シリーズ『実践の糧』vol.50

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第247号,2019年12月.

実践の糧」vol. 50

室田信一(むろた しんいち)

 事務所に戻るなり、地域解放コーディネーターの池田はこう言った。「なんで役所の人間はわからないのかなぁ。外国人だけを支援しちゃうと地域の中の差別を助長するし、逆差別っていうナンセンスをぶつけてくる人が増えることは目に見えてるのに・・・。」

地域解放コーディネーターとは、急増する外国籍住民への対策を強化することを目的に、2030年に成立した「移民・難民救済措置法」の一環として厚生労働省が全国に配置したコーディネーターである。十数年前、地域共生社会を推進する政策として相談支援包括化推進員が全国に配置された。当初は「断らない相談支援」という理念を掲げ、タテ割りの制度を横でつなぎ、制度の狭間を埋める施策として期待されたが、その理念が空虚に思えるほど、国内で増加した外国籍住民に対する支援には無力であった。

国内で高まる外国籍住民への差別意識や増加するヘイトクライムへの対策という表向きの顔を備えつつ、実質的には移民管理を強化することが目的の「移民・難民救済措置法」を政府が成立させた。翌年にはその大綱が発表され、厚生労働省が地域解放コーディネーターの配置を推進した構図だ。政権肝いりの政策なだけに政府は積極的に予算をつけた。

地域解放コーディネーターの多くはNPOや社協に配置された。しかし、事業を統括するのは行政の担当部署である。措置法が成立するまで外国籍住民の管轄は市民部や生活文化部といった部署が担当してきたため、福祉関連の部署には情報やネットワーク、ノウハウなど全てにおいて蓄積が乏しかった。また、従来の福祉における「支援」の考え方が、外国籍住民への支援に適切ではないことも明白であった。

池田浩二はA市社協のベテランワーカーである。池田の経歴は少し変わっている。大学卒業後、民間の旅行会社で営業の仕事をしていた池田は、30歳手前で退職し、バックパックで世界を1年間旅したのち、日本の救護施設で福祉の仕事のキャリアをスタートした。その後、生活困窮者自立支援の取り組みが各地で始まったことをきっかけに、A市社協の相談員となった。社協で働くことにプライドをもっているが、一方で、社協の体質に呆れている面もある。そんな池田の口癖は「国が子どもの貧困対策にお金をつけるまで社協は子どもを支援対象として見てこなかった」である。そんな性格の持ち主だから、政府が外国人支援を政策化してからようやく外国人支援に取り組む社協の体質に不満が募っていた。その上、行政は外国人支援を結局タテ割りの施策にしてしまうため、冒頭の池田の発言のように、差別の助長や逆差別という意識を生み出すことにつながりかねない。「地域解放コーディネーターという呼称に込められた意味をわかってない」と珍しく国の政策を持ち上げて、行政への不満をぶつけたりもしている。

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記念すべき連載50回目の今回は小説風で書くことに挑戦してみた。それも近未来の物語である。説明がやや多くなってしまったことはご愛嬌として、皆さんはどのように読まれただろうか。私はSFが好きである。なぜならSFは未来を描くことで、現実社会を相対化し、そこに潜んでいる矛盾や欠点を指摘してくれるからである。私たちは過去から学ぶこともできるし、未来を想像することからも学ぶことができる。そして想像した未来を回避することもできるのである。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.49

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第246号,2019年10月.

実践の糧」vol. 49

室田信一(むろた しんいち)

「現代コミュニティ・オーガナイジングの父」とも言われるソウル・アリンスキーがその著書の中で、世界恐慌後にルーズベルト大統領が語ったことを引用している。世界恐慌は1929年のアメリカの株価暴落を発端に始まった世界的な経済不況のことである。ルーズベルト大統領は、経済危機への対策として世界で初めて社会保障法を制定し、失業保険や退職金制度、年金制度などを整備した。

当時も今も、アメリカは自由主義的な政策志向が強く、国家が社会保障に積極的になることに対して風当たりが強かった。そこでルーズベルト大統領はこのように言ったのだ。「私にもっと圧力をかけなさい。そうすれば私は社会保障にもっと積極的になれる」と。政府に対して民衆がデモなどによって圧力をかけることがある。その現象は政府による政策の問題を民衆が糾弾しているように表象される。しかし、そのようにして政府が圧力をかけられている状況は複雑な力動の中に成立していることを理解しなければならない。

