シリーズ『実践の糧』vol.59

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第256号,2021年6月.

実践の糧」vol. 59

室田信一(むろた しんいち)

東京オリンピックの開幕まで2ヶ月を切り、世間の反対の声とは裏腹に、その準備は粛々と進んでいるように見える。コロナ禍のオリンピック開催についてはさまざまな意見があると思うが、私は問題を単純化して社会を分断する報道のあり方に最も違和感を感じている。

誤解を恐れずに書くと、私自身はオリンピックの開催を楽しみにしている。しかし、現実問題として、感染症対策の観点からして開催することが適切かどうかその判断はつかない。判断するだけの情報が手元にないので、不安に感じてしまい、開催反対の意見に飲まれてしまっている。

なぜ私がオリンピックの開催を望むかというと、私は単純にスポーツ観戦が好きで、コロナ禍であってもテレビやインターネットで大好きな野球やラグビーを観戦して、興奮と熱狂を得てきた。むしろ、コロナ禍になって初めて、スポーツという文化が生活を豊かにすることを実感した。オリンピックを観戦することも従来から好きだ。

しかし、東京オリンピックの招致に関してはそこまで前向きではなかった。そもそもロサンゼルス・オリンピック以降の商業化されたオリンピックに関しては違和感をもっており、「経済効果」という幻想に一喜一憂する社会のあり様についていけなくなっている。単純にスポーツ観戦を楽しむことの延長線上にオリンピックがあってほしいが、残念ながらそうなっていない状況を憂いている。しかし、コロナ以前からオリンピック・バブルの神話は崩れつつあり、ホストとして手を上げる都市がなくなってきている状況の中で新型コロナウイルスの感染拡大が起こったわけだ。

そこで思うことは、このような状況になって初めて、商業主義的ではなく、お祭り騒ぎでもなく、真にスポーツマンシップに則ったアスリートのための大会を開催できるのではないかという期待である。しかし、大会の開催がホスト国のコロナ対策に悪影響を与えることは賛成できない。そうなってくると、オリンピックを開催してほしいという純粋な気持ちを表明することが、自己中心的で楽天的で、人の命を軽んじている発言のように聞こえてしまい、自分の気持ちを隠さなければならなくなることが残念である。

オリンピック開催賛成か反対かという二元論は社会を分断するばかりで対話を招かない。そもそもオリンピック観戦に興味がある人とない人がいていいと思うし、開催に賛成の人と反対の人がいていいはずだ。それを踏まえて、政治の役割は、いつのどの時点でどれくらいの感染状況であれば開催する・しないという判断を下すための条件を提示することで、あとはそれに対して社会全体がどこまで対策できるかに委ねてはどうかと思う。単純に賛成か反対かではなく、与えられた条件の中で、ある程度の合意が形成できる中で、何ができるかということを具体的かつ戦略的に進めていくことができないものだろうか。

実はこうした分断は身近な地域の中にもある。施設建設やイベントの開催など、社会的な合意を形成する際に賛成か反対かの二元論になってしまいがちである。ある人にとって合理的に思われる求めは他の人にとって不合理に映ることは少なくない。そうした意見の不一致を賛成多数によって押し切るのではなく、対話と行動を軸に議論を組みなおしてはどうだろうか。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.58

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第255号,2021年4月.

実践の糧」vol. 58

室田信一(むろた しんいち)

2020年12月に開催された漫才の日本一を決める大会M-1グランプリにて、漫才師のマヂカルラブリーが見事チャンピオンになった。マヂカルラブリーが決勝戦で披露した漫才は、コンビの一人野田クリスタルさんが電車の吊り革に捕まらずにどう耐えるかを演技で表現したネタで、それに対して相方の村上さんがツッコミを入れ続けるという、従来の漫才からするとやや異色な漫才であったため、大会終了後にマヂカルラブリーのネタは果たして漫才なのかという議論が巻き起こったことでも知られている。

