シリーズ『実践の糧』vol.31

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第228号,2016年10月.

実践の糧」vol. 31

室田信一(むろた しんいち)

私はニューヨーク市のセツルメントで移民コミュニティのオーガナイザーとして働いていた。私の仕事は、彼らが移民として感じている生きづらさや、彼らが生活の中で権利を侵害されたと感じることなど、彼らの話を聞き(つまり、アセスメントして)、その課題に対して集合的に働きかけるためのリーダーを養成し、彼ら自身が活動の目標を掲げることを支援し、その活動を側面から支援するというものであった。前号の表現を引用すると、移民の彼らに「その気」になってもらうための触媒としての役割を果たしていたことになる。

そのようにボトムアップで意思決定をして活動に取り組むこともあれば、一方で、他の関係機関から提案された目標に向かって活動に取り組むこともある。たとえば、移民支援の中間支援団体から人権侵害の問題に対してアクションを起こすので、協力の要請がかかることがある。具体的には、○月○日に開催される集会に、当事者である移民を何人動員できるかといった要請である。

草の根の活動だけで政治的な変化を生み出すことは容易ではないが、小さな団体同士が連合体を組み政治的な圧力をかけることで変化を生み出す可能性は高まる。キャンペーン成功の鍵は、どれだけ多くの当事者を動員して、政策決定者である政治家や官僚に「無視することはできない」と思わせることである。より多くの当事者を動員することがコミュニティ・オーガナイザーの評価につながる。つまり、どれだけ多くの人に「その気」になってもらうかがオーガナイザーの手腕になる。取り組みの内容は異なるが、日本のコミュニティワーカーや生活支援コーディネーターが住民に「その気」になってもらうように働きかけることと原理的には同じである。

私にとってコミュニティ・オーガナイザーが天職だと感じたのは、この「その気」になってもらう働きかけが得意だったからである。働きかけようとしている課題が、当事者である移民の生活にどのように影響を及ぼすのか、なぜ影響を及ぼすのかについて丁寧な対話を繰り返した。あくまでも当事者である彼らの声を尊重して、意思決定を重んじた。強引な動員は絶対にしなかった。そうした手続きを重んじることが結果に結びついた。私がコミュニティ・オーガナイザーとして勤務してから市内の大きな集会などにコンスタントに動員することができ、中間支援団体からも一目置かれるようになった。

優れたコミュニティ・オーガナイザーがいることで、その団体に関わっている当事者はそれだけ自分たちの声を政治に反映することができる。声を反映させるそうした手続きは、中間支援団体による政策提案と政治的交渉、草の根団体による当事者の動員というように分業化されている。現代社会の政治的な意思決定のペースは早く、そのペースに合わせて当事者は「その気」になり、動員に加担する。

社会が回転するペースに合わせなければ、住民や当事者は社会の動きから取り残されていく。そのため、橋渡しをする役割がオーガナイザーやワーカーの仕事であるが、そのペースを住民や当事者に課すことは正義なのだろうか。避けることのできないジレンマだった。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.30

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第227号,2016年8月.

実践の糧」vol. 30

室田信一(むろた しんいち)

近年、住民が事業の担い手となることを前提とした政府の政策が増えてきている。社会福祉の領域は国家予算に占めるその割合が大きいため、予算の抑制圧力が強く、結果として住民の関与を求める傾向はより顕著に表れている。介護保険制度の新しい総合事業と呼ばれる領域もその一つである。

新しい総合事業では生活支援コーディネーターと呼ばれる職員が全国に配置され、住民同士による支え合いの活動を各地で推進することが求められている。言い方を変えれば、それまで地域で支え合いの活動など取り組んでこなかった地域住民に「その気」になってもらい、生活支援のための活動を一緒に生み出していくことがその趣旨である。

「その気」になってもらう、というところが重要である。住民に「その気」になってもらうための存在を触媒と形容することがある。コミュニティ・オーガナイザーには触媒としての役割が求められると従来から言われている。触媒としての役割とは、潜在的な意識を表面化させることである。具体的には、大気汚染などの公害被害を受けながらもどのように意見表明をしていいかわからない住民の声を集めて、その声を政府や加害者に伝えるといった場合がある。その場合、住民が抱く潜在的な問題意識に働きかけることになる。一方、新たに開発された住宅地で、住民同士が交流する夏祭りのようなイベントを開催して親交を深めるというような場合もある。その場合は、住民の潜在的な交流意欲に働きかけることになる。何れにしても、住民に「その気」になってもらうために、コミュニティ・オーガナイザーは様々な方法を駆使する。

