掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第245号,2019年8月.
「実践の糧」vol. 48
室田信一(むろた しんいち)
なんでボランティア活動に取り組むのか、という質問に対して、「楽しいから」という答えを耳にすることがよくある。同様に、市民活動やボランティア活動にとって重要なことは何か、という質問に対して、「まずは楽しむこと」という回答もよく耳にする。
確かに、楽しいことは大事だと思う。楽しくなさそうな活動には誰も参加したいと思わないから、楽しいという要素が必然だという主張に反対はしない。しかし、ボランティア活動にとっての「楽しさ」には少なくとも二つの異なる「楽しさ」があると思うので、それを整理しておかないと、二つを混同して使ってしまう可能性があるし、実際に混同していることが少なくないと思う。
二つの異なる「楽しさ」のうちの一つ目は、その行為自体の楽しさである。なかなか結論が出ない会議に参加することや、過酷な条件の下で退屈な作業を続けることのように、その行為自体に魅力を感じることがなく、「やりたい」と思えない場合、そこに第一の「楽しさ」は存在しないだろう。その点、美味しいご飯をみんなで食べる子ども食堂の活動や、たくさんの人で賑わう地域のお祭など、その催し自体に楽しい要素が含まれている場合、この第一の「楽しさ」が該当する。(ただし、子ども食堂やお祭を楽しいと感じるかどうかは個人の主観による。)
一方、第二の楽しさとは、その行為自体に「楽しい」要素は付随しないかもしれないが、その行為が何か大きな目的に向かって蓄積するものであり、たとえ地道な活動だとしても、そこに携わっていることに誇りを感じたり、社会的な意義を感じたりするような行為である。たとえば、なかなか結論が出ない会議に参加したとしても、その会議を開催することによって、参加者の意思の疎通を図ることができ、重要な情報が共有され、次なる活動の道筋が明らかになるのであれば、会議に参加することにやりがいを感じるに違いない。また、退屈な作業に取り組んだとしても、それが何か大きな目的のために必要な行為であれば、その時間は充実したものになるだろう。
余談だが、私はイベントを企画する時、その前日ギリギリまで居残りして準備をすることが好きである。印刷室にこもってひたすら資料を印刷しているときに、明日この資料が参加者の手に配られる、というなんともいえない高揚感を感じる。作業自体は退屈かもしれないが、前日までドタバタ作業している方がイベントを作っているという感覚を得ることができ、自分の行為が良いイベントにつながり、そのイベントを通して社会が少しでも変わると感じることができたとき、「楽しい」と感じる。
このように整理してみると、ボランティア活動や市民活動にとって、第一の「楽しさ」があるに越したことはないが、どちらかというと第二の「楽しさ」こそが重要なのではないかと思う。第一の「楽しさ」だけでボランティアを募ってしまうと、「楽しくない」と感じた時にその人は離れていくだろう。一方、第二の「楽しさ」にハマった人は、そう簡単に活動から離れることはないだろう。
「楽しさ」を売りにボランティアを募集することは、第一の「楽しさ」ばかりが強調されてしまい、結果として本当に参加してほしい人材と出会う機会を逸してしまう可能性がある。では、「楽しくないかもしれないけど、社会的な意義があって、充実感を得られるよ」という誘い文句が効果的かどうかは、その活動の中身次第である。
※掲載原稿と若干変更する場合があります。