漫才に定義があるわけではなく、大会で決められたルールの中でネタを披露する限り、多くの笑いをとった漫才が最も優れた漫才であり、マヂカルラブリーのネタは漫才だという見方で議論は落ち着いたようである。もしくはそのような定義をめぐる議論自体あまり意味がないという結論が支持されたようである。

漫才にはいくつかの型があり、関西特有の面白い会話の掛け合いを売りにするしゃべくり漫才や、漫才の中でコントのように役割を演じて笑いを生み出すコント漫才など、これまでの漫才の歴史の中で様々な型が生み出されてきている。ナイツの塙さんは著書の中で、中川家のようなしゃべくり漫才は関東の漫才師にはなかなか真似できない。だからこそ、ナイツの売りとなる漫才の型を生み出さなければならなかったと述べている。

このような議論を聞いていて感じたことは、コミュニティ・オーガナイジングなどの地域の実践においても同様のことがいえるということである。コミュニティ・オーガナイジングを学んだ人の中に、〇〇の実践はコミュニティ・オーガナイジングではないとか、この要素が欠けている、というような意見を抱く人がいる。それだけコミュニティ・オーガナイジングに真剣に向き合うことは素晴らしいが、この議論は上記の漫才の議論と似ていると思う。漫才にいろいろな型があるように、コミュニティ・オーガナイジングや地域の実践にも様々な型がある。一つの型からみると、別の型は違うもののように見えてしまうかもしれない。しかし、大事なことはコミュニティ・オーガナイジングを通して何を達成するかであって、そのアプローチは無限に存在するといっていいし、むしろ常に新たな可能性を模索することが大事であり、かつ時代とともに求められるアプローチが変化することに対して敏感であることが重要である。

M-1グランプリでは多くの笑いをとった漫才が高く評価されるが、コミュニティ・オーガナイジングの実践も、住民や当事者が社会の中に望む変化を確実に起こすことが支持につながる。では、変化を起こせばなんでもありかといったらそうとも限らない。漫才の場合、特定の人を蔑視することで大爆笑を生み出したとしても、その笑いにおける倫理観は問われるし、それを問うのは大会主催者ではなく視聴者であることが望ましい。すなわち、視聴者のお笑いリテラシーも質の高い漫才を生み出す際には重要な要素となる。

コミュニティ・オーガナイジングの実践も、変化という結果が重要であるが、その結果が民主主義を歪めることになってしまったり、特定の人を排除するような結果を招いたり、権力の偏りを生み出したりすることがあるかもしれない。そのような結果は支持しないという住民や当事者のリテラシーが質の高い実践を育てることになるだろう。ここでいうリテラシーとは特定の型を身につけることではなく、人と人がともに社会を築くということに向き合うことから得られるものである。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.57

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第254号,2021年2月.

実践の糧」vol. 57

室田信一(むろた しんいち)

私がアメリカ留学を決意したのは高校2年の正月だった。ニューヨークに住む親の知人が家に来たときに、アメリカに行きたかったらいつでも世話するよと言ってくれて、二つ返事で「行きたい」と言ったことを今でも覚えている。日本の大学に魅力を感じることができず、就職したいと漏らしていた私をみて、両親が知人を招いてくれたのかもしれない。しかし、高校3年になり、担任の先生に留学の希望を伝えると、日本の大学に進学してから考えろと頭ごなしに否定された。今でこそ高等教育のグローバル化が進み、海外の大学を目指すことは珍しくないが、今以上に人生のレールが固定化されていた当時、そのレールを外れることに対する反発は強かった。

俗にいう「出る杭を打つ」そうした日本人の価値意識は地域活動の中にも存在する。新しいことや既存の枠組みを外れることは容易には受け入れられない風土がある。市民活動界隈では近年「イノベーション」がキーワードになっているが、皮肉を込めて言えば、イノベーションのレールを敷こうとするそうした働きかけは、真にイノベーティブなものを除外しているように見えなくもない。真にイノベーティブなものはまさに出る杭のように少し目障りだったり、厄介な存在だったりするだろう。そのような存在だからこそゲームのルールを変えるようなイノベーションが起こせるのだ。

