが、どうも私たちはその「頭の中のカリスマリーダー像」に惑わされているのではないかと思うことがある。

市民活動(ここではボランティア活動を含めてそう呼ぶ)をしていると、カリスマリーダーと呼ばれる人に出会うことがある。しかし私がこれまで出会った人たちは、いわゆる人間的な魅力で周囲を巻き込むカリスマリーダーというよりも、むしろ「思いの強い人」たちであったように思う。その人たちは思いの強さによって周囲の人間や組織を巻き込み続けていた。そして、その人が歩みを止めると、その動きは止まってしまう。従って、そのようなリーダーでは社会を変えることができないといった評価が下される。

しかし、市民活動のように他者の関与を前提とする活動の場合、その背景に「思い」がなければ何も始まらないだろう。強い思いは市民活動の原動力となる。

カリスマリーダーという時、その人には他の人が努力しても得ることができない生まれもった才能が備わっていると考えることが多いと思うが、私は市民活動の領域でそのような人に出会ったことがない。芸術の分野などでカリスマ性を備えた人が活躍することは少なくないと思うが、市民活動のリーダーにそのような人はいるのだろうか。市民活動でカリスマリーダーと呼ばれる人は、実は「思いの強い人」であって、それは特別な才能をもっている/もっていないという二元論で区分される人ではなく、思いの強さのグラデーションの中に存在する人なのではないだろうか。

そう考えると、「あの人はカリスマリーダーだから社会を変えることはできない」と揶揄されている人は、実は不当な評価を受けているのかもしれない。もちろん中にはカリスマ性を備えた人もいるかもしれないが、多くの場合、カリスマリーダーと呼ばれる人も、実は私やあなたと同じように何かしらの「思い」を抱き、社会に対して行動を起こしている人であって、その思いの強さがゆえに、周囲から「カリスマ」のカテゴリーの中に押し込められてしまっているのかもしれない。

むしろ、「思いの強さ」と同時に重視しなければならないことは、「思いの密度」である。その強い思いが推進されるための具体的で綿密な計画があり、その計画が遂行されるための工程表があるのか。その工程表は他者が関与できるような設計になっているのか。他者の関与を可能にするための仕組みが含まれているのか。

「思いの強さ」とは別の「思いの密度」という尺度でその人物を評価したとき、カリスマの有無とは関係なく、社会を本当に動かす人かどうか、正当な評価を下すことができるのではないだろうか。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.27

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第224号,2016年2月.

実践の糧」vol. 27

室田信一(むろた しんいち)

私はしばしば、コミュニティを組織することを演劇の舞台に例えて表現する。演者がその舞台に馴染み、生き生きとその演目を演じることと、コミュニティの中でワーカーが当事者や住民を組織して、彼(女)らが声を発するための場を設定することには、多くの共通点がある。そうした解釈は、前回紹介した『黒子読本』のように、コミュニティワーカーを「黒子」として捉えることにも通じるかもしれない。しかし、前回も述べたように、頭巾で顔を隠して、自身を表に出さない黒子像は刷新される必要があると、私は考える。

アウグスト・ボアールというブラジルの演劇活動家がいる。『被抑圧者の演劇』の著者であり、その演劇の実践を広く普及したことでも知られている。ボアールは演劇の舞台を通して、演者と観客がダイアローグ(対話)を重ね、生活の中で直面している課題についてお互いが意識的になる場を設ける。その解決策を一緒に考え、それを舞台上で表現するのが被抑圧者の演劇である。

私もニューヨークに住んでいた頃に被抑圧者の演劇のワークショップに参加したことがある。そのワークショップでは、まるでコミュニティにおける実践が凝縮されたような感覚を得る。参加者は自分の身体を使って感情や考えを表現する。その表現の過程を通して「主体性」が育まれていくのである。ワークショップをファシリテートするのは、舞台裏の監督でも、頭巾をかぶった黒子でもない。演者自らが参加者とのダイアローグを通してその舞台を創り出し、自身も新たな意識化を経験するのである。

ワーカーにはその演者のような関与が求められる。コミュニティの活動では、身体も重要な要素であるが(例えば、会議での表情や会話する時のボディランゲージなど)、身体以上に言語が大きな意味をもつ。集会などでワーカーが発言する際に教科書どおりの「おきまりのセリフ」を並べてしまうと、一瞬でその舞台から人の心が離れていってしまう。

