掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第277号,2024年12月.
「実践の糧」vol. 77
室田信一(むろた しんいち)
前回は、オーガナイザーがコミュニティに関与する際に、そのコミュニティのメンバーと対話の空間を作り出すことについて書いた。オーガナイザーはイタコのような存在で、自分自身をそのメンバーの感覚に近づけていき、メンバーの声を代弁する存在になることが求められると私は考える。他のオーガナイザーがどのような感覚でそうした対話に取り組んでいるのか分からないが、私の感覚はイタコに近いような気がする(イタコになったこともないし、イタコに直接会ったこともないが)。
しかし、その感覚をあえて別の体験と結びつけるとしたら、私が20代の頃に習っていたドラムを叩く感覚に似ていると思う。私が習っていたのはハイチのドラムで、先生のフリズナーはLa Troupe Makandalという、いわゆるヴードゥーの音楽を奏でるドラムグループのマスターだった。残念ながら、フリズナーは2012年に急逝してしまったが、ニューヨーク市でも指折りのヴードゥーのドラムマスターで、彼のバンドは世界各地で公演をしたことがあり、2007年には東京でも公演をしている。
私は彼のクラスに参加するまでドラムを演奏したことがなく、最初は目が当てられないほどリズムを外していた。フリズナーは手取り足取り教えることはなかったが、私の耳と体がリズムに慣れるまで根気強く教えてくれた。
ヴードゥーのドラムは異なるサイズのドラムによって奏でられる複雑なリズムで、ドラム経験者でも最初は苦労する。今でもよく覚えているが、練習中に私が奏でるドラムのリズムが他の人と少しでもズレていたら、フリズナーがとても厳しい目でズレを指摘してきた。5人から10人くらいがサークルになってドラムを叩くと、かなりの音量なので誰がズレているかなんて気がつきそうにないが、フリズナーは一瞬でそれを聞き取った。
ドラムなどのパーカッションを経験した人ならわかることかもしれないが、ドラムを奏でるには、頭でリズムを理解しようとしても全くうまくいかない。もちろん、リズムや曲の流れは頭で理解しなければならないが、それを一旦体に染み込ませてから、自己を解放してリズムに身を任せなければ他のメンバーと波長を合わせることはできない。それはとても不思議な感覚で、意識は研ぎ澄まされているが、感覚を自分の周囲360度に広げているような状態である。
このドラムを奏でる際の感覚と、私がオーガナイザーとしてコミュニティのメンバーと対話する感覚は似ていると思う。ひょっとしたら、私はドラムの影響からそのようなアプローチをしているのかもしれない。重要なことは、フリズナーが複雑なドラムの音の中から、ズレた音をすぐに聞き取ったように、一人一人の声や仕草、表情などに意識を集中して、一人ひとりが何を考えているかや、どのような意識か、といったことを読み取る必要がある。それと同時に、私がそのグループの対話をどこかに向かって引っ張るのではなく、一人ひとりがそのコミュニティというものを体現するように対話をファシリテートする。声の大きい人がいたら、その主張を相対化するような問いかけをしたり、場に馴染めてない人がいたら、その声を拾って大きくしたりしながら、その集団が総体として何を感じているのかを共有することを意識している。
他のオーガナイザーがこれを読んで、どのように考えるのか興味深い。
※掲載原稿と若干変更する場合があります。