Democratization

最近ちょっと気になっている言葉で、「民主化」という言葉がある。といっても、一般的には普段の生活の中で、この言葉を耳にすることはないと思うし、僕が特殊な世界で特殊な人種の人たちと特殊な本ばっかり読んで特殊な議論を行っているから、「民主化」などという言葉が気になったのだと思う。これが、たとえば十数年前であったら、当時はまっていたNBAのネタで、たとえば5年連続ダブル・ダブルの成績を残しているパワーフォワードがインディアナ・ペイサーズからトロント・ラプターズにトレードされたことなどが気になっていた、とか、そういうレベルの話だと思う。いずれにしろ、マニアックな話であることには変わりない。
さて、「民主化」の話に戻るけれど、たとえばどういう文脈で「民主化」の話が出たかというと、アジアの国家の中で構築されている社会的セーフティ・ネット(国民年金や、医療保険制度、公的扶助や、介護保険などの社会保障制度を指す)を南アジアの国家で整備することは可能かという議論に対して、ある台湾の先生が、たとえばインドのカースト制のような社会の民主的な枠組みが整備されていなければ、社会セーフティ・ネットを整備することは困難であるというようなことを言っていた。つまり、インドはまず「民主化」される必要があるという議論である。なるほど。
まぁ、その考え方はわかるし、理にかなっているといえよう。確かに生まれた時点で、国民の社会階層が設定されているところに、平等な社会保障制度を設けても、鯉と金魚が一緒にいる生け簀の中の金魚にえさをやろうとするようなもので、いくら餌をまいても足りないだろう。(あまりいい例じゃないですね、ごめんなさい。)
まぁ、その説明自体は置いておくとして、僕が気になるのは「民主化」という言葉の使い方なんだな。これは、ひょっとしたら僕のトラウマなのかもしれないけど、「民主化」という言葉を聞くとアメリカ合衆国大統領であるブッシュさんの顔が思い浮かぶ。ブッシュ大統領は「民主化」の旗印の下、他の国家の「民主化」を推進するという目的で軍力を用いた強引な国家介入をおこなってきている。その成果がどうであるとか、介入しなかったらどうなったとかは、ここでは議論しないけれど、大切なことは「民主化」という言葉が、強制介入を正当化するために用いられたということ。おそらく、ブッシュ大統領の言うところの「民主化」とは議員代表制で、選挙によって選ばれた国民の代表が国政をまかなうということだと思う。さらには、言論の自由とか、機会の平等とかいろいろあるとは思うけど、まずは議員代表制と選挙制を重要視しているようである。つまり、アメリカン・フリーダムの押し売りである。でもまぁ、言いたいことはわかる。
しつこいようだけど、ここでの問題は、「民主化」という言葉が何を指しているかだ。さらに言及すると、「民主化」という言葉を用いた時に聞き手に何を想像させているか、ということだ。
僕が思うには、「民主化」という言葉はプロセスのことである。Comprehensive Optimismの中でもいったけれど、民主主義とはあくまでも目的概念であり、理想とする状態のことである。その理想とする状態を目指して、失敗を繰り返しながらも日々前進することが「民主化」だと思う。つまり、インドが民主化されなければならないとか、韓国が民主化されたことで福祉国家となったと言った時に、「民主化」がある特定の時点を指して用いられているとしたら、そういう言葉の使い方はナンセンスだということ。「民主化」とはベクトルのことで、それ自体が何かを約束するものではない。民主化されるまでの国家を「悪」としたら、一度「民主化」された国家は、その時点からは「善」となるのか。民主化された国家の中にも根強い権威主義や差別が蔓延していることは確かである。だから、あまり安易に「民主化」という言葉を使わないほうがいいだろう。ブッシュ大統領が使う「民主化」とニューヨークのコミュニティ・オーガナイザーが使う「民主化」とでは、まったく違うものを指しているんだから。

CO道

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