「住民の主体性が大切です。」

「この実践はまさに〇〇の機能と言えます。」

「皆さんの支え合いによって生活は守られています。」

心のこもっていない言葉の積み重ねによって、その実践からは魂が抜けていってしまう。残念なことに、魂の抜けたコミュニティを無理やり組織するために、地域のヒエラルキー構造やカリスマ性に依存する組織化(もはやそれは組織化とは呼べない)が展開されるのである。

今日もどこかで三文芝居が上演されている。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.26

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第223号,2015年12月.

実践の糧」vol. 26

室田信一(むろた しんいち)


『黒子読本』という社協コミュニティワーカーのためのブックレットがある。栃木県社協の有志が中心になって作成しているものだ。コミュニティワーカーにとっての実践の「ツボ」をわかりやすく整理しており、とてもよく出来ている。『黒子読本2』まで発行されていたが、新たに『黒子読本3』ができたということで、楽しみだ。

しかし、その社協のコミュニティワーカーを「黒子」と位置付ける考え方に違和感を感じるのは私だけだろうか。社協には住民主体の原則という考え方がある。そのため「社協ワーカーは黒子たれ」と言われてきた。しかし、近年、社協のコミュニティワーカーも個別支援をすることが求められ、「個」を見て、その「個」とワーカーが向き合うことが求められてきている。そのことが、戦後、日本で展開されてきた「コミュニティワーク」を次の段階に移行させたのではないかと私は見ている。

戦後のコミュニティワークでは、「住民主体」の掛け声のもと、住民組織が自分たちで活動の目標を定めて、その目標に向かって取り組むことをサポートしてきた。そこで見える住民像は、通常、強い「住民」である。地域という独特な政治力学の中で、潰されることなく、「住民」の声として表に出てきた声に、社協ワーカーは耳を傾けることを期待される。

しかし、本来、社協ワーカーが耳を傾けなければならない声は、地域の中で埋没してしまう声なのではないだろうか。その埋没してしまう声を尊重することは、「住民主体」によって導かれた「住民」の意思と相容れないかもしれない。地域で仕事をすると、必ずと言っていいほどこのようなジレンマに陥ることになる。

その時、黒子には何ができるのか。見て見ぬ振りして主役である「住民」の活動をサポートするのか。黒子らしく、裏で画策して、「住民」の目の届かないところで地域の中で排除された存在をサポートするのか。それとも、黒子の頭巾を外して、対等な存在(一人の人間)として「住民」に向き合うのか。

いま、現場で求められているのは、最後のような選択をするコミュニティワーカーなのではないだろうか。そのような意味では、日本のコミュニティワークは「ポスト黒子」の時代に突入している、というのが私の考えだ。さて、『黒子読本3』がどれくらいそうした新しい黒子像を示してくれているのか、今から読むのが楽しみである。

黒子読本』(栃木県社会福祉協議会)
黒子読本2』(栃木県社会福祉協議会)
黒子読本3』(栃木県社会福祉協議会)

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.25

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第222号,2015年10月.

実践の糧」vol. 25

室田信一(むろた しんいち)


こんにち求められる地域の実践とはどのようなものであり、そうした実践にとってどのような研修が必要かについて考えてきた。今回は、いよいよどのような研修の仕組みが必要かをお伝えしなければならないが、これは思ったほど簡単ではない。

従来の知識を伝達するタイプの研修ではない、ということは言えても、この記事の中で具体的なプログラムを示すことは難しい。そこで、研修に求められる重要な要素を一つ取り上げたい。

それは「質問する力」を養うための訓練が含まれていることである。「質問する力」というのは、相手がなぜある考えに至ったのか、その思考の中身やプロセスを追求するための質問であり、クリティカル・シンキングを生み出すための質問と言える。社会福祉の教育が従来から重視してきた自己覚知にとって、クリティカル・シンキングは必須と言える。ところが、そのクリティカル・シンキングのトレーニングが、実践と結びつけて考えられることは多くない。

実践の場面に即して「質問する力」を養うためには、研修の中で質問する方法を教えることが重要である。私が提供する研修では、よくロールプレイの振り返りの進め方において質問する方法を教えている。