綺麗事を言ってしまえば、コミュニティ・オーガナイザーという触媒なしで住民が自ら立ち上がり、行動を起こすことが望ましい。しかし、組織化が自然発生する確率は低く、多くの場合お互いを牽制しあって誰も行動を起こさず、機を逸してしまうということが少なくない。したがって、第三者であるコミュニティ・オーガナイザーがその地域に関与することで、潜在的な意識を集めて、行動へと繋げるのである。

新しい総合事業に関していえば、今後、各地で事業が推進されるにつれ、住民に「その気」になってもらうための方法論が蓄積されていくことが期待される。その結果、住民の触媒としての生活支援コーディネーターの専門性が地域の中に浸透していくかもしれない。地域住民に効率よく「その気」になってもらうことが高い評価につながるようになる。その時に、生活支援コーディネーターはふと思うかもしれない。自分は何のために人に「その気」になってもらっているのだろうか、と。生活支援コーディネーターにとっての「大義」は何か、と。そこを見失ってしまうと、生活支援コーディネーターという仕事は精神的に消耗するものになるだろう。

私自身、ニューヨークでコミュニティ・オーガナイザーとして働いていた時にそのようなジレンマを抱いていた。次回はそのことについて書きたいと思う。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.29

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第226号,2016年6月.

実践の糧」vol. 29

室田信一(むろた しんいち)

「良い実践」が一人の優れた実践者の功績として讃えられることや、反対に「その人にしかできない特異な実践」として片付けられてしまうことがある。実践とは大なり小なり「その人にしかできない」ものである。

「良い実践」と「良くない実践」の違いとはなんだろうか。成果(アウトカム)によって評価されるものだろうか。過程(プロセス)によって評価されるものだろうか。そもそも実践に対して「良い」や「良くない」といった評価を下すこと自体がナンセンスなのではないだろうか。かつての「良い」実践はいつしか時代遅れの実践になるだろうし、ある人が高く評価する実践は、他者からすると評価に値しない実践ということもある。

ただし、ある時代の、ある与えられた状況の中で多くの人が望ましいと思う実践は存在する。それらの実践はその時代の多くの人が求める実践であって、万人に通用する実践とは限らないが、「時代のニーズ」を捉えているという点において注目に値する。それらの実践は、従来の実践が用いてきた(課題を捉える)レーダーを刷新することや、従来の枠組みでは対応できていなかった課題に対応する術を示すものである。

昨今、子ども食堂の実践が各地で注目を集めている。しかし、地域で孤立している住民に対して会食の場を提供する実践はこれまでも取り組まれてきた。その多くは高齢者に対するものであったが、その対象を子どもや子育て世帯に広げたことで「子ども食堂」は注目されるようになっている。全国で爆発的に子ども食堂が増えているように、その実践自体は比較的取り組みやすいものである。その術(スキーム)を示した点において、先駆的な実践は注目に値する。

その「時代のニーズ」を捉えた実践は、複製可能なものとしてモデル化され、さらに実践の段階で複製可能な形にマニュアル化されていく。そのマニュアル通りに実践をしてもオリジナルである〇〇さんの実践のようにうまくはいかない、という評価が与えられたりする。

アメリカ人はマニュアル化することに長けているとよく言われるが、それはそもそもマニュアルを利用する人がマニュアル通りに実践しないことを前提にしているからだと思う。そのため、大胆であったとしても、その人やその組織にしかできないオリジナルの実践をマニュアル化して示すことを試みて、そのマニュアルが他者によって更新され、改善されることを期待する。そもそも万人に通用する実践をマニュアル化しようとは思っていないから、実践の要点を抽出することで分かりやすいマニュアルが作れるのではないかと思う。

この人にしかできないことやこの組織にしかできないこと、ということをもう少し堂々と述べてもいいのではないだろうか。その特異な実践が「偉人による実践」として崇められるのではなく、「編集可能な姿」で示されることで、次の新たな実践が生み出され、蓄積されていくだろう。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.28

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第225号,2016年4月.