厄介な存在だからこそ、イノベーションを起こすことにはそれなりの痛みが伴う。私がかつて住んでいたニューヨークでは出る杭が打たれるという感覚を抱くことはなかった。その代わり、何か新しい取り組みをする際は、本当に魅力的で有意義な提案をしない限り人は集まらないし、1回目の集いに人が集まってもそこに参加する意義を感じなければ2回目の集まりに戻ってくる人はいない。義理や縁でとりあえず参加するという慣習はない。したがってオーガナイザー側は参加者一人一人の動機に対して敏感になる必要があるし、参加者が意見を反映できる余白を残さなければ、その企画は前に進まないだろう。

一方日本の地域活動では、声がかかった会議にとりあえず参加するし、一度参加したら継続して参加するという慣習がある。参加を取りやめることのハードルが高く、同時に一度始めた会を途中で解散することのハードルも高いように思う(失敗の烙印が押されて、次から声をかけづらいような空気ができてしまうからだろうか)。確かにそのような環境ではイノベーションが起こりにくいかもしれない。

そうした中、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、地域活動をめぐる力学が少し変わったように思う。何が起こるかわからない先行き不透明な状況においては、目的が曖昧であったとしても、つながっていることが重要な意味を持つ。災害時でも同様のことがいわれるが、コロナ禍でも同じ力学が働いているようだ。

「出る杭は打たれる」という話をすると、「出る杭」ばかりに注目してしまうが、そこにしっかりと埋まっている「出ない杭」があるからこそ「出る杭」の存在価値が際立つといえる。イノベーションも重要であるが、安定性・継続性が地域にもたらす価値を見つめ直すことも必要だろう。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.56

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第253号,2020年12月.

実践の糧」vol. 56

室田信一(むろた しんいち)

私は高校生の頃にレゲエミュージックが好きになった。きっかけは正確に思い出せないが、確かラジオから流れてきたボブ・マーリーの陽気なリズムが気に入り、インターネットがなかった時代なので、レゲエに関するムック本を買って、レゲエについて調べてCDを買ったりしていた。

その後、アメリカに留学すると、若者が集う街やお土産屋さんなどでボブ・マーリーの写真がプリントされたTシャツやポスター、ポストカードなどがたくさん売られていて、既に亡くなってから15年以上経っていたにもかかわらず、現役のミュージシャン並みの人気だったことに驚かされた。時代を経ても廃れないその存在は、ポップなアイコンというよりも、何か特別な価値観を象徴するアイコンのようでもあった。

高校時代まではその音楽が好きだったので、あまり歌詞の意味についてや、ボブ・マーリーやレゲエが生み出されてきた背景については無知であった。留学して英語を学ぶ中で、徐々にその歌詞の意味について理解し、考えるようになると、そこには大きなメッセージが込められていることを知るようになった。

たとえば、ボブ・マーリーの代表的な曲であるBuffalo Soldierとは奴隷としてアフリカからアメリカ大陸に連れてこられた人たちのことを歌っていることを理解するようになった(その後、南北戦争の時代にアメリカの陸軍の中に組織されたアフリカ系アメリカ人の連隊に対して付けられた名称ということを知った)。

私が最も好きなボブ・マーリーの曲にRedemption Songがある。最初はNo Woman, No CryやOne Loveのような人気曲が好きだったが、歌詞を理解しながら聴くようになってRedemption Songが大好きになった。Redemptionとは贖罪と訳されるが、これはマーリーが罪を贖うということではなく、この歌を歌うことで人がおこなってきた愚行を解放するという意味合いがある。この曲の中に「あなたを精神的な隷属状態から解放しなさい、自分たちしか自らの心を自由にすることはできない」という歌詞がある。日本の高校で受けた世界史の授業では、奴隷制度やアメリカにおけるアフリカ系アメリカ人が歩んできた歴史、今も残る差別などについて少し学んでいたが、その歴史の延長線上に存在するアフリカ系アメリカ人と日々接していると、その歴史がとても身近なものと感じた。それと当時に、自分がボブ・マーリーの歌に登場しないことをとても残念に思った。自分も人類が歩んできた歴史の象徴として、闘うマイノリティとして、そして精神的な解放を必要とする存在として描いてほしいと心から望んだ時期があった。