例えば、3人一組になり、ワーカー役と相談者役、観察者役に分かれてロールプレイをおこなう。観察者役はロールプレイの間におこなわれる細かなやり取りをメモする。ロールプレイ終了後に観察者役はワーカー役と相談者役の会話で気になった部分について質問をする。例えば、ワーカー役に対して「借金の額はどれくらいですか、と聞いていましたが、それはどのような意図があったのですか」と質問する。ワーカーは何らかの意図があってその質問をしているはずである。もしくは、質問することによって、何も意図していなかったということが明らかになるかもしれない。もし何か意図していたとしたら、その意図が果たして効果的だったのか、その事実を相談者役の人に質問することで確認できる。「ワーカー役の人から借金の額について聞かれた時、どのように感じましたか?」この質問に対する相談者役が感じた思いを話してもらうことで、日々の相談援助における何気ない言葉の使い方や話の運び方が、相手にどのように受け取られているのかについて意識的になることの重要性に気がつくと思う。

そうした「質問する力」は研修の中に限らず、日々の実践の中でも重要である。自分がおこなっている相談援助の進め方、他機関との連携の進め方、職場内での調整の進め方など、意図はなんだったのか、その意図は相手に伝わったのか、と自問自答することが求められる。「一つの正解」が無い地域の実践だからこそ、そのようにして不確実性の中で行動する力が養われなければならない。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.24

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第221号,2015年8月.

実践の糧」vol. 24

室田信一(むろた しんいち)


ソーシャルワークという職業に対する社会的認知が高まるにつれ、ソーシャルワーカーの雇用を前提とする施策も各方面で広がってきている。そうした施策に基づく事業では、ソーシャルワーカーの業務内容を法によってがんじがらめにするのではなく、一定の裁量を与え、ソーシャルワーカーが独自の判断によって実践を展開することが期待される。

そのため、ソーシャルワーカーの配置が推進されるとともに、ソーシャルワーカーの実践スキルを高めるための研修が各方面で進められてきている。そこでは、従来の学校教育に見られるような、詰め込み型で、受講者に答えを与えるような学びは全く効果を発揮しない。なぜなら、ソーシャルワークの実践では、二つとして同じ事例は存在しないので、マニュアル通りの答えを求めるような実践は通用しないのである。

そこで、具体的な事例を用いて、その事例に直面した時にソーシャルワーカーがどのように対応することができるか、という現場での「考え方」について学び合う研修が提供されている。事例検討やケースメソッドなどがそれに当たる。しかし、事例を用いる研修にも落とし穴がある。事例を用いる研修は、ソーシャルワーク実践の複雑性を肌で感じることができる。その一方で、それらの研修では、事例の複雑性を「複雑なもの」として受け入れるのではなく、ある枠組みを用いて整理することを訓練する傾向にある。よく目にする枠組みは、「本人の求め」や「課題」「強み」「資源」などの項目によって事例を整理して分析しようとするものである。

そうした分析をおこなうことは、受講者に何を生み出すのだろうか。複雑なものを理解したという達成感とともに、事例に向き合うための「考え方」が身につくことが期待される。気になることは、そのような研修で大切にされていることは、受講者が「頭」で事例を理解するという側面であり、それはソーシャルワーカーという仮面をつけた状態での学びになっているということである。その仮面の内側には、偏見に満ちた自分や、地域住民と向き合うことに怯えている自分、ある状況が許せなくて怒りに震えている自分などがいるのかもしれない。しかし、そうした「仮面の内側」の部分(=無意識の部分)はとりあえず横に置き、ソーシャルワーカーという仮面をつけて、自分の人生とは直接関係ないその事例に向き合い、そして検討する。

そのような研修では、現場で人の人生に関わることを専門にするソーシャルワーカーの「心」は育たないのではないか、という問題意識を共有して今回は終えたい。次回は、「仮面の内側」の自分に接近する、無意識に意識的になる研修の方法について考えてみたい。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.23

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第220号,2015年6月.

