シリーズ『実践の糧』vol.62

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第259号,2021年12月.

実践の糧」vol. 62

室田信一(むろた しんいち)

自分の子どもが思ったように育たないというのはよく聞く話である。私の長男は小学校4年生になるが、外交的な子で、友人が多く、放課後に友達と遊ぶことが多い。コロナ禍で友達と遊ぶことが憚られる期間を経て、感染症対策の観点から家の中に友達を入れることがあまり望ましくない中、家の外であれば遊んでもいいだろうということで、1年ほど前から我が家の庭先に息子の友達が出入りするようになった。私の家は奥まった路地にあり、近所の住民以外はほとんど出入りがないので、道路で子どもが遊んでいても危険があまりないということも息子たちにとっては好都合であった。

しかし、小学校4年生の男の子たちには「他人の迷惑」という視点が著しく欠如しているため、自転車がバラバラに放置されたり、お菓子のゴミが落っこちていたり、大きな声で騒いだりといったいわゆる「迷惑行為」があとを絶たなくなった。息子を通して、時には直接、子どもたちを注意するが、あまり効果はない。庭先で遊ぶ際のルールのようなものを提示するが、すぐに忘れ去られてしまう。我が家の前で遊ぶことを禁止すれば話は早いと思うが、結局は「遊び場難民」の子どもたちが生み出されることになる。

そんな折、息子から、あまりに騒がしいのでご近所さんから注意されたという話を耳にした。それを聞いて私は嬉しかった。今のご時世、近隣の子どもを注意してくれる大人が減ってきている。いわゆる「孤育て」が当たり前になり、地域で子どもを育てるという風潮が減ってきているからだ。近隣の迷惑になるという理由もあって、家に子どもを閉じ込めてしまいがちで、テレビゲームをしてくれている方が親にとっては楽という現実がある。

私は普段から人の主体性を大切にするということをよく口にしていて、子育てに関しても子どもの主体性を大切にしたいと考えている。したがって、子どもに大人のルールを強要するのではなく、子どもたちの考え(自由)が大人の考え(規範)に抵触することがある場合、そのこと自体に子どもたちに向き合ってほしいと思っている。過保護に子どもたちを守ることでもなく、頭ごなしに否定することでもなく、他者とともに生きる時にはそれぞれの自由が干渉することがあるということを知ってほしいし、そのような衝突との向き合い方や付き合い方を経験してほしいと思っている。そのためには当然、一人の人格として子どもたちに向き合う態度が大人たちにも求められる。ご近所さんが子どもを注意したという話を聞いて、この地域にはそのような価値観が根付いているのではないかという期待があった。

そこで、私の提案で、ある日曜日に、いつも集まっている子どもたちに集まってもらい、子どもたちが準備をして焼きそばを作り、普段迷惑をかけていることのお詫びをしつつ、焼きそばを配るという企画を実行した。私の意図としては子どもたちと近隣の大人たちとの対話の場を作るということであった。集まった大人たちから、子どもたちへ注意してほしいことなどを伝えてもらえることを望んでいた。息子の手書きの手紙(招待状)を近隣に投函したところ、「子どもは騒がしいものだから、気にしなくていい」と温かく言ってくれる住民が何人か顔を出してくれた一方で、息子に注意をしてくれた住民からは親宛ての手厳しい手紙が届いた。これ以上子どもたちを路地で遊ばせないでほしいというメッセージであった。厳しいが、それが現実である。

地域共生社会の議論もそうであるが、地域の中で住民が共に生活するということは、当然そこに衝突も生まれてくる。その衝突と向き合い、対話することで市民としてのリテラシーが高まると私は信じている。子どもの主体性を重んじるということは、子どもたちにそうした経験を積んでもらうことであり、大人の役割はそうした環境を整えることなのではないかと思っている。近隣から怒られることは辛いが。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

実践の糧