シリーズ『実践の糧』vol.73

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第271号,2023年12月.

実践の糧」vol. 73

室田信一(むろた しんいち)

 私の父は常に物事をナナメから見る人だった。学校のテストで100点を取ると「あまり勉強ばかりするな」と言ったり、世間から批判を浴びている人がいれば「お父さんは悪い人じゃないと思う」と言ったり、世の中のあたりまえや常識を疑うタイプの人だった。そんな父の影響からか、物心ついた頃から私も物事をナナメから見るようになっていた。アメリカでコミュニティ・オーガナイザーの人たちと出会った時、物事を批判的に捉え、行動を起こす姿に親近感を覚えたのはそのような父の影響もあっただろう。

 研究者という存在も常識を疑い物事をナナメから見る態度が求められる。そのため、ものすごく素直な学生から「研究者を目指したい」という相談を受けると、あまり向かないのではないかと思ってしまう。しかし、研究者の中にも王道を行くタイプの人もいる。さまざまな議論を肯定的に受け止め、総括的な見解を示す研究スタイルは、物事をナナメから見る私からすると面白みがないと感じるが、同時に、自分には持つことができない大局的な視点に圧倒される。

 以前、あるラジオ番組で巨人・ヤンキースで活躍した元プロ野球選手の松井秀喜さんについてお笑い芸人が語っていた話を聞いて、王道に対する私の捉え方が少し変わった。私は松井さんのことをすごい選手だとは思っていたが、あまり面白みがない人と思っていた。松井さんは高校時代からスター選手で、その後もスター選手としての道を歩み、メディアに対しては常に優等生の受け答えをしてきた。そうした松井さんのことを、そのラジオでは「国民のお兄さん」を引き受けた人として称賛していた。高校時代の5打席連続敬遠を経て、ドラフトでは長嶋監督から一位を引き当てられ、巨人の4番打者として大成し、さらにメジャーリーグに挑戦してヤンキースでも4番を打った。そのように国民の期待を受けると、人はプレッシャーに押しつぶされてしまうものだが、松井さんは文句一つ言わずにそれを全て引き受けてきた。挙句には、長嶋元監督と共に国民栄誉賞を受賞した。先輩のイチローさんが二度(その後を加えると合計三度)も辞退していることを考えると、松井さんも辞退することが頭によぎったに違いないが、ファンや国民の期待を引き受け、受賞したのである。

 そのような王道の生き方というものは、誰かが引き受けることでそれが時代の物語となり、語り継がれ、多くの人にとって納得感が生み出される。地域の活動では、会長や委員長に担ぎ上げられて、その立場に甘んじていることに違和感を感じず、御意見番のようになっている人がいる。そのような人がいると地域の風通しが悪くなるため、私は批判的に見ていたが、松井さんの例を引き合いに考えると、そのような人が地域の人々の期待を引き受けることで納得感が生み出され、地域の人間関係のバランスが保たれるという側面があると考えると、必ずしも批判されることではないのかもしれない。それでも私はナナメから見てしまうが。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.72

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第270号,2023年10月.

実践の糧」vol. 72

室田信一(むろた しんいち)

 私は昔からお笑いが好きで、中学生以降は特にダウンタウンのお笑いと共に育ってきた。以前(10年前!)も紹介したが、芸人のマキタスポーツは、著書『一億総ツッコミ時代』のなかでそんなダウンタウンのお笑い(広くいうと関西のお笑い)のツッコミ文化を取り上げて、日本中にツッコミが蔓延していることを指摘している。マキタが危惧しているのは、ちょっと噛んだ程度でもすぐに「なんでやねん!」と周りがツッコミ、ボケをつっこまずに見逃すことができなくなってきていること、つまり周囲にすぐに正されてしまうこと(それによってお笑いに転換されてしまうこと)である。確かにボケ・ツッコミ文化にはそのような側面はあるかもしれないが、私が注目したいことは、それだけお笑いの文化が広がっていることである(マキタもその点においてダウンタウンや関西のお笑い芸人の功績を賞賛している)。すなわち、日本においてお笑いのリテラシーが高くなっているということである。

 ダウンタウンでいうと、まっちゃんのボケの切れ味に注目が集まるが、まっちゃんがあれだけ想像力豊かにボケることができるのは、はまちゃんはじめ周囲の芸人がそのボケを即座にひろってつっこんでいるからである。つまり、ボケの能力というのはツッコミの許容能力が高いことによって引き出される側面があるということである。

 同様のことは研究や言論の領域にも当てはまる。シンポジウムなどに登壇する際に、司会者やコーディネーターがどんな発言でもひろってくれるという安心感があると、制限なく思考を広げることができる。

 地域の活動においても同様のことがいえるだろう。自分が抱えている生きづらさや悩みを相談したとしても、受け取る側にひろわれることなくスルーされてしまうと、相談することをためらってしまうし、スルーされないため、気がつくと受け取る側に伝わるように相談の内容を絞り、表現方法を選んで相談してしまうことがあるかもしれない。ツッコミがボケのポイントを理解してくれないとボケる側も徐々に渾身のボケができなくなることと似ている。

 コミュニティ・オーガナイザーや地域のソーシャルワーカーの役割の一つとして「カタリスト(触媒)」というものがある。カタリストとは、まだ当事者によって言語化されていない「自分はこのように生きたい」「社会はもっとこうあってほしい」という思いを受け止め、他者に伝わる語りへと転換し、具体的な活動やキャンペーンへと発展させていくような化学反応を誘発する働きかけのことである。良いツッコミが良いボケを引き出すように、良いオーガナイザーによって市民のより深い声が引き出されるという側面がある。そのためにはオーガナイザーは普段からさまざまな市民の声に耳を傾ける必要があるし、社会情勢や社会の変化に敏感であり続けることが求められている。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.71

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第269号,2023年8月.

実践の糧」vol. 71

室田信一(むろた しんいち)

 私は、アメリカに住んでいたころ、友人に誘われてデモや集会に参加することがあった。数十人程度の小さな規模のものから数十万人規模のものまで大小様々なデモに参加した。時には企画する側に関わることもあり、数千人規模のデモをオーガナイズしたこともある。

 大学院時代、自転車で学校に通っていた私は、同じく自転車で通学していたクラスメイトに誘われて、自転車ライダーの権利(公道における自転車レーンの設置促進など)を主張するためのデモに毎月参加していた。そのデモは、数百人から1000人を超える規模の自転車ライダーたちが、集団で道を占領して、信号を無視しながら自転車で移動するというものだった。端的にいうと暴走行為であるが、信号無視以外は交通ルールを守って安全に移動した。なお、信号無視に関しては、事故が起こらないように、先回りしたメンバーたちがライダーたちの進行を邪魔する交通を遮断するため、安全に信号無視ができた。デモに参加するにあたり、集合場所と時間だけは告知されるが、デモをオーガナイズしている中心メンバー以外はどのようなルートでどこに到着するか知らない。ただし、警察には事前にルートを伝えているようで、事故が起こらないように道を封鎖するなど、警察もライダーたちに協力的であった。普段、車に撥ねられないように気をつけながら肩身の狭い思いをして自転車に乗ることに比べて、広い公道を占拠して信号を気にせずに集団で自転車に乗る体験は爽快であった。

 他にも、大学院時代にイラク戦争が始まり、大規模破壊兵器があるという不確かな情報に基づいてイラクを攻撃し始めたアメリカ政府の決断に対して、戦争反対のデモ行進が各地で開催された。私が住んでいたニューヨーク市でも数十万人規模の巨大なデモが企画された。たまたまコミュニティ・オーガナイジングの授業と同じ時間帯にデモが開催されたため、院生を組織して、全ての授業を休講にするように教員に交渉し、授業をボイコットしてデモに参加した。教員も協力的で、一緒にデモに参加した教員もいた。デモに対して通常警察は寛容な態度であるが、イラク戦争反対デモの時は緊張的な雰囲気があった。そのため、弁護士のクラスメイトから、警察に捕まった時の対応方法や連絡先などについて事前のレクチャーがあった。留学生だった私には、捕まると国外追放の可能性もあるので、そのリスクを承知で参加することが伝えられた。

 そのようなリスクがあったとしても、自分たちの信条を訴えるために公共の場でメッセージを発信する行為はなんとも言えない充実感がある。世の中の間違いを飲み込まずに、間違いを堂々と指摘するために行動を起こすことは、心と体が一致して、さらに自分と周囲の身体も一体となり、対抗的な手段であるが、安全な気持ちになる。

 しかし、どのようなデモに参加しても同じ感覚が得られるとは限らない。むしろ、デモの目的と自分の価値観が一致しないデモに参加すると、心身がかなり消耗してしまう。その嫌な感覚を知っているので、人を動員するようなデモに私は断固反対であるし、デモに限らず、公共的な取り組みに人を動員することに対して強い拒否反応がある。

 そう考えると、人々がデモにもっと参加するようになると、逆説的に聞こえるかもしれないが、人を動員する慣習が減少するという効果が期待できるのかもしれない。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.70

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第268号,2023年6月.

実践の糧」vol. 70

室田信一(むろた しんいち)

 私は普段髭を生やしている。髭の形などに特にこだわりはないし、髭をさっぱり剃ることもあるが、最近はなんとなく口髭と顎髭を蓄えていることが多い。

 そもそも髭を生やし始めたきっかけは、アメリカ留学時のことである。友人とバーやクラブに出かけるときなど、入り口で身分証明書を確認されることがある。大抵は屈強な男性が入り口で待ち構えていることが多い。厳格なタイプの人は身分証明書を一人ずつ確認するが、多くの場合は見た目で判断して通してくれる。ちなみに私がいたニューヨーク州は飲酒年齢が21歳以上なので、21歳になるまでは身分証明書がなければ入店できない。しかし、アジア人は若くみられるので、40代でも身分証明書を求められることがある。そのため、入り口で止められずにお店に入る手段として髭を生やしていた。

 そのようなシチュエーション以外にも、周囲から年齢相応に見られるために髭を生やしていた。それ以来、20年以上髭を蓄えている。

 そうしたなか、今年になって法事が重なり、1週間ほど髭を剃り続けることがあった。すると、普段髭を生やしている部分がだんだん痛くなってきた。そのことで思い出したのは、髭を生やしたきっかけは海外で大人っぽく見られるためであったが、その後、髭が濃くなってくると、カミソリで肌を傷つけないために髭を伸ばすようになったことである。30代からは口髭も濃くなり、生やすようになった。

 そこで思ったことは、あることが成立する背景に身体的・物理的な理由があるにもかかわらず、その理由はいつしか忘れ去られ、慣習だけが残るということだ。その慣習には物語(私の場合、大人っぽく見られるために髭を生やす)が加えられ、その物語によって自分も他者も説得される。

 実は社会や地域の多くのものごとは身体的・物理的な条件によって成り立ってきたにもかかわらず、そうした起源は忘れられてしまい、慣習と物語によって上塗りされていることが少なくないのではないだろうか。

 自治体の中の圏域設定などはその典型例かもしれない。物理的な距離や地形(河川や街道、坂など)の条件によって集落が作られてきたところに、お祭りが始まったり、住民活動が生まれたり、人が集まる拠点が設けられたりすることで、いつしかそこに住民の帰属意識が形成されてきた。しかし慣習としての地域性にのみ着目してしまい、地理性を無視して人口減少による圏域の統合がおこなわれたり、新たな地区割が設けられたりすることがある。そうすると、人の身体的・物理的な感覚として、新たに統合された圏域を同じ地域として感じることができなかったりして、住民から不満が出たり、結局、新たな圏域単位での活動は進展しなかったりすることがある。地域福祉の世界ではありがちな話である。

 今回、髭を剃って気づいたことは、自分の身近な身体的な理由さえも忘却され、物語で上塗りされていたことである。そうであれば、地域のことや、さらにはもっと大きな単位の自治体や国などにおけるものごとの起源にある身体性や物理性はすっかり忘れられてしまっていて、変更が加えられた時に、特定の誰かに無理を強いる仕組みになってしまっているかもしれないということである。新たな慣習に慣れれば良いという問題ではないのだ。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.69

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第267号,2023年4月.

実践の糧」vol. 69

室田信一(むろた しんいち)

 前回は、誰も望んでいないのに、勘違いや失敗、意思疎通の不備などにより、ニーズと資源が結びつかない状況が生み出されてしまうことがあり(それをここでは「人災」と呼ぶ)、そのような状況に対する二つの対応方法について整理した。

 一つは、そのような「人災」が生み出されないような、すなわち、人が勘違いや失敗をしないような環境を整える方法である。モノや仕組みのデザインによって、人と人が協力し、結果として望ましい環境が生み出されるように促すアプローチである。この対応方法の特徴は人の無意識に働きかけることである。人が自ら望んで「人災」を招くことはない。意図せざる結果として「人災」が起こるのであれば、そのような「人災」が起こらないような「防災」の環境を整えればよいわけである。

 もう一つは、自らが起こしてしまう失敗や勘違いに意識的になることで、「人災」を起こさないようにする方法である。この対応方法と前者の大きな違いは、前者が人の無意識に働きかけるとしたら、こちらは意識に働きかけることである。心理学では人の行動の大部分が無意識によって支配されていると説明されるが(そのため、望まない勘違いや失敗、意思疎通の不備などが起こる)、その無意識の領域を少しでも意識によって取り戻そうとするのが後者のアプローチである。

 前者の方法により「人災」が起こりにくい環境が整ったとしても、全ての「人災」が未然に防がれるわけではなく、また後者の方法によって「人災」を起こさないように意識しても、やはり「人災」は起こってしまうものであり、いずれの方法でも「人災」がなくなることはない。では、あなたはどちらのアプローチを取るのか。

 両方のアプローチを組み合わせることが最善策であるが、近年はナッジなど、前者のアプローチに注目が集まっているように思う。しかし、人々がパワーを獲得するという観点から比較するとき、私は後者のアプローチが重要であると考える。

 たとえば、人が生活を営むことで特定の人が不利を被るような環境があるとする。そうであれば、そのような不利な状況が生み出されないように人々を誘導すれば良いというのが前者のアプローチであるが、当事者であるその社会の構成員は不利な状況が生み出されていたことも、それが改善されたことも意識しないうちに「人災」が防がれていることになる。このアプローチの問題は、何が不利な状況なのか、そしてどのよう状況が改善された状況なのか、社会を設計する立場の一握りの人間がコントロールしていることである。当事者である社会の構成員の大多数はそのことを意識することもなく、環境が変わっていることになる。それは自転車置き場のような物理的な環境かもしれないし、難病申請の手続きや地域住民同士が知り合う機会のような仕組みかもしれない。そもそもその設計に携わっている一握りの人間が「人災」に対してどこまで意識的なのかも怪しいものである。

 そう考えると、(自らが「人災」の原因の一部かもしれない)当事者が、自分が置かれた環境に意識的になり、その環境でとる自分の行動や言動、社会への関わり方、他者への関わり方、そしてその背景にある自分の価値観に対して意識的になる過程が大事であり、その過程を通して人々がその環境を少しでもコントロールできると感じることがパワーになるのではないだろうか。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.68

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第265号,2022年12月.

実践の糧」vol. 68

室田信一(むろた しんいち)

コミュニティに第三者が介入することの意味について考える際に、次のようなたとえ話を示すことがある。

あるカップルが映画館で映画を観ようと建物に入ろうとしたところ、まだ前の回の上映が終わっていなかったので建物の前で待つことにした。二人は立ち話をしながら順番を待った。その後、映画館に到着した別の客はカップルの後ろに並び、映画館の前には列ができた。前の回の上映が終わったが、客は別の出口から出たため、中の状況に気づかない構造になっていた。先頭のカップルは話に夢中になり、中に入ろうとしない。列の後ろの人たちは、映画の上映時間が近づいているにも関わらず列が進まないことにそわそわしている、という状況が作られたとしよう。

映画を観たいという思いとその気持ちを満たすための資源(映画)が結びつかないために不幸な結果に陥っているという状況が作られてしまう。このような状況を「人災」と呼ぶと、実はこの社会はそうした人災だらけである。

ここでのポイントは、誰もこのような状況を望んでいないにも関わらず、結果的にこのような不幸が生み出されたという点である。声をかけなかった映画館のスタッフや先頭のカップルが非難されるべきかもしれない。もしくは出口と入口を分けた映画館のわかりにくい構造が非難されるべきかもしれないが、誰一人このような結果は望んでいなかったので、非難しても問題は解決されない。

そこで、こうした問題に第三者が介入するとき、いくつかのアプローチが可能になる。一つはこのような人災が起こりがちな仕組みに目を向けてそのデザインの改善を図ることである。アフォーダンスという考え方がある。モノに備わっている特徴が、その利用のされ方を決定するような仕立てになっていることを指して用いられる。例えば、椅子を見た時に、それは人が座るための特徴を有しているので、教えられなくても人はそれに座るだろう。そうした特徴を備えることで、人は自然に利用する。そうしたアフォーダンスの高いデザインが施されることによって人は「人災」を回避しやすくなる。最近では行動経済学によるナッジという考え方が同様の観点から用いられることがある。ナッジとはリベラル・パターナリズムと説明されるように、モノの仕組みやデザインによって人をある特定の行動に導く考え方である。こうした考え方は、第三者によるデザインがコミュニティの人災を減少させ、協力的な関係性を形成することにも寄与すると期待されている。

一方で、教育的なアプローチも可能だろう。デザインが当事者の無意識にはたらきかけるアプローチであることに対して、教育的なアプローチは、意識に働きかけるアプローチである。本来は避けたい人災を自分たちが起こしてしまいかねないことに自覚的になることで、それを未然に防ぐことや、仮に人災が起こった時にそこから立ち直るために行動することができるようになるだろう。

さて、皆さんは人災を減らすためにはどちらのアプローチが効果的と考えるだろうか。この点については次回引き続き考えたい。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.67

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第264号,2022年10月.

実践の糧」vol. 67

室田信一(むろた しんいち)

今後AIが進化したときに、人間にあってAIに欠けているものとして「好奇心」が挙げられることがある。AIに好奇心を抱かせる研究も進んでおり、必ずしもこの説が正しいとはいえないが、個人的に好奇心は人間にとっても(そして優れたAIにとっても)重要な資質であると思う。オクスフォード大学のオズボーン准教授らがAIの進化と普及に伴い消える仕事をリストアップした研究は有名であるが、ソーシャルワーカーはこのリストには入っていない。しかし、厳しい言い方をすると、日本の福祉の仕事の大半はAIにとって代わられても問題ないように思う。実際にAIにとって代わられるかどうかは別として、日本の社会福祉の仕事の多くは(単純な)AIでもこなせるような仕事になってしまっていると私は感じる。特に、法律や制度に基づいた一辺倒な支援を提供している限りは、人がやってもAIがやってもパフォーマンスはそれほど変わらないのではないかと思う。

誤解がないように補足すると、私はAIの普及に反対ではないし、人間の能力を越えるようなAIが誕生することを期待している。それと同時に、人間の存在がAIには代わることができないものとして存続することにも期待している。

好奇心というものは現状維持を指向する人たちにとっては厄介なものだと思う。なぜなら、好奇心があると、なんでこの仕組みはうまく機能しないのか、であるとか、そもそもなんでこの仕組みになっているのか、とか、現状を批判的に検討することになるからだ。福祉の現場に限らず、共に事業を推進する部署にそのような人がいると(特に管理職にとっては)面倒なことになるので、なるべく好奇心をもたず、既存の仕組みに疑問をもたずに、与えられた仕事を粛々とこなしてほしいと思う現場の方が多いのではないだろうか。

ただし、批判的であればいいということでもない。批判的な態度には(単純な)AIでもできるような批判が少なくないと思う。特に属性に基づく批判はその際たるもので、政府や行政が発信するものを何も考えずに批判するような態度をもつ人がいたり、営利企業の営みを端から批判的に捉えたり、批判というよりも思考停止状態による否定のような態度も少なくない。同じような批判は「福祉的なもの」や「非営利活動」にも返ってくる。それらの批判は既存のイデオロギーや立場などの対立軸によって作られた反発でしかない。

好奇心に基づく批判はそうした属性や対立軸から自由なものである。対立構造や立場性を意識しないが故に「空気が読めない」ような批判が浮かび上がることがある。そうした「空気が読めない」批判を頭ごなしに否定してしまったり、たしなめてしまったりすると、その現場からは好奇心の芽が育たなくなってしまう。

好奇心に従って実践をすると、現状維持を求める圧力によって息苦しくなることがあるし、新たな取り組みや提案がうまくいかないことが多々あるので、心がもたなくなることがある。そのような状況に立たされた職員と同じ目線に立って一緒に悩んでくれる上司や同僚がいる職場では好奇心の芽が育つように思う。

好事例といわれる現場に行く時、私はこのような視点から質問をして、その現場が何をしているかではなくどのような人がどのように実践しているのかを確認する。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.66

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第263号,2022年8月.

実践の糧」vol. 66

室田信一(むろた しんいち)

教育の分野には「隠れたカリキュラム」という考え方がある。これは学校などの教育機関やそこに所属する教育者が、授業などを通して教えている内容とは別に、その授業などの形式や伝え方、使用する言語、慣習、振る舞いといった要素によって「教えている」ことを指す。たとえば、授業では民主主義の理念を教えているにもかかわらず、その教え方が封建的で閉鎖的な環境の中で教えられているとしたら、生徒は民主主義的ではない考えや価値観をその授業から学ぶことになる。したがって、表向きのカリキュラムは民主主義の理念かもしれないが、隠れたカリキュラムでは非民主主義的な理念が教えられていることがあるということである。

そうした隠れたカリキュラムというものは、通常は、意図せざる結果として生み出されてしまう教育効果のことを指す。したがって、民主主義の理念を教える教師が、必死に頑張って教えようとすればするほど、生徒に対して権威主義的になり、教師の意に反して、民主主義とは異なる理念を示すことになる。(ただし、反面教師という言葉が表すように、そのような教師の振る舞いから真の民主主義を希求する生徒が生み出される可能性は否定できない。)

この隠れたカリキュラムが生み出す状態、言い換えるならば、言ってることとやってることが違う状態、はさまざまな場面に存在する。たとえば、昨今の社会福祉領域でよく耳にする地域共生社会の政策では、住民が地域の問題に対して主体的に行動を起こすことを期待してそれを制度化している。人が主体的に何かに取り組むことと、制度化してそれを推進することは明らかに矛盾しており、政府が法に基づいて推進しようと頑張れば頑張るほど、住民は客体化されてしまうという意味で、隠れたカリキュラムが抱えている問題と構造は同じである。

そこで思うことは、市民活動団体の中には、本来、誰にとっても生きやすい社会を目指しているにも関わらず、競争を制することで自分達の組織が生き残ることを重視している(ように見える)組織が少なくないことである。メリトクラシーといわれる能力至上主義社会では競争の原理が社会の至る所に埋め込まれている。そうした競争が多くの生きづらさを生み出しているにも関わらず、その生きづらさを解消することを理念に掲げて設立されたNPO同士が資金の獲得のために競争しあうことは、仮にその結果として質の高いサービスが提供されたとしても、生きづらさを生み出す競争の原理を肯定してしまっている点で、それはマッチポンプ(偽善的な自作自演)なのではないかと思う。

近年、大小さまざまな助成事業の審査委員を務める機会が増えたため、全国津々浦々の市民活動団体のホームページや事業報告に目を通す機会が増えたが、そこには隠れたカリキュラムがたくさん埋め込まれている。どこかのタイミングで、人々がその隠れたカリキュラムを暴くことに成功した時、それらの組織に対する世の中の評価は一変するだろう。そのことを自覚していない組織は、爆弾を抱えて、その爆弾を宣伝しながら活動しているようなものである。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.65

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第262号,2022年6月.

実践の糧」vol. 65

室田信一(むろた しんいち)

先日、アメリカのブロードウェイミュージカル「レント」の来日公演を観劇してきた。演技の途中に急に歌を歌い出すミュージカルというものに、以前は馴染むことができず、関心がなかったが、「レント」が映画化された時に観てからミュージカルに興味をもつようになった。

「レント」は1990年代のニューヨークが舞台の物語である。低所得者が多く居住し、治安が悪いイースト・ヴィレッジというエリアのアパートに不法占拠して暮らす若者たちが登場する。彼らは貧困やエイズの問題に直面して、毎日を過ごすことに精一杯だけど、その一日一日を大切に生きる姿に胸が熱くなってくる。

私は高校卒業後に単身ニューヨークに留学した。当時はその動機についてうまく言語化することができなかったが、今振り返ってみると、大学進学や就職というレールがあらかじめ敷かれていて、そのレールに乗ることを強要される日本社会に違和感を感じていたのだと思う。自分の人生を生きているというよりも、社会によって生かされているという感覚が強く、何のために人生を生きているのかわからなくなっていた。

ところが、ニューヨークに行くと、そこには多種多様な人が生活していて、あらかじめ決められた人生のレールのようなものはなく、一人ひとりが自分の人生と向き合って精一杯生きているという雰囲気があった。私も、なぜニューヨークに来たのか、人生で何を達成しようとしているのか、何のために生きているのか、という問いを常に周囲から突きつけられるような感覚を得た。

しかし、人は弱い生き物で、そのように感覚を常に研ぎ澄まして生きていると徐々に疲れてしまう。疲れてきた時には休息が必要であるが、身体的な疲れよりも心の疲れの方が深刻だったりする。では、心の栄養をどこから得るかというと、同じように自分の人生と向き合っている仲間からである。人生にもがき苦しみ、だからこそ一日一日を大切に生きている仲間と出会い、彼らと想いを共有したり、苦しみを共有したり、希望を共有することで心が満たされていく。また、自分が辛くなった時に、仲間も同様にもがいているという事実が力を与えてくれる。

「レント」のストーリーの根幹はまさにそこにある。このミュージカルに登場する人物は皆「福祉的」な課題を抱えている。しかし自分の人生にオーナーシップをもって生きている。それに比べて、「福祉的」な課題は抱えていないものの、レールに乗っかって、社会の中で生かされている人生では、どちらが幸せなのだろうか。もちろん比較はできないし、人によってどちらを求めるのか分かれるだろう。

福祉の支援に携わると、どうしても「福祉的」なニーズを満たすことを重視してしまうが、「福祉的」な支援では満たすことができない側面にも光を当てることが重要だと、「レント」を観劇して改めて思った。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.64

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第261号,2022年4月.

実践の糧」vol. 64

室田信一(むろた しんいち)

新年度が始まり、新たなことに取り組む人や組織も多いだろう。新たなことに取り組む際、マニュアルがあると便利である。便利ではあるが、職種や業務の内容にもよる。たとえば、業務報告のための様式の保管場所やその提出方法について示したマニュアルは便利であり必要だと思う。しかしそうした事務手続きに関するマニュアルも、あまりに詳細に説明されているものになると、情報量が膨大すぎて、詳しい人に質問する方が早くて分かりやすかったりする。

一方、コミュニティの実践においてマニュアルはどれくらい有効なものだろうか。私はマニュアル否定派である。なぜならコミュニティが100あれば、100通りのアプローチ方法があり、さらにそこで関わる実践者によってアプローチ方法も変わってくる。マニュアルを作るには変数が多すぎるため、マニュアルを作る労力が無駄であるし、せっかく作ったマニュアルが参考にならない可能性の方が高いと思う。マニュアルをみる前に、まずはコミュニティを出歩いて、人と出会って、生の声を聞くことから始める方が良いと考えてしまう。しかし、人によってはコミュニティの出歩き方や人との出会い方、生の声の聞き方のマニュアルが必要と考えるだろう。

アメリカ人はマニュアルを作るのが得意だと思う。それがコミュニティの実践のような普遍化することが難しい内容であっても、一連の行為や活動に含まれるエッセンスを抜き出し、それを言語化することに長けている。なぜアメリカ人がマニュアル作りに長けているかと考えると、それは社会の中に共通理解の基盤が欠如しているからだと思う。移民によってつくられてきた多文化社会であるがゆえに、社会の中で共有されている「常識」があまりに少ない。したがって、ある程度の共通基盤を作らなければ、他者と共同して何かを達成することが困難なのである。共通理解が乏しい他者と共に仕事をする経験を経て、マニュアルの必要性が浮き彫りになり、それを言語化することで多くの人にとって使いやすいマニュアルが完成するのである。

それに加えて、アメリカ人はマニュアルに従うという意識が基本的に低い。そもそも共通理解がないという前提に立っているため、型通りのことをやろうと思わず、マニュアルは参考にしつつ、自分なりにアレンジしたり、自分の文化や様式に合わせてカスタマイズするということがマニュアルの使い方として浸透している。

こうしたマニュアルの捉え方は日本のそれとは大きく異なると思う。日本は「常識」を重んじ、マニュアル通りに実践することを美徳とする風潮がある。したがって、アメリカ由来のマニュアルをそのまま日本に導入しても、その受け取り方が違うため、お手本通りの実践が過度に浸透してしまうというきらいがある。ある日本の官僚が、全国的な事業を推進する際に、各地の独自性を促したいためにガイドラインをあえて作らないことがあると話していた。

そう考えると、日本人の気質を考慮して、草の根のスキルアップと実践の言語化の方策を模索することが必要なのかもしれない。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。