実践の糧」vol. 23

室田信一(むろた しんいち)


前回は、地域の様々な機関にソーシャルワーカーが配置され、お互いに連携しながら相談援助を提供することが求められるようになってきた近年の社会福祉の状況について概説した。今回は、そのような状況で活動するソーシャルワーカーに求められる研修のあり方について書きたい。

ソーシャルワーカー向けの研修で重要なことは、参加者にとって、本人が無意識な部分に意識的になる機会を提供することだと私は考える。日々の実践の中で、ある特定の考え方に固執していたり、国の政策動向に流されて、本来大切にしなければいけない価値観を見失っていたり、当事者と接するときに、たとえばその人の障害特性から援助方針を一方的に決めてしまっていたり、ということは誰にでも起こりうることである。自分は現場経験も豊富なので、そういう失敗はない、と思っている人は要注意である。むしろ、現場経験が長い人ほど、その間に培われてきた固定観念から自分を解放することが難しくなったりするものである。研修を通してそうした自分の無意識な部分に気づくことで、実際の相談援助の場面において、自分がなぜそのような判断をするのかということに自覚的に相談者と向き合うことができる。

最近感じたことは、日本の社会福祉の現場では、10年ほど前まで就労を通した自立支援ということがそこまで強調されていなかったし、5年ほど前までは、就労支援に関与するのは一部のソーシャルワーカーの仕事と考えられていたが、生活保護受給者数が戦後最大規模にまで増加した昨今では、就労を通した自立という考え方が所与のものとなっている。就労を通した自立を否定するつもりはないが、相談援助を通して就労に結びつけることこそがソーシャルワーカーに対する社会的な評価につながる、と考えるワーカーが増えていることに対しては強い違和感を感じる。むしろ、そのように政策誘導されている状況に対して批判的になって欲しいと思う。

ソーシャルワーカー向けの研修では、そうした無意識の部分について気づきを得る場をつくり、そうした気づきについて共有しあうための安全な環境を整えることが最も重要だと考える。また、研修を通して、本来大切にしなければならない価値観が大切にされていない状況があることに気づいたとしたら(もしくは、薄々気づいていたことが共通認識として表出したら)、いかにしてその状況を改善できるかということについて検討することも含めて、改めて自分たちが置かれた状況に意識的になる機会が研修の場であるべきだと考える。

その具体的な研修の方法や内容に関しては次回以降で詳しく触れたい。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.22

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第219号,2015年4月.

実践の糧」vol. 22

室田信一(むろた しんいち)


日本のソーシャルワークの源流をたどると、イギリスやアメリカからほとんど遅れをとることなく、19世紀の後半には一部の地域で先駆的な実践が始まっていた、という見解がある。ただし、全国的にソーシャルワークの実践が展開されるような仕組み作りとなると、1990年代からようやくその準備が始まったという見方が強い。2000年代以降になると、高齢福祉分野を皮切りに相談援助を専門とするワーカーを地域に配置する政策が推進されるようになり、いよいよ今年度から生活困窮者自立支援事業や地域包括ケアシステムの構築に向けた諸施策、子ども・子育ての支援制度が始まり、「支援員」や「コーディネーター」と名のつくワーカーが全国各地、様々な分野で配置されるようになる。

ようやく日本もソーシャルワーカーがいる社会になりつつあると言えるのかもしれない。しかし、最初にコミュニティソーシャルワーカーなどのワーカーが地域に配置された時には、それまで日本で相談援助を担ってきた福祉分野の行政職員や関連機関の相談員、民生委員などはソーシャルワーカーがいる社会というものに慣れていないため、海のものとも山のものとも思えないその存在とどのように付き合っていけばいいのかわからずに戸惑っていたことが思い出される。

たとえば、ある地域に地域包括支援センターがあり、同じ地域の別機関にコミュニティソーシャルワーカーが配置されている場合、「どちらの機関に相談すればいいのかわからない」「ややこしい」「一元化してほしい」といった言葉をよく耳にした。これからは、一つの地域にいろいろなワーカーが、いろいろな形態で、いろいろな財源によって配置される時代になっていくだろう。また、かつてのように高齢に関わる相談はA機関、障害に関わる相談はB機関、というような考え方ではなく、地域で相談援助を担う機関はあらゆる相談の最初の受け皿となり、必要に応じて他の機関と連携し、お互いに協力しながら、複合的な観点で相談援助を提供するような仕組みになっていくだろう。