それから間もなく、外国人コミュニティの一員として、外国人が地域の中で自分らしく生活することを推進する活動に参加することになった。自分はアフリカ系アメリカ人ではないけど、「外国人」という精神的な奴隷になっていたことに気がついた。そこから自分や周囲の人間をその隷属状態から解放することが自分の使命となった。

誰にでもそうした使命がある。その使命に気がついた時、内側から湧いてくるエネルギーを感じることができた。このエネルギーこそ社会を変えて、一歩前に進める原動力になる。そのきっかけをくれたボブ・マーリーに改めて感謝したい。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.55

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第252号,2020年10月.

実践の糧」vol. 55

室田信一(むろた しんいち)

このようなことを書いたら誤解を招くかもしれないが、私は政府をあまり信用していない。もう少し厳密な表現に変えると、無条件に政府を信用することはしない。この価値観がどこから来ているのかわからないが、比較的幼い頃に身についたもののように思う。私の両親が自営業者で、(良くも悪くも)自立心が強かったからなのか、身近に公務員や政府関係者の大人がいなかったからなのか、中学生くらいから教師に対して不信感を募らせていたからなのか。いずれにしろ、政府を信頼して、手放しに行政を任せるという感覚はもっていなかった。

根底にそのような価値観があったからかもしれないが、20歳の頃、留学先のアメリカでヘンリー・デイヴィッド・ソローの著書を読んだときに、とてもしっくり来た。ソローは当時アメリカとメキシコの間で起こっていたメキシコ戦争に反対するため、税金の支払いを拒否して投獄されている。納税とは市民の責務であるが、その収めた税金が自分の望まない目的のために利用されるのであれば、納税を拒否することこそが市民の義務である、というのがソローの主張である。ソローがそうした考えをまとめた『市民的不服従』という書籍や、社会と断絶し森の中に入り、彼の自給自足生活について書かれた『ウォールデン』は有名である。その中に、「政府とは小さければ小さい方が良い」という記述があり、そこからは無政府状態を信奉している彼の思想が読み取れる。こうした彼の思想は、現在のアメリカの保守系の思想にも通ずるところがあるが、一方で、ソローの書籍はキング牧師やガンジーによる市民的不服従の実践に影響を与えたといわれている。

なぜ、ソローを取り上げたのかというと、今から約1年前に参加したある自治体の地域福祉計画推進会議での一人の委員の発言が頭に残っているからである。その委員は地元の企業を代表して委員会に参加している民間企業の社員である。中央政府が推進する地域共生社会について説明を受けたとき、今後は地域共生社会づくりにかかる費用を住民や企業が拠出することも念頭に入れる、というような表記があったところに引っかかり、費用は政府が出すべきだとその委員は声を荒げていた。確かに、政府が推進する政策の費用を地域で拠出しろ、というのはあまりにも虫が良すぎる。しかし、私は政府にお任せの地域づくりがうまくいくはずがないと思っているので、地域づくりに政府が口とお金を出している状態よりも、地域が自主的に取り組んでいる状態の方が良いと思い、こうした政府の「放任」を歓迎していた。その委員が勤める企業の社風も影響しているのかもしれないが、民間企業がそこまで政府依存の思考をもっていることに、驚いたと同時に、少し残念に感じた。

大きな政府が時代に合わないことは明白に思えるが、「大きな社会」や「大きな地域」をつくっていくことは可能であると思う。地域の中で資源が循環し、民主的な意思決定により地域の中でものごとが動いている。そんな社会がすでに始まっているように思う。

ちなみにアメリカでは中学生くらいで必ずソローの文章を読むらしい。そこに国民性の差が生まれるのかもしれないが、たとえば宮本常一の『忘れられた日本人』のような書籍にはソローの思想に通ずるものがあるように思う。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.54

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第251号,2020年8月.

