「対象」≒コミュニティ

二ヶ月ぶりくらいの投稿になってしまいました。まぁ、そんな感じで、マイペースに、好きなときに好きなことを書くスタイルで行きたいと思っているので、ご理解の程を。
しかし、書きたいネタが無いわけではなくて、書きたいことは山ほどあるのに、ゆっくりと文章にする時間が無いんですね。僕もだんだん日本のストレス社会、少子化社会、Workaholic社会にどっぷりつかっていくのでしょうか。こうして、未を粉にした人体実験は続くわけです。スーパーサイズ・ミーのモーガン・スパーロック監督も顔負けです。なんていったって、3ヶ月では終わらないからね、この実験は。(ちなみに、去年は、日本帰国後半年ほどニート体験実習をしていましたが、それも結構きつかったです。)
さて、話題を戻して、今回のテーマだけど、「『対象』≒コミュニティ」としました。この、「対象」と言う概念がどこから出てきたかというと、先日愛知県で行われた日本社会福祉学会主催の第三回政策・理論フォーラムのテーマが「対象論」をめぐってと言うものだったんだけど、今回も、前回に続き、ちょっとした自分のReflectionをお伝えしたいと思います。
フォーラムに参加した人は、きっと僕と同じようなことをかんじていると思いますが、今回のフォーラムは一回目二回目と比べても、後味の悪いものでした。どのように悪かったかと言うと、社会福祉の「対象」を政策的な視点のみで語り合い、「福祉の視点」が全くかけたものになっていたということです。ここで言う「福祉の視点」とは「当事者の視点」のことです。福祉政策からすれば、障害者も児童も、高齢者も、ニートも、フリーターも、引きこもりも、外国人も、母子家庭も、DV被害者も、ホームレスもみんな福祉の「対象」となりうる存在であり、その「対象」は時代の変化と共に変わっていくわけである。それは、政策的に誰を「対象」とするかで変わるわけで、シンポジウムの中で岩田正美先生が言っていたように、ホームレスは常に存在してきたが、政策が変化することで、福祉の対象となったり、ならなかったりしてきたということ。
それでは、誰が福祉の対象であるべきか。それを、政策の視点のみで語ったところで、答えが見つかるのだろうか。それって、結局「知恵の輪」解きでしかないのではないだろうか、と思う。
福祉が福祉たる所以は、その当事者の視点に立ったものの考え方にあるのだと思う。それが失われたときに、それはただの社会科学(現象)や政策科学(べき論)になってしまわないだろうか。
そもそも、「対象」と言う言葉自体が、福祉のコンテクストで使われるときにネガティブなニュアンスを含むと思うが、COの視点に立ったとき、対象化することはいたって、エンパワリングなことである。
例えば、子供が欲しくても養育費や教育費のことを考えると、なかなか生むことができないカップルが多いと思う。これは、少子化の枠組みでは、認識されているが、そうした子供を持てないカップルを福祉の対象として認識するには、まだまだいたっていないと思う。児童扶助や、子育て支援などの動きはあるものの、あくまでも子供を授かったもの対象であり、子供を持つ決心のつかないカップルは対象となっていない(子育て支援が、子作りの引き金になることはありえるが)。このように、対象化されていない対象に対して、自己認識を促し、自分たちが社会的な枠踏みの中で、何かしらの支援を必要としていると言うことを気づかせることが重要ではないだろうか。つまり、「福祉の対象」として認識されていないコミュニティを対象化し、コミュニティとしてまとめることで、政策や法案に反映するような動きをつくりだすことが可能なのではないだろうか、ということなんだよね。
まぁ、端的にまとめると、「対象」を政策の枠組みで語っていても、どんどんと迷路に迷い込んでしまうと言うこと。「対象」とは、その対象者が自ら「対象」と認識して初めて、機能する。パウロ・フレイレがブラジルの未識字コミュニティに対して、conscientizationという手法を通して自己認識を高めたことで、彼らは自分たちを被抑圧者として認め、初めて自分たちの運命・人生に対して向き合い、自らをエンパワーし、社会変革への道を築いた。彼らは、自分たちが識字教育の「対象」であること、そして、それが社会の枠組みの中で、どのようなことを意味しているのかを理解して初めて、その与えられた環境に変化を与えるために行動を起こすことができたわけだ。
「福祉の対象」を語る際に、こうした視点を失ってはいけない。ましてや、オーガナイザーにとって、この視点を失うことは、命取りとなるからね。

CO道

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