そこで相談援助に携わるソーシャルワーカーには、地域の中にどのような事業所があり、どのようなサービスを提供しているのか、めまぐるしく移り変わる現場の実態を把握し続け、適切な情報に基づいて相談に乗ることが求められるだろう。さらには、地域の状況を俯瞰的に捉え、その環境を変えるための働きかけも求められる。そのためには、高度なコミュニケーション能力と連絡調整能力、ネットワークを創り出す能力、状況を分析する能力が求められる。

しかし、それらの能力を身につけるための教育や研修の方法が確立されているかというと、甚だ疑問である。次回は、今の時代のソーシャルワーカー養成に求められる教育・研修について言及したいと思う。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol. 21

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第218号,2015年2月.

実践の糧」vol. 21

室田信一(むろた しんいち)


私は普段大学で教えているが、自分が担当する授業で遅刻を厳しく取り締まることをしない。おごりと言われるかもしれないが、強制力ではなく、自分の授業の魅力で学生を授業に呼び込みたいと思っている。学生の遅刻数は自分の授業を評価するための一つのバロメータと考えている。

しかし、先日の授業では定刻に来た学生は20人中5人だった。ほとんどの学生が遅刻したことになる。さすがに5人はひどいと思った。定刻に来ている学生に申し訳ないと思った。2時限目の授業であるため、遅刻の理由は朝起きられないということかもしれない。私の授業は冬の朝の温かい布団の魅力に負けてしまったわけだ。

私は講義を始めるべきか、人数がある程度集まるまで待つべきか悩んだ。悩んだので、定刻に集まっている学生にどのように進めるべきか尋ねることにした。異なる意見が出たものの、結果的には講義を始めてほしいという意見が総意になったので、講義を始めた。

講義を始めると、一人、また一人学生が登場した。しかし、やりにくさは全く感じなかった。なぜなら、学ぶ意欲のある学生の声を聞き、その学生の希望に応じて、その学生たちが満足できる内容の授業を提供するという意識が私自身の中に芽生えていたからである。その日はいつも以上に自分が集中して講義できていると感じたし、遅刻してきた学生含めて、その日の学生の反応はとても良いものとなった。

“Let the People Decide(人々に決断させよ)”

これは、アメリカのコミュニティ・オーガナイジングの歴史に関する本のタイトルである。こんな基本的なことを自分が忘れてしまっていたことに気付かされた。

社会福祉の制度改変や、予算の削減などにより、当事者(利用者)が不利益を被ることがある。そのような時、ソーシャルワーカーは当事者にはその全体像を示さずに、水面下で問題を鎮圧しようと試みることがあるかもしれない。むしろ、ソーシャルワーカーにとって重要なことは、制度の改変について正確な情報を当事者に伝えることであり、その上で当事者の判断を仰ぐことである。複雑な社会福祉制度を理解することは当事者にとって容易なことではないかもしれないが、それを分かりやすく伝えること、そして当事者の意志に基づく判断を尊重することが求められる。

ソーシャルワーカーの役割はその当事者の声がしかるべきところに届くように働きかけることである。

まずは当事者の本音を聴くところから始めて、対話をする。そんな当たり前のことが、大学や社会福祉の現場を変えることの第一歩になる。わかっているはずなのに、ついつい忘れてしまう。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol. 20

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第217号,2014年12月.

実践の糧」vol. 20

室田信一(むろた しんいち)


私がかつてコミュニティ・オーガナイザーとして働いていたニューヨーク市には市内各地で活動する非営利組織を支援する中間支援団体が数多く存在した。私は市内のセツルメントで移民コミュニティの支援に関わっていたため、日々の業務の中で移民支援や住宅支援、ホームレス支援、市民教育、セツルメントなどの領域に関わる中間支援団体と連携していた。

私自身、住宅関連の問題を取り扱う非営利組織の中間支援団体で1年間インターンシップをしていた経験がある。中間支援団体の主な業務は政府の政策分析や、会員組織への情報提供、研修プログラムの提供、政府や他の民間団体との交渉、会員組織のニーズの把握とそれらのニーズへの対策の検討など、日本の中間支援団体の業務とそれほど変わらない。日本の中間支援団体と最も異なるのはオーガナイザーが雇用されている中間支援団体があるという点であろう。中間支援団体のオーガナイザーの主な業務は、会員組織の職員と連携してキャンペーンを企画、推進することである。