私の恩師でニューヨーク市立大学ハンター校で長年コミュニティ・オーガナイジングを教えていたミズラヒ教授は、コミュニティ・オーガナイジングの基本原則という論文の中で、次のようなことを書いている。「あなたが影響を与えたいと思っている対象が、統制された一枚岩の構造であると思い込んではいけない。内部にある圧力や分裂、脆弱さをさぐり、その内部で仲間や協力者を見つけることが重要だ。」

人がある判断をするとき、その人の価値観から判断しているのか、立場上そのような判断を下しているのか、定かではない。両者が一致するときもあれば、対立するときもある。ソーシャルワーカーなどの専門職が個人と組織の価値観の間でジレンマを抱えることはよく知られたことである。

コミュニティ・オーガナイザーにとって、組織内の力関係や、組織の担当者の本心をアセスメントすることは重要である。世界恐慌後のルーズベルト大統領のように、外部からの圧力があってはじめて本当に推進したい政策に着手できるという政治的状況もあり得る。もしくはルーズベルト大統領の本心は、社会保障に対して消極的なものだったのかもしれない。民衆による圧力があって初めて積極的に考えるようになったのかもしれない。人の本心とは、時に自分さえもわからなくなるものである。そうであればなおさら、現実社会をつくりだすのは具体的な行動であり、その行動に影響力を与える人の力である。

私も含めて、政府の政策に対して不平不満を述べることがある。しかし、上記のような力動を前提とするならば、政府の無策や至らなさとは、裏を返せば、その無策や至らなさを容認してきた市民の問題でもある。政府の内部に協力者を見つけ出し、その協力者が内部で力を発揮できるように外部から働きかけることが、結果として責任を果たす政府を生み出すことになる。

哲学者の鷲田清一は自著『しんがりの思想』の中でそうしたアクションを「押し返し」と呼んでいる。政府に丸投げの無責任な市民ではなく、押し返すことで市民としての責任を果たすということである。毎週金曜日に学校をボイコットして押し返し続けてきたスウェーデン人のグレタ・トゥンベリさんが注目を集めているが、世界に注目されない身近な押し返しが街なかに溢れた時に責任ある市民と政府の関係ができあがるのだろう。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.48

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第245号,2019年8月.

実践の糧」vol. 48

室田信一(むろた しんいち)

なんでボランティア活動に取り組むのか、という質問に対して、「楽しいから」という答えを耳にすることがよくある。同様に、市民活動やボランティア活動にとって重要なことは何か、という質問に対して、「まずは楽しむこと」という回答もよく耳にする。

確かに、楽しいことは大事だと思う。楽しくなさそうな活動には誰も参加したいと思わないから、楽しいという要素が必然だという主張に反対はしない。しかし、ボランティア活動にとっての「楽しさ」には少なくとも二つの異なる「楽しさ」があると思うので、それを整理しておかないと、二つを混同して使ってしまう可能性があるし、実際に混同していることが少なくないと思う。

二つの異なる「楽しさ」のうちの一つ目は、その行為自体の楽しさである。なかなか結論が出ない会議に参加することや、過酷な条件の下で退屈な作業を続けることのように、その行為自体に魅力を感じることがなく、「やりたい」と思えない場合、そこに第一の「楽しさ」は存在しないだろう。その点、美味しいご飯をみんなで食べる子ども食堂の活動や、たくさんの人で賑わう地域のお祭など、その催し自体に楽しい要素が含まれている場合、この第一の「楽しさ」が該当する。(ただし、子ども食堂やお祭を楽しいと感じるかどうかは個人の主観による。)

一方、第二の楽しさとは、その行為自体に「楽しい」要素は付随しないかもしれないが、その行為が何か大きな目的に向かって蓄積するものであり、たとえ地道な活動だとしても、そこに携わっていることに誇りを感じたり、社会的な意義を感じたりするような行為である。たとえば、なかなか結論が出ない会議に参加したとしても、その会議を開催することによって、参加者の意思の疎通を図ることができ、重要な情報が共有され、次なる活動の道筋が明らかになるのであれば、会議に参加することにやりがいを感じるに違いない。また、退屈な作業に取り組んだとしても、それが何か大きな目的のために必要な行為であれば、その時間は充実したものになるだろう。