実践の糧」vol. 28

室田信一(むろた しんいち)

「一人のカリスマリーダーの力では社会は変わらない」とよく言われるが、それについてもう少し丁寧に考える必要があると思う。カリスマリーダーは本当に求められていないのか。そもそもカリスマリーダーは世の中に存在するのか。

カリスマリーダーにはワンマンとしてのイメージが伴うため、市民社会や民主主義を信望する者は、カリスマリーダーの存在を理想的な社会からかけ離れたところに位置づける傾向がある。どちらかというと私もその口だが、どうも私たちはその「頭の中のカリスマリーダー像」に惑わされているのではないかと思うことがある。

市民活動(ここではボランティア活動を含めてそう呼ぶ)をしていると、カリスマリーダーと呼ばれる人に出会うことがある。しかし私がこれまで出会った人たちは、いわゆる人間的な魅力で周囲を巻き込むカリスマリーダーというよりも、むしろ「思いの強い人」たちであったように思う。その人たちは思いの強さによって周囲の人間や組織を巻き込み続けていた。そして、その人が歩みを止めると、その動きは止まってしまう。従って、そのようなリーダーでは社会を変えることができないといった評価が下される。

しかし、市民活動のように他者の関与を前提とする活動の場合、その背景に「思い」がなければ何も始まらないだろう。強い思いは市民活動の原動力となる。

カリスマリーダーという時、その人には他の人が努力しても得ることができない生まれもった才能が備わっていると考えることが多いと思うが、私は市民活動の領域でそのような人に出会ったことがない。芸術の分野などでカリスマ性を備えた人が活躍することは少なくないと思うが、市民活動のリーダーにそのような人はいるのだろうか。市民活動でカリスマリーダーと呼ばれる人は、実は「思いの強い人」であって、それは特別な才能をもっている/もっていないという二元論で区分される人ではなく、思いの強さのグラデーションの中に存在する人なのではないだろうか。

そう考えると、「あの人はカリスマリーダーだから社会を変えることはできない」と揶揄されている人は、実は不当な評価を受けているのかもしれない。もちろん中にはカリスマ性を備えた人もいるかもしれないが、多くの場合、カリスマリーダーと呼ばれる人も、実は私やあなたと同じように何かしらの「思い」を抱き、社会に対して行動を起こしている人であって、その思いの強さがゆえに、周囲から「カリスマ」のカテゴリーの中に押し込められてしまっているのかもしれない。

むしろ、「思いの強さ」と同時に重視しなければならないことは、「思いの密度」である。その強い思いが推進されるための具体的で綿密な計画があり、その計画が遂行されるための工程表があるのか。その工程表は他者が関与できるような設計になっているのか。他者の関与を可能にするための仕組みが含まれているのか。

「思いの強さ」とは別の「思いの密度」という尺度でその人物を評価したとき、カリスマの有無とは関係なく、社会を本当に動かす人かどうか、正当な評価を下すことができるのではないだろうか。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.27

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第224号,2016年2月.

実践の糧」vol. 27

室田信一(むろた しんいち)

私はしばしば、コミュニティを組織することを演劇の舞台に例えて表現する。演者がその舞台に馴染み、生き生きとその演目を演じることと、コミュニティの中でワーカーが当事者や住民を組織して、彼(女)らが声を発するための場を設定することには、多くの共通点がある。そうした解釈は、前回紹介した『黒子読本』のように、コミュニティワーカーを「黒子」として捉えることにも通じるかもしれない。しかし、前回も述べたように、頭巾で顔を隠して、自身を表に出さない黒子像は刷新される必要があると、私は考える。

アウグスト・ボアールというブラジルの演劇活動家がいる。『被抑圧者の演劇』の著者であり、その演劇の実践を広く普及したことでも知られている。ボアールは演劇の舞台を通して、演者と観客がダイアローグ(対話)を重ね、生活の中で直面している課題についてお互いが意識的になる場を設ける。その解決策を一緒に考え、それを舞台上で表現するのが被抑圧者の演劇である。

私もニューヨークに住んでいた頃に被抑圧者の演劇のワークショップに参加したことがある。そのワークショップでは、まるでコミュニティにおける実践が凝縮されたような感覚を得る。参加者は自分の身体を使って感情や考えを表現する。その表現の過程を通して「主体性」が育まれていくのである。ワークショップをファシリテートするのは、舞台裏の監督でも、頭巾をかぶった黒子でもない。演者自らが参加者とのダイアローグを通してその舞台を創り出し、自身も新たな意識化を経験するのである。

ワーカーにはその演者のような関与が求められる。コミュニティの活動では、身体も重要な要素であるが(例えば、会議での表情や会話する時のボディランゲージなど)、身体以上に言語が大きな意味をもつ。集会などでワーカーが発言する際に教科書どおりの「おきまりのセリフ」を並べてしまうと、一瞬でその舞台から人の心が離れていってしまう。

「住民の主体性が大切です。」

「この実践はまさに〇〇の機能と言えます。」

「皆さんの支え合いによって生活は守られています。」

心のこもっていない言葉の積み重ねによって、その実践からは魂が抜けていってしまう。残念なことに、魂の抜けたコミュニティを無理やり組織するために、地域のヒエラルキー構造やカリスマ性に依存する組織化(もはやそれは組織化とは呼べない)が展開されるのである。

今日もどこかで三文芝居が上演されている。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.26

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第223号,2015年12月.