実践の糧」vol. 54

室田信一(むろた しんいち)

新しい生活様式の中で、私の生活に最もインパクトを与えたことは、ビデオ会議システムの導入だと思う。私は大学の教育に携わっているため、無論、全ての授業はオンライン化したし、個別の論文指導や、新入生のオリエンテーションさえオンラインのビデオ会議システムを使用するようになった。当初、オンラインで授業を実施することに抵抗はあったが、やってみると便利な面が多く、特に移動時間を削減できたことが最大のメリットのように思う。かつてはあり得なかったようなスケジュール設定が可能で、授業終了の30分後に外部の会議に参加したり、というように仕事を効率化してくれた。他にも、遠方の人に集まっていただく研究会などの日程調整も楽になったし、週末に開催されるセミナーなどに、家族の時間を犠牲にすることなく、1時間とか2時間だけセミナーに参加するということもできるようになった。

学習効果はというと、実は学生はかつてないほどよく勉強し、対面の授業よりも学習効果が高いように感じている。部活動やアルバイトの時間が減少したこともその背景にはあると思うが、ビデオ会議とオンライン上のシステムを組み合わせることで、授業外学習に真剣に取り組む学生が増えた印象を受ける。遠隔授業のためのオンラインツールはこれまでも存在していたにもかかわらず、しかもそれらを利用することが効果的な学習効果を発揮する可能性があるのに、従来の教育方法に囚われて活用できていなかったことに自分の保守的な部分を発見した。オンライン化が進んだことは、物事の無駄と思われる部分を削ぎ落とし、本質的な部分を浮かび上がらせることを助けてくれた。それは教育現場に限らず、普段の仕事のあり方や、生活のあり方においても同様の効果を発揮してくれた。

そのように新しい生活様式に移行することを好意的に受け止め始めていたある日、取材のために横浜市内のコミュニティ・カフェを訪問することになった。緊急事態宣言が解除されてからまだ間もない頃、その日はコミュニティ・カフェにとって店内の飲食を再開する初日だった。私の家からそのカフェまで片道1時間半ほどかかる。取材の時間は1〜2時間程度であるため、往復の移動時間の方が長くなる。以前は、長い移動時間が伴うことも、そういうものだと受け入れていたが、遠隔に慣れてしまった私の体は、1時間半の移動を面倒だと感じていた。しかし、数ヶ月ぶりにコミュニティの「現場」に足を踏み入れ、地域活動に対して思いのある活動者の人たちと対話をすることは、オンライン会議では得られることができないたくさんの感覚を与えてくれるものだということに気づかせてくれた。複数の人たちが出入りするその空間で、手作りのおいしい食事をいただきながら会話をすることは、脳に入ってくる情報量としてはオンライン会議の比にならないほど多い。にもかかわらず、オンライン会議のような疲労感は全く感じない。むしろ、帰宅中に頭の中にいろいろとポジティブな考えが浮かんできて、帰宅後すぐに別のオンライン会議に参加したが、いつもとは異なり、エネルギーに満ち溢れている自分がそこにいた。

オンライン化によって無駄が省かれて本質が浮かび上がると思ったが、実は無駄の中にある本質までもが削ぎ落とされてしまう危険性が高いことに気づかされた。オンラインのツールを導入する際に、いかにその点に自覚的であるかが、今後の活動を左右するように思う。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.53

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第250号,2020年6月.

実践の糧」vol. 53

室田信一(むろた しんいち)

私が留学していたアメリカの大学院の授業で、集団の意思決定について議論したことを覚えている。コミュニティ・オーガナイジングの授業であるため、学生も教員も民主的な手続きの重要性や一人ひとりの参加に基づく合意形成の重要性について議論していたが、そこで教員が次のような問いかけをしてきた。「総意(コンセンサス)がみんなにとって望ましい意思決定方法であることには間違いないでしょう。しかし、火事場の前で消防隊員が時間をかけて全員が納得のいく結論を出すことをみなさんは望みますか。時と場合に応じて、特に緊急事態においては、総意が必ずしも全員が望む結果へ導くとは限らないのです。」