余談だが、私はイベントを企画する時、その前日ギリギリまで居残りして準備をすることが好きである。印刷室にこもってひたすら資料を印刷しているときに、明日この資料が参加者の手に配られる、というなんともいえない高揚感を感じる。作業自体は退屈かもしれないが、前日までドタバタ作業している方がイベントを作っているという感覚を得ることができ、自分の行為が良いイベントにつながり、そのイベントを通して社会が少しでも変わると感じることができたとき、「楽しい」と感じる。

このように整理してみると、ボランティア活動や市民活動にとって、第一の「楽しさ」があるに越したことはないが、どちらかというと第二の「楽しさ」こそが重要なのではないかと思う。第一の「楽しさ」だけでボランティアを募ってしまうと、「楽しくない」と感じた時にその人は離れていくだろう。一方、第二の「楽しさ」にハマった人は、そう簡単に活動から離れることはないだろう。

「楽しさ」を売りにボランティアを募集することは、第一の「楽しさ」ばかりが強調されてしまい、結果として本当に参加してほしい人材と出会う機会を逸してしまう可能性がある。では、「楽しくないかもしれないけど、社会的な意義があって、充実感を得られるよ」という誘い文句が効果的かどうかは、その活動の中身次第である。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.47

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第244号,2019年6月.

実践の糧」vol. 47

室田信一(むろた しんいち)

アメリカではコミュニティ・オーガナイザーやソーシャルワーカーが弁護士と一緒に仕事をすることが少なくない。たとえば、劣悪で違法な住宅に居住している住民が、家主に対して訴訟を起こすと同時に、そうした劣悪な環境を改善するために、そのアパートの借家人組合を結成して家主に改善を求めるというような活動がある。その場合、弁護士が訴訟を担当し、オーガナイザーが住民組合の組織化を担当する、というような役割分担がなされる。

オーガナイザーと法律家には異なる専門性が求められる。専門性の違いの顕著な例が使う言語である。法律家は使う言語に厳密である。なぜなら、言葉の使用一つで、法廷では異なる解釈や異なる判決を招くことがあるからだ。したがって、法律家は曖昧な言語を使用しない。一方、オーガナイザーは曖昧な言語を多用する。といっても適当に仕事をしているわけではない。オーガナイザーは、自分が正しい決断や正しい答えを提供することが、最善の結果を生み出すとは限らないことを知っている。そのため、複数で結論を出すような場面では、余白を含むあいまいな言葉をあえて使用して、自身の決断を未確定のものとして提示する。(なお、こうした整理はあくまでもステレオタイプであり、以下ではこのステレオタイプを前提に議論を進めることをご承知おきいただきたい。)

たとえば、グループの中で意思決定しなければならない事項があるとする。それが、新たにグループに加わるメンバーに関する意思決定だとしよう。法律家は、グループ加入のルールや手続きについて、メンバーに正確に説明することを重視するだろう。その上で、最も妥当な選択について自身の判断を伝えることもあるかもしれない。

一方でオーガナイザーは新たなメンバーが加入することに対するメンバーの感覚を確認することを優先する。人は、他人の意見に流されやすい。そのため、法律家が一方に偏った意見を述べると、他のメンバーもその決断に流される可能性が高い。しかし、そのような意思決定は、メンバーの本当の気持ちを反映しているとは限らないため、よからぬ結果を招く危険性がある。たとえば、実は自分は当初から反対だった、というような発言があとから出てくるかもしれない。結局は、主体的な意思決定の手続きが取られていないことが問題なのである。

コミュニティ・オーガナイザーは、たとえば「みんなはどう思う」というような投げかけをするかもしれない。そこでいう「みんな」に誰が含まれているかがあいまいである。そのため、メンバーの中からは「みんな」とは誰のことを指すのか、質問が上がるかもしれない。もしそのような質問が上がったとしたら、それがコミュニケーションの始まりである。その意思決定事項に対して、そもそも誰が関与した方がいいのか、関与する人は全員同じ発言権を保持するのか、誰が議論を牽引するのか、といったことに対して合意を形成していく。

オーガナイザーの使用する言語は専門性に基づくものとして扱われにくい。専門性が欠如しているという評価が下されることも少なくない。しかし、オーガナイザー同士であれば使用している言語にすぐにピンとくる。あ、この人は人を信じているな。そして、人が力を蓄積して変化を起こすことに本気で取り組んでいるな、と。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.46

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第243号,2019年4月.