実践の糧」vol. 26

室田信一(むろた しんいち)


『黒子読本』という社協コミュニティワーカーのためのブックレットがある。栃木県社協の有志が中心になって作成しているものだ。コミュニティワーカーにとっての実践の「ツボ」をわかりやすく整理しており、とてもよく出来ている。『黒子読本2』まで発行されていたが、新たに『黒子読本3』ができたということで、楽しみだ。

しかし、その社協のコミュニティワーカーを「黒子」と位置付ける考え方に違和感を感じるのは私だけだろうか。社協には住民主体の原則という考え方がある。そのため「社協ワーカーは黒子たれ」と言われてきた。しかし、近年、社協のコミュニティワーカーも個別支援をすることが求められ、「個」を見て、その「個」とワーカーが向き合うことが求められてきている。そのことが、戦後、日本で展開されてきた「コミュニティワーク」を次の段階に移行させたのではないかと私は見ている。

戦後のコミュニティワークでは、「住民主体」の掛け声のもと、住民組織が自分たちで活動の目標を定めて、その目標に向かって取り組むことをサポートしてきた。そこで見える住民像は、通常、強い「住民」である。地域という独特な政治力学の中で、潰されることなく、「住民」の声として表に出てきた声に、社協ワーカーは耳を傾けることを期待される。

しかし、本来、社協ワーカーが耳を傾けなければならない声は、地域の中で埋没してしまう声なのではないだろうか。その埋没してしまう声を尊重することは、「住民主体」によって導かれた「住民」の意思と相容れないかもしれない。地域で仕事をすると、必ずと言っていいほどこのようなジレンマに陥ることになる。

その時、黒子には何ができるのか。見て見ぬ振りして主役である「住民」の活動をサポートするのか。黒子らしく、裏で画策して、「住民」の目の届かないところで地域の中で排除された存在をサポートするのか。それとも、黒子の頭巾を外して、対等な存在(一人の人間)として「住民」に向き合うのか。

いま、現場で求められているのは、最後のような選択をするコミュニティワーカーなのではないだろうか。そのような意味では、日本のコミュニティワークは「ポスト黒子」の時代に突入している、というのが私の考えだ。さて、『黒子読本3』がどれくらいそうした新しい黒子像を示してくれているのか、今から読むのが楽しみである。

黒子読本』(栃木県社会福祉協議会)
黒子読本2』(栃木県社会福祉協議会)
黒子読本3』(栃木県社会福祉協議会)

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.25

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第222号,2015年10月.

実践の糧」vol. 25

室田信一(むろた しんいち)


こんにち求められる地域の実践とはどのようなものであり、そうした実践にとってどのような研修が必要かについて考えてきた。今回は、いよいよどのような研修の仕組みが必要かをお伝えしなければならないが、これは思ったほど簡単ではない。

従来の知識を伝達するタイプの研修ではない、ということは言えても、この記事の中で具体的なプログラムを示すことは難しい。そこで、研修に求められる重要な要素を一つ取り上げたい。

それは「質問する力」を養うための訓練が含まれていることである。「質問する力」というのは、相手がなぜある考えに至ったのか、その思考の中身やプロセスを追求するための質問であり、クリティカル・シンキングを生み出すための質問と言える。社会福祉の教育が従来から重視してきた自己覚知にとって、クリティカル・シンキングは必須と言える。ところが、そのクリティカル・シンキングのトレーニングが、実践と結びつけて考えられることは多くない。

実践の場面に即して「質問する力」を養うためには、研修の中で質問する方法を教えることが重要である。私が提供する研修では、よくロールプレイの振り返りの進め方において質問する方法を教えている。