世界中が新型コロナウイルスの対策に追われる中、各国のリーダーによる強いリーダーシップを求める風潮が高まった。確かに緊急事態の時に、その国のリーダーが対策に迷って方針を示すことができなかったり、実行力が乏しかったりすると、さらなる惨事を招きかねない。しかし、緊急事態に便乗して、政府の権限を著しく強化する法案が可決されてしまったり、個人の自由を制限する政策が推進されるということが各国で実際に起こっていることを見過ごすことはできない。特に首相の権限を拡大し、非常事態宣言の無期限延長を可能にする非常事態法を可決したハンガリーの政策には、世界から批判的な目が集まっている。

確かに火事場の前で消防隊員が時間をかけて意思決定することを誰も望まないだろう。しかし、緊急事態においては、人は視野が狭くなり、誤った選択をする確率が高まる。だからこそ、一度決めた判断に対して臨機応変に必要な修正を加える機転と勇気が必要になる。消防隊のリーダーが誤った判断をしたために、全隊員が火事の犠牲になるようなことは避けなければならない。誤った選択をした後に、「ほら、だから言ったでしょ」とか「今更どうするんだ」「リーダー失格だ」というような批判は何も生み出さない。むしろ、次に何ができるかを考えて、リーダーがリーダーシップを発揮して、状況に応じたより良い判断ができるように促すことが周囲の人間ができることである。

緊急事態宣言は解除されたものの、地域の中ではいまだに三密を回避するような配慮が求められている。地域の活動においても、良かれと思う行動が、ソーシャル・ディスタンスを守らないということで「自粛警察」の警備対象になることもあり得る。事実、地域からは活動再開に対する慎重論が出ている。活動を再開することも、活動を自粛することもどちらも地域住民のことを思った故の判断であるにも関わらず、その両者で意見が対立することは悲しいことだ。リスクを犯す必要はないが、まずは何ができるかを考え、それをやってみて、修正を施すという作業が今は求められているのだろう。

アベノマスクは小さくて使い勝手が悪いので、評判は良くない。安倍首相も、やっぱりこれは使いにくいから別のマスクに変えますと言えればいいのだろうが、そのような発言をしたら集中砲火を浴びることになるのだろう。ちなみに我が家ではステイホーム中に藍染めキットを購入してアベノマスクを絞り染めにしてみた。今では小学生の息子のお気に入りのマスクになった。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.52

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第249号,2020年4月.

実践の糧」vol. 52

室田信一(むろた しんいち)

昨年の11月からアメリカに3ヶ月間滞在した。短期滞在ということもあり、滞在中にシェアリング・エコノミーを体験する機会に恵まれた。たとえば短距離の移動であればUberを頻繁に利用した。携帯のアプリで行き先を入力して車を呼べば、見ず知らずの人が運転する自家用車が到着し、目的地まで運転してくれる。まるでご近所さんが車を出してくれたような気分になる。AirBnBを利用して民泊も多く活用した。家主さんとオンライン上で、「戸棚にあるお酒は自由に飲んでいいですよ」とか「ベッドルームの引き出しは薬が入ってるので開けないでください」などというやりとりをして、他人の家にお邪魔する体験は興味深かった。

そして、ソフトバンクが出資したことで有名になったWeWorkのシェアオフィスを利用する機会もあった。オフィスの訪問者は受付で身分証明書を求められるため、最初は招かれざる客のように感じるが、ひとたび中に入るとコミュニティ・スペースと呼ばれる開かれた空間があり、無料のコーヒーやビールまで用意されている。利用者はあたかもそのコミュニティの住人のようにくつろぎながら打ち合わせをしたり、自分のペースで仕事をしたりしている。部外者の私がそこにいても誰も気にしない。入り口のセキュリティを通過することでコミュニティのメンバーとして承認されているということだろう。

WeWorkが運営する宿泊施設のWeLiveにも滞在した。WeLiveに立派な受付エリアはない。代わりにコミュニティ・アソシエイトと呼ばれる担当者がノートパソコンで仕事をしながら対応してくれる。WeLiveでは従業員のことをコミュニティ・チームと呼んでいる。何かあればコミュニティ・チームに相談してくださいと言われる。