実践の糧」vol. 46

室田信一(むろた しんいち)

私は東京都の認知症対策推進会議の委員を務めている。就任の声がけがあった時に「なぜ、私が」と思い、適任ではないということでお断りしたが、地域の視点から認知症対策を考えて欲しいという説明を受け、お引き受けすることにした。会議のメンバーには医療関係者が多く、他には認知症ケアに関わっている専門家や家族会関係者、民生・児童委員などによって構成されている。

先日、その会議に出席した時のことである。その日の会議は、東京都の職員から次年度の認知症対策について提案をしてもらい、その提案に対して委員がコメントをするということが主な議題であった。その提案の中に認知症の検診を推進する事業があった。この事業は、都民が自身の認知症の症状を確認するセルフチェックのためのパンフレットを配布し、もし認知症に該当する項目が多くみられた場合、最寄りの医療機関で検診をすることを推進する事業で、この事業を年間1億4000万円の予算規模で推進するという提案であった。地域活動の観点から、このようなパンフレットをいくら配布したところであまり効果は期待できないとすぐに判断したが、その会議では私のような観点をもつ人は少数派で、おそらく医療関係者にとってはパンフレットを配布するアプローチが主流なのだろうと思い、多勢に無勢なので口をつぐんでいた。

ところが、都のこのような提案に対して医療関係者が率先して反対意見を投げかけた。そもそもパンフレットを各自治体で配布したところで、実際に認知症傾向のある人にパンフレットが行きわたるように届けることは難しいという意見や、仮にパンフレットが手元に届き、セルフチェックをした結果、認知症の傾向があることがわかった場合、その人は本当に医療機関で検診をするのかという意見、そして、そのような事業に年間1億4000万円も予算を費やすことは無駄ではないか、という意見などで会議は紛糾した。

私がここで述べたいことは、認知症早期発見に対する効果的なアプローチに関してではない。パンフレットはないよりはあったほうがいいと思う。年間1億4000万円という予算が妥当なのか、その判断はなんとも難しい。

私が述べたいことは、私の偏見が、有識者として東京都の会議に出席する私の役割を邪魔していたということである。私は、医療関係者はパンフレットを配布するだけの啓発に満足していると思っていたし、1億4000万円という予算に対するコスト意識をもちあわせていないと思っていた。そして、その会議で私だけが東京都の提案に違和感を感じていると思っていたし、その違和感を表明したところで誰も共感してくれないと思っていた。その結果、会議に出席しても、消極的にただ座っているだけの存在になっていた。そんな自分のことを恥じた。

偏見は誰にでもあるし、偏見をなくすことはできないと思っている。大事なことは、行動を起こす時に、自分の偏見にどれほど意識的になれるかということである。今回の私の場合、偏見によって行動を起こさないことが、私の委員としての役割を大幅に制限してしまっていた。そのことに気づかせてくれた委員の積極的な態度に感謝したい。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.45

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第242号,2019年2月.

実践の糧」vol. 45

室田信一(むろた しんいち)

ここ数年、私は本気で怒ることがなかった。社会福祉関係者や市民活動している仲間と雑談をしていて、何かに対して怒りを感じているという話を耳にすることがあるが、その度に、自分は同じレベルで怒ることができるのか不安になっていた。自分が冷めていることを残念に感じていた。というのも、社会を変えるエネルギーの根源として怒りの感情が重要だと思うからである。自分が理想と思う社会にとって、ある人の言動がその理想と逆行している場合に怒りを感じたり、自分が思う理想的な社会に対して矛盾している制度や仕組みがあると、それを何とかして変えてやるという怒りのエネルギーが湧き上がってきたりすると思う。自分にはそれが欠けているのではないかと、ここ数年、気になっていた。

確かに、現状に満足しているか、というと、やや満足しているところがあるように思う。私がずっと取り組んできたコミュニティ・オーガナイジングを理解して、それを実践したり、ノウハウを広めようと活動する仲間がいて、さらにコミュニティ・オーガナイジングを共に研究する仲間も増えてきた。そのように自分が考える理想的な状態に近づくことは幸せである。10年以上前、アメリカから日本に帰国したばかりの頃、誰もコミュニティ・オーガナイジングに耳を傾けてくれなくて「こんちくしょう!」と思っていた頃とは変わってしまったのかもしれない。

しかし、先日、人前で堂々と怒ることがあった。それは次のようなことを言われたことに起因する。「室田さんは本当にしんどい現場を知らない。」ここでいう「しんどい」とは過酷という意味で、過酷な思いをしている人たちが多くいる現場を私が知らない、とその人は言いたかったのである。私はその発言をした人物に対して、強く反発して、発言の撤回を求めた。「そうですかねぇ」とか「いや、そんなこともないですよ」と受け流すこともできただろうが、その日の私は違った。

実は、私が怒りを感じたのは、「しんどい現場を知らない」という指摘に対してではない。私が最も違和感を感じたのは、現場に対して「本当にしんどい」とか「しんどくない」という評価を下していることだった。その上で、より過酷な現場を知っていることが偉い、といった価値観を押し付けられたような気がした。

そもそも、私は現場に優劣をつけることが許せない。どのような現場も尊く、そこで行われている実践はどれも意味がある。よく見かける、誰にでもできる実践だとしても、その実践には文脈があり、思いがあり、意味がある。ちなみに、私はアメリカで不法滞在しながら家族をギリギリ支えている移民の人たちを多く支援していた。アフリカのモザンビークのスラムの開発支援に参加したこともある。それらの現場は「しんどい」現場かもしれないが、そこに優劣をつける意味はない。

大事なことは現場の優劣ではない。自分がその現場にどのように関わるかである。現場という人が生活する世界に足を踏み入れるのであれば、功罪含めてその影響に対して意識的である必要がある。生活者から遠く離れたところで、現場を評論するような物言いに対して怒ることができた自分を誇りに思う。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.44

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第241号,2018年12月.

実践の糧」vol. 44

室田信一(むろた しんいち)

最近、たまたま知った女性4人組のガールズバンドCHAIの音楽にハマっている。ラジオで紹介されていたことがきっかけで好きになったが、最初はその音楽性よりもCHAIが提供する価値観に魅了された。CHAIのメンバーは自分たちのことを「NEOかわいい」と表現している。彼女たちは自分たちの容姿にコンプレックスを抱き、いわゆる世間一般でいうところの「かわいい」カテゴリーに自分たちが該当しないと自覚している。しかし、彼女たちは「すべてのコンプレックスはアート」と宣言し、自分たちを「かわいい」ではなく「NEOかわいい」として捉え、概念の刷新を提案している。代表曲の「N.E.O.」はまさしくその概念を表現した楽曲で、CHAIの楽曲はどれも既存の概念を刷新し、新たな視点を提示するものが多い。自分たちの個性を自由に表現する彼女たちの姿はとても魅力的で、私は楽曲を通して彼女たちが表現する世界観に魅了されるようになり、「NEOかわいい」の虜になってしまった。

私がもっとも共感した点は、「NEOかわいい」ことは「かわいい」ことに対立するものではないということである。つまり既存の概念の否定の上に成り立つものではない。実際、彼女たちは「かわいい」ものが大好きなのである。社会の中には「かわいい」のヒエラルキー構造が存在する。偏った表象によってのみ形成されているそのヒエラルキー構造を否定することは簡単であるが、その構造が成立する世界では「否定すること」は何の効力ももたない。彼女たちは、むしろその構造の存在を認め、構造を理解し、さらには自分たちがそのヒエラルキー構造の上位に位置しないことを自覚した上で、ヒエラルキーの中に存在するゲームのルールを少し変えるということを提案している。それはまるでヒエラルキーというピラミッドの頂点をくるっと回転させて、どの頂点が上部に位置するのかわからなくなるような転換である。

そのような転換は、ブラジルの教育実践家であるパウロ・フレイレが提唱していた意識化や文化行動と共通する。ブラジル社会の中で底辺に位置付けられていた農民たちに対して、フレイレは識字教育を通して彼らが直面している現実世界を理解することを促した。彼らを抑圧する者に対抗し、抑圧し返すことは、結局同じ抑圧的な構造を生み出すこと(=非人間的なこと)であり、それは問題の根本的な解決にはならない。フレイレの教授法は、農民たちが内発的な力を発揮することによって、自分たちがおかれた状況を転換し、彼らが属する社会に反映させるというものである。CHAIのメンバーが自分たちの中に潜在していた「NEOかわいい」側面を表現して、社会に存在する「かわいい」のヒエラルキー構造を転換していることと、共通する部分がある。

私たちの社会には様々なヒエラルキー構造がある。「経済力」はもちろん、「学力」、「身体能力」といったモノサシによって生み出される構造は、その社会を構成するメンバーが受け入れることで成り立っている。その構造は固定化された価値観を強要し、底辺にいる者はもちろん、上層部にいる者にとっても変えることが困難になる。

CHAIの音楽が示す世界観は、いかにして既存のパラダイムを転換するのか、そのヒントと勇気を与えてくれる。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.43

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第240号,2018年10月.

実践の糧」vol. 43

室田信一(むろた しんいち)

前回は、住民活動をコーディネートする人を地域の中で雇用するための財源について書いた。1つの事例では、自治会加入率100%の大型団地で、1世帯あたり会費を毎月500円集めてコーディネーターを雇用していた。別の事例では、ある区画の高層マンションのすべての世帯から月額300円の会費を集めて、その地域の住民活動をコーディネートするNPOの職員を雇用していた。どちらの事例も、その地域に居住する住民は、半強制的に会費を徴収される仕組みになっている。

今回は、その半強制という考え方について考えを巡らせてみたい。皆さんの周りにはどのような半強制の仕組みがあるだろうか。半強制の定義は難しいが、ここでは生活する上でその仕組みを利用する、ないしは受け入れなければならないものとしよう。おそらく最も身近でわかりやすい例はNHKの受信料ではないだろうか。テレビを所有するすべての世帯はNHKの受信料を支払う必要がある。NHKを視聴してもしなくても、半強制的に一律に受信料を徴収される。これに対して異議を唱える人はいるが、国民の圧倒的多数はこの仕組みを受け入れて、サービスを利用している。

半強制はサービスの利用に限らない。PTA活動は任意の取り組みと言われながら、児童を学校に通わせている保護者は半強制的に参加を強いられている。そのことに異を唱えて、任意団体としての性格を重視すべきだという指摘もある。そのような議論が生まれるのは、半強制の仕組みは規制と自由の間のグレーゾーンに位置づけられ、義務ではないものの、ほぼ全員が参加することにより、参加しないという選択肢が奪われているからである。

そのように書くと、半強制は悪いもののように聞こえてしまうかもしれないが、半強制の仕組みを維持するために、その仕組みを提供する側は様々な努力をしていることを忘れてはならない。NHKは受信料をとり、公共放送と位置付けることで、視聴者(≒国民)にとって満足のいくコンテンツを提供することを強く意識している。さらに、視聴者の満足度だけでなく、公共性を意識して公平性や教育的効果、文化継承、政治的参加も踏まえたコンテンツ制作をしている(少なくともその努力をする立場が求められている)。PTAに関しても、半強制的な仕組みになっているが故に、役員になった人たちはその仕組みを形骸化させないように工夫を凝らしている。ただし、そのことが過度な負担となり、不満の原因にもなっている。

前回紹介させていただいた高層マンションの住民全員が加入するNPOに関しては、近隣に新たに建設された高層マンションを会員に含めるべきか真剣に議論をしたという。結果的には、新たに建設されたマンションの立地が、現在会員に入っているマンションと電車の線路を挟んで分断されており、コミュニティとしての一体感を生み出すことが難しいという判断になり、拡大することをやめたという。この事例からも、半強制の仕組みによって作り出されるコミュニティとしての一体感を意識することの重要性がわかる。

私たちの暮らす社会は、規制(ルール)さえ守ればあとは個人の自由、と考えられがちだが、実は身