当時、私が担当することになったキャンペーンは、市内各地の集合住宅における住宅改修に対する行政の監督業務を徹底させるというものだった。ニューヨーク市には、劣悪な住宅に対して、そのオーナーが改修を怠った時にそれを監視し、オーナーに対して警告することを専門にする部署がある。警告を受けたオーナーが改修をしない時には、罰金が科されることもあるが、実際にはそうした監督業務が徹底されていないことが多く、住民の中には劣悪な住環境に困っている人が少なくなかった。

中間支援団体のオーガナイザーとしての私の役割は、市内で住宅問題を取り扱っている団体を訪問し、各地にどのようなニーズがあるのかを確認することであった。各団体がキャンペーンを推進するにあたり、活動を牽引することになると思われる人材と連絡を取り、一人一人を訪問して、その担当者が抱いている問題意識について話を伺う。そこでは、お互いがどのような経緯でオーガナイザーとして働くことになったのか(当時の私はまだインターンではあったが)というような話を織り交ぜながら、お互いが共通の目的に向かって日々活動しているということを確認し、キャンペーンを推進するための協力体制を整えていった。

地域住民をオーガナイズするにしても、中間支援団体として会員組織や傘下の組織をオーガナイズするにしても、まずはそのキャンペーンや活動に参加するメンバーと個別の会議を重ね、信頼関係を構築することが基本である。しかし、組織として、とりわけ財政的な余裕がなくなると、次第にそうした丁寧な実践から遠ざかるようになってしまうことがある。それが悪循環の始まりということがわかっているにもかかわらず。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol. 19

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第216号,2014年10月.

実践の糧」vol. 19

室田信一(むろた しんいち)


前回は、私が東京都某市の社協の地域福祉活動計画推進員会の会議で新たな推進方法を導入した話を書かせていただいた。具体的には、第一回目の会議で、会議の司会や記録係、会議のルールなどについて意見を出し合い、会議の進め方を決めるということをした。そのような会議の進め方に慣れていない委員からは、戸惑いの声がもれ、まだ一回目の会議だし、出会ったばかりなので、とりあえずやりながらいろいろと決めていけばいいのではないかという意見が出た。そのような意見を言う人は、大抵は声の大きい人で、現状(形式的な進め方)に満足している人である。

事務局はそのような声に流されそうになっていたが、私は諦めなかった。とりあえずやるにしても、誰が司会を担うか決めなければ会議が進まないことを強調し、他の委員の意見を聞いてみた。全員が意見を求められている雰囲気をつくるように努めた。

すると、ぽつりぽつりと意見が出始める。自分のボランティア・グループでは代表が司会をすることが多いが、一人で司会をするのは大変だとか、持ち回りでやってみてもいいかもしれないとか、自分が出る会議では司会を持ち回りにしているとか。そのような意見から、司会は持ち回りということになった。

記録に関してはある程度の作業が伴うため、事務局に一任することになった。事務局一任ということは、通常通りの方法といえるが、その内実はかなり異なる。司会が持ち回りであるために、事務局が次回の司会者と会議の進行を準備する際に、前回の議事録を参考に準備をすることになる。委員が客体化された会議では、議事録すらも形骸化してしまい、その内容に目を配る人が次第にいなくなることがある。しかし、議事録が実際に使われるものになったことで、社協の職員も緊張感をもって記録を取るようになった。一人一人の声に意味をもたせたことにより、発言の内容が丁寧に扱われることになった。

そして会議のルール決めである。いきなりルールを決めるといわれても、何を決めたらいいかわからないという声が多かった。そのために、ルールはこれから会議を進める中で書き加えていこうという話になった。そして迎えた2回目の会議、障害のある一人の委員からこんな要望が出た。会議で発言が出た時に、顔を覗き込むことができないために誰が発言しているかわからないことがあるので、発言の前に名前をいってもらえると助かる。このルールはすぐに採用された。事務局主導の会議ではこれまでにこのような意見が出ることがなかったが、実はこれまでの会議の進行方法が一部の委員を排除してしまっていたことに皆が気づかされた瞬間であった。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。