例えば、3人一組になり、ワーカー役と相談者役、観察者役に分かれてロールプレイをおこなう。観察者役はロールプレイの間におこなわれる細かなやり取りをメモする。ロールプレイ終了後に観察者役はワーカー役と相談者役の会話で気になった部分について質問をする。例えば、ワーカー役に対して「借金の額はどれくらいですか、と聞いていましたが、それはどのような意図があったのですか」と質問する。ワーカーは何らかの意図があってその質問をしているはずである。もしくは、質問することによって、何も意図していなかったということが明らかになるかもしれない。もし何か意図していたとしたら、その意図が果たして効果的だったのか、その事実を相談者役の人に質問することで確認できる。「ワーカー役の人から借金の額について聞かれた時、どのように感じましたか?」この質問に対する相談者役が感じた思いを話してもらうことで、日々の相談援助における何気ない言葉の使い方や話の運び方が、相手にどのように受け取られているのかについて意識的になることの重要性に気がつくと思う。

そうした「質問する力」は研修の中に限らず、日々の実践の中でも重要である。自分がおこなっている相談援助の進め方、他機関との連携の進め方、職場内での調整の進め方など、意図はなんだったのか、その意図は相手に伝わったのか、と自問自答することが求められる。「一つの正解」が無い地域の実践だからこそ、そのようにして不確実性の中で行動する力が養われなければならない。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.24

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第221号,2015年8月.

実践の糧」vol. 24

室田信一(むろた しんいち)


ソーシャルワークという職業に対する社会的認知が高まるにつれ、ソーシャルワーカーの雇用を前提とする施策も各方面で広がってきている。そうした施策に基づく事業では、ソーシャルワーカーの業務内容を法によってがんじがらめにするのではなく、一定の裁量を与え、ソーシャルワーカーが独自の判断によって実践を展開することが期待される。

そのため、ソーシャルワーカーの配置が推進されるとともに、ソーシャルワーカーの実践スキルを高めるための研修が各方面で進められてきている。そこでは、従来の学校教育に見られるような、詰め込み型で、受講者に答えを与えるような学びは全く効果を発揮しない。なぜなら、ソーシャルワークの実践では、二つとして同じ事例は存在しないので、マニュアル通りの答えを求めるような実践は通用しないのである。

そこで、具体的な事例を用いて、その事例に直面した時にソーシャルワーカーがどのように対応することができるか、という現場での「考え方」について学び合う研修が提供されている。事例検討やケースメソッドなどがそれに当たる。しかし、事例を用いる研修にも落とし穴がある。事例を用いる研修は、ソーシャルワーク実践の複雑性を肌で感じることができる。その一方で、それらの研修では、事例の複雑性を「複雑なもの」として受け入れるのではなく、ある枠組みを用いて整理することを訓練する傾向にある。よく目にする枠組みは、「本人の求め」や「課題」「強み」「資源」などの項目によって事例を整理して分析しようとするものである。

そうした分析をおこなうことは、受講者に何を生み出すのだろうか。複雑なものを理解したという達成感とともに、事例に向き合うための「考え方」が身につくことが期待される。気になることは、そのような研修で大切にされていることは、受講者が「頭」で事例を理解するという側面であり、それはソーシャルワーカーという仮面をつけた状態での学びになっているということである。その仮面の内側には、偏見に満ちた自分や、地域住民と向き合うことに怯えている自分、ある状況が許せなくて怒りに震えている自分などがいるのかもしれない。しかし、そうした「仮面の内側」の部分(=無意識の部分)はとりあえず横に置き、ソーシャルワーカーという仮面をつけて、自分の人生とは直接関係ないその事例に向き合い、そして検討する。

そのような研修では、現場で人の人生に関わることを専門にするソーシャルワーカーの「心」は育たないのではないか、という問題意識を共有して今回は終えたい。次回は、「仮面の内側」の自分に接近する、無意識に意識的になる研修の方法について考えてみたい。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.23

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第220号,2015年6月.

