シリーズ『実践の糧』vol.87

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第287号,2026年8月.

実践の糧」vol. 87

室田信一(むろた しんいち) 

 5月末に関西に行く機会があったので、寝屋川まで足を伸ばし、久しぶりにたすけあいの会を訪ねてきた。午後の短時間ではあったものの、4〜5人のスタッフや利用者さんたちと交流する機会をいただいた。

 そこで思いも寄らない質問を受けた。「室田さんはなんでたすけあいの会に関わり続けてくれているのですか」という質問だった。そのようなことを考えたことがなかったので少々面食らった。おそらく、私は次のように答えたと思う。「特に損得勘定で関わり続けているわけではなく、昔から親しくおつきあいさせていただいているので、家族のような存在で、なぜと聞かれるとそういうものだから、としかいえない。」

 しかし、その後、時間をかけてもう少しこの質問に向き合ってみたところ、以下のような別の答えが浮かんできた。それは「社会構築主義を地で行ってるから」というものだ。この答えには少し説明が必要だと思う。

 社会構築主義(もしくは社会構成主義)とは現実は社会的に構築されているという考え方である。端的にいうと、物事には普遍的で不変の本質が元々備わっているという考え方や、世の中には客観的な真実が存在しているという認識に対して、真実とされるものは社会的に合意され、相互作用や歴史の中で作られてきた意味づけに過ぎないという捉え方が社会構築主義である。

 たとえば、偏差値が高い人は頭が良いという評価に対して、頭の良し悪しを特定の基準によって評価・判断することは、その人の能力の絶対的な評価ではなく、社会的に構築された方法による評価にすぎない(偏差値を認める人たちの認識によって作られたもの)、というように捉え直す考え方が社会構築主義である。偏差値至上主義に異論を唱える人は少なくないし、いわゆる受験勉強のような学力審査によって計れる能力とは人間の一部の能力にすぎないと考える人も少なくない。しかし、そのような人でも科学的に能力を測定することやその方法については疑問を抱いていないことが多いように思う。

 世の中には、社会構築主義の立場に立っているように装っていて、表面的には社会的に構築されたものの見方、たとえば「障害」や「ジェンダー」など、に対して批判的な眼差しを向けるものの、その社会を構築している深層の価値観、たとえば「科学」や「倫理観」に対しては肯定的な態度を取る人がいる。すなわち、社会的に構築された振る舞いはそのままで、その振る舞いのまま、表面的に構築主義者っぽい言動をする人がいる。

 さらにいうと、構築主義者は、真実は相対的かつ間主観的に構築されると捉えるため、対話を重視するわけだが、対話を重視するといいながら、相手を説き伏せようとする態度を取ったり、自分の価値観を押し付けたり、時間をかけずに結論を導き出そうとするような態度が備わっていたりする。頭では社会構築主義を理解していても、生き方としてはコミットできていない人がいる。

 そのような見せかけだけの構築主義者に対して、たすけあいの会の皆さんからは、生き方や働き方、人との関係の作り方など、「社会構築主義を地で行っている」という印象を強く受ける。そのような場だから、たすけあいの会に立ち寄ると独特の空気が流れていて、私にとってとても居心地がいい。褒め言葉として聞いてほしいが、革命家のアジトに来たような感覚になる。あ、だから実家に帰ってきたような気持ちになるのか。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

実践の糧