そのWeLiveに宿泊した時のことである。チェックアクトした後に部屋に忘れ物をしたことに気がつき、コミュニティ・アソシエイトにメールをした。1日待っても返事がなかったので電話をしたら、そのような忘れ物はない、という返事だった。なんとも心細い気持ちになった。コミュニティは人を包摂する温かいものであると同時に、人を排除する冷たいものにもなる。チェックアウトしてお金を払い終わった私はもうコミュニティのメンバーではなくなったという事実を強く感じた。

シェアリング・エコノミーはコミュニティという言葉を頻繁に使用する。シェアリング・エコノミーは、情報技術を駆使したシステムを導入することで、半公共の空間を作り出し、従来のビジネスに存在した過剰な接客によるコストを削減するというビジネスモデルを採用している。すなわち、コミュニティの入り口で、ある程度のセキュリティチェックを受けるが、ひとたびシステムの利用者になると、コミュニティのメンバーとして半公共の空間を他者とシェアすることになる。当然、利用者にはコミュニティの規範を守ることが期待される。一方、経営者はコミュニティの概念を持ち込むことで、サービスの質を利用者に委ねることができる。

シェアリング・エコノミーで成り立つ経済は、このようにしてコミュニティを商品化していくのだろう。この流れは商品化されていない既存のコミュニティを侵食し始めるに違いない。事実、日本でも社会起業家と呼ばれる人たちが既存のコミュニティの商品化を試みている。改めてコミュニティを再社会化することの重要性を強く感じた。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.51

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第248号,2020年2月.

実践の糧」vol. 51

室田信一(むろた しんいち)

職場の長期研究休暇制度を利用して、久しぶりにニューヨークに来ている。ここでの生活からはたくさんの刺激を受ける。日本の当たり前が当たり前でないということに気づかされるのは海外旅行の醍醐味であるが、そのこと以上に、日本では変えられないと思ってしまっていることを変えている現場を見ると、希望を抱くことができる。同時に、自分が「変えられない」という思考に陥ってしまっていたことに気づけたことも大きな財産である。

小さな変化かもしれないが、たとえば、地元の公園の設備や保全状態に不満を感じた住民が改善点をリストアップして市の公園事務所にそのリストを提出したところ、8割以上の提案が受け入れられ、改善されたという事例を耳にした。その一連の活動をコーディネートしたのがコミュニティ・オーガナイザーだったという話を聞くと、日本でも同様のことができるだろうと思う。一方で、日本の公園はアメリカの公園のように改善する余地はあまりないかもしれないとも思う。アメリカ(特にニューヨーク)で散見される社会問題や表面化した格差や差別の問題が日本でも同様に存在するとは限らない。そのような指摘は部分的に該当するかもしれないが、むしろ問題が表面化していないことの問題にこそ光を当てなければならない。

問題が表面化しない社会というと、マトリックスという映画の世界が彷彿される。マトリックスの舞台では、人は催眠状態で機械の中に閉じ込められ、経済的に潤っていると考えられた1990年代のバーチャルリアリティを脳内に直接投影されている。主人公のネオやその仲間は、その幻影から脱出し、ロボットが支配する厳しい現実世界の中に身を置き、人類を救うために闘う道を選ぶ。映画の中に、厳しい現実世界に疲れてしまった登場人物の一人が、幻影でもいいのでバーチャルリアリティの世界に戻ることを希望するシーンがある。彼は現実世界の辛い記憶を全て消し去って、幻影の世界に戻ることを求めるのである。

この映画は、何の問題もなくみんなが幸せな世界とは、実は問題が表面化していない世界なのかもしれないということを示唆している。そして、そのことに無意識であり続けることの恐ろしさを警告している。アメリカは、社会問題を多く抱えている国で、福祉の水準が低い国として語られることが少なくない。それは裏を返せば、社会問題が表面化していて、その表面化した社会問題に意識的な国だということでもある。そしてその国には社会問題を改善しようと活動している市民が多く存在する。

以前、私が日本で子ども食堂の普及活動に関わっていた時、地域によっては住民から「うちの地域に子どもの貧困なんて存在しない」というリアクションを受けることがあると聞いた。貧困の定義や捉え方にもよるが、子どもの7人に1人が貧困状態にあるといわれる今日、子どもの貧困が存在しないという認識は、現実問題の表面化を滞らせる。

子どもの貧困に限らず、外国人やセクシャル・マイノリティが直面する問題、沖縄の基地問題、男女の社会的格差など、日本社会のどこかにそうした問題の表面化を押さえつける風潮がある。「そうは言っても、日本はそこまで悪い国ではないから」という考えがどこかにあって、必死になって変えなくてもいいと思い込んでしまっている。久しぶりにニューヨークに来たことで、自分がそんな心地いい幻影の中であぐらをかいていたことに気づかされた。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.50

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第247号,2019年12月.

実践の糧」vol. 50

室田信一(むろた しんいち)

事務所に戻るなり、地域解放コーディネーターの池田はこう言った。「なんで役所の人間はわからないのかなぁ。外国人だけを支援しちゃうと地域の中の差別を助長するし、逆差別っていうナンセンスをぶつけてくる人が増えることは目に見えてるのに・・・。」

地域解放コーディネーターとは、急増する外国籍住民への対策を強化することを目的に、2030年に成立した「移民・難民救済措置法」の一環として厚生労働省が全国に配置したコーディネーターである。十数年前、地域共生社会を推進する政策として相談支援包括化推進員が全国に配置された。当初は「断らない相談支援」という理念を掲げ、タテ割りの制度を横でつなぎ、制度の狭間を埋める施策として期待されたが、その理念が空虚に思えるほど、国内で増加した外国籍住民に対する支援には無力であった。

国内で高まる外国籍住民への差別意識や増加するヘイトクライムへの対策という表向きの顔を備えつつ、実質的には移民管理を強化することが目的の「移民・難民救済措置法」を政府が成立させた。翌年にはその大綱が発表され、厚生労働省が地域解放コーディネーターの配置を推進した構図だ。政権肝いりの政策なだけに政府は積極的に予算をつけた。

地域解放コーディネーターの多くはNPOや社協に配置された。しかし、事業を統括するのは行政の担当部署である。措置法が成立するまで外国籍住民の管轄は市民部や生活文化部といった部署が担当してきたため、福祉関連の部署には情報やネットワーク、ノウハウなど全てにおいて蓄積が乏しかった。また、従来の福祉における「支援」の考え方が、外国籍住民への支援に適切ではないことも明白であった。

池田浩二はA市社協のベテランワーカーである。池田の経歴は少し変わっている。大学卒業後、民間の旅行会社で営業の仕事をしていた池田は、30歳手前で退職し、バックパックで世界を1年間旅したのち、日本の救護施設で福祉の仕事のキャリアをスタートした。その後、生活困窮者自立支援の取り組みが各地で始まったことをきっかけに、A市社協の相談員となった。社協で働くことにプライドをもっているが、一方で、社協の体質に呆れている面もある。そんな池田の口癖は「国が子どもの貧困対策にお金をつけるまで社協は子どもを支援対象として見てこなかった」である。そんな性格の持ち主だから、政府が外国人支援を政策化してからようやく外国人支援に取り組む社協の体質に不満が募っていた。その上、行政は外国人支援を結局タテ割りの施策にしてしまうため、冒頭の池田の発言のように、差別の助長や逆差別という意識を生み出すことにつながりかねない。「地域解放コーディネーターという呼称に込められた意味をわかってない」と珍しく国の政策を持ち上げて、行政への不満をぶつけたりもしている。

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記念すべき連載50回目の今回は小説風で書くことに挑戦してみた。それも近未来の物語である。説明がやや多くなってしまったことはご愛嬌として、皆さんはどのように読まれただろうか。私はSFが好きである。なぜならSFは未来を描くことで、現実社会を相対化し、そこに潜んでいる矛盾や欠点を指摘してくれるからである。私たちは過去から学ぶこともできるし、未来を想像することからも学ぶことができる。そして想像した未来を回避することもできるのである。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。