実践の糧」vol. 23

室田信一(むろた しんいち)


前回は、地域の様々な機関にソーシャルワーカーが配置され、お互いに連携しながら相談援助を提供することが求められるようになってきた近年の社会福祉の状況について概説した。今回は、そのような状況で活動するソーシャルワーカーに求められる研修のあり方について書きたい。

ソーシャルワーカー向けの研修で重要なことは、参加者にとって、本人が無意識な部分に意識的になる機会を提供することだと私は考える。日々の実践の中で、ある特定の考え方に固執していたり、国の政策動向に流されて、本来大切にしなければいけない価値観を見失っていたり、当事者と接するときに、たとえばその人の障害特性から援助方針を一方的に決めてしまっていたり、ということは誰にでも起こりうることである。自分は現場経験も豊富なので、そういう失敗はない、と思っている人は要注意である。むしろ、現場経験が長い人ほど、その間に培われてきた固定観念から自分を解放することが難しくなったりするものである。研修を通してそうした自分の無意識な部分に気づくことで、実際の相談援助の場面において、自分がなぜそのような判断をするのかということに自覚的に相談者と向き合うことができる。

最近感じたことは、日本の社会福祉の現場では、10年ほど前まで就労を通した自立支援ということがそこまで強調されていなかったし、5年ほど前までは、就労支援に関与するのは一部のソーシャルワーカーの仕事と考えられていたが、生活保護受給者数が戦後最大規模にまで増加した昨今では、就労を通した自立という考え方が所与のものとなっている。就労を通した自立を否定するつもりはないが、相談援助を通して就労に結びつけることこそがソーシャルワーカーに対する社会的な評価につながる、と考えるワーカーが増えていることに対しては強い違和感を感じる。むしろ、そのように政策誘導されている状況に対して批判的になって欲しいと思う。

ソーシャルワーカー向けの研修では、そうした無意識の部分について気づきを得る場をつくり、そうした気づきについて共有しあうための安全な環境を整えることが最も重要だと考える。また、研修を通して、本来大切にしなければならない価値観が大切にされていない状況があることに気づいたとしたら(もしくは、薄々気づいていたことが共通認識として表出したら)、いかにしてその状況を改善できるかということについて検討することも含めて、改めて自分たちが置かれた状況に意識的になる機会が研修の場であるべきだと考える。

その具体的な研修の方法や内容に関しては次回以降で詳しく触れたい。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.22

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第219号,2015年4月.

実践の糧」vol. 22

室田信一(むろた しんいち)


日本のソーシャルワークの源流をたどると、イギリスやアメリカからほとんど遅れをとることなく、19世紀の後半には一部の地域で先駆的な実践が始まっていた、という見解がある。ただし、全国的にソーシャルワークの実践が展開されるような仕組み作りとなると、1990年代からようやくその準備が始まったという見方が強い。2000年代以降になると、高齢福祉分野を皮切りに相談援助を専門とするワーカーを地域に配置する政策が推進されるようになり、いよいよ今年度から生活困窮者自立支援事業や地域包括ケアシステムの構築に向けた諸施策、子ども・子育ての支援制度が始まり、「支援員」や「コーディネーター」と名のつくワーカーが全国各地、様々な分野で配置されるようになる。

ようやく日本もソーシャルワーカーがいる社会になりつつあると言えるのかもしれない。しかし、最初にコミュニティソーシャルワーカーなどのワーカーが地域に配置された時には、それまで日本で相談援助を担ってきた福祉分野の行政職員や関連機関の相談員、民生委員などはソーシャルワーカーがいる社会というものに慣れていないため、海のものとも山のものとも思えないその存在とどのように付き合っていけばいいのかわからずに戸惑っていたことが思い出される。

たとえば、ある地域に地域包括支援センターがあり、同じ地域の別機関にコミュニティソーシャルワーカーが配置されている場合、「どちらの機関に相談すればいいのかわからない」「ややこしい」「一元化してほしい」といった言葉をよく耳にした。これからは、一つの地域にいろいろなワーカーが、いろいろな形態で、いろいろな財源によって配置される時代になっていくだろう。また、かつてのように高齢に関わる相談はA機関、障害に関わる相談はB機関、というような考え方ではなく、地域で相談援助を担う機関はあらゆる相談の最初の受け皿となり、必要に応じて他の機関と連携し、お互いに協力しながら、複合的な観点で相談援助を提供するような仕組みになっていくだろう。

そこで相談援助に携わるソーシャルワーカーには、地域の中にどのような事業所があり、どのようなサービスを提供しているのか、めまぐるしく移り変わる現場の実態を把握し続け、適切な情報に基づいて相談に乗ることが求められるだろう。さらには、地域の状況を俯瞰的に捉え、その環境を変えるための働きかけも求められる。そのためには、高度なコミュニケーション能力と連絡調整能力、ネットワークを創り出す能力、状況を分析する能力が求められる。

しかし、それらの能力を身につけるための教育や研修の方法が確立されているかというと、甚だ疑問である。次回は、今の時代のソーシャルワーカー養成に求められる教育・研修について言及したいと思う。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。