シリーズ『実践の糧』vol. 12

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第209号,2013年8月.

実践の糧」vol. 12

室田信一(むろた しんいち)


「奇跡を信じる。」これは、私のコミュニティワークの授業を受講する学生に対して課している3つの約束事のうちの一つである。科学立国を標榜し、行政における手続きや社会的な規範づくりにおいて科学的方法をその中核に位置づけてきたこの国の高等教育機関において何を言っているのかと、受講生は思っているに違いない。奇跡を信じる前に目の前の教師を信じられなくなっているかもしれない。

私には奇跡にこだわる理由がある。コミュニティの中で実践を進めていると、必ず奇跡が起こる。人によっては大げさというかもしれないが、小さな奇跡から大きな奇跡まで、コミュニティの実践には奇跡がちりばめられている。

どのような奇跡か例を挙げよう。たとえば、地域住民から、まだ十分動く冷蔵庫の処分に困っているという相談が寄せられ、一方で冷蔵庫が必要だけど家庭の事情で買うお金がないという相談が別の住民から寄せられる。資源とニーズがそのようにして奇跡的につながることがある。

別の例を挙げよう。地域で映画祭の企画を進めていたところ、機材と技術と時間を持て余したセミプロの映画監督が奇跡的にそのプロジェクトに参加してくれることになり、ボランティアによる自主制作映画の作成に一躍買ってくれた、ということがあった。渡りに船とはまさにこのことである。

そのようにして地域の住民や資源などが偶然結びつくことを私は奇跡と呼んでいる。そうした奇跡を科学的に分析し、ネットワークの構築やソーシャルキャピタルの醸成の結果として説明することも可能かもしれない。しかし、いくら効率よくかつきめ細やかにネットワークを張り巡らせたとしても、現場のワーカーが信じなければ奇跡は起こらないだろう。地域住民と出会った時に、その人がもたらしてくれるであろうたくさんの奇跡を想像してわくわくすることが求められる。

近年、先駆的かつ効果的な実践を「グッド・プラクティス」として賞賛し、かつ手本にして他の実践の参考にするという考え方が浸透してきている。そのように実践に優劣をつけることに対して違和感を感じることもあるが、一方でグッド・プラクティスのお話を伺ったり、現場に足を運ばせていただいたりすると、そこにはたくさんの奇跡があふれていることに気づかされる。

そもそも、複数の人の想いと行動が出会うことで地域の活動が始まることを考えると、あらゆる地域活動が偶然の産物であり、奇跡の連続なのかもしれない。しかし、それは奇跡が起こることをただ待っていればいいということではない。奇跡を信じて準備をする。そのしたたかな準備の結果が一握りの奇跡であり、その一握りの奇跡が次の奇跡を導くのである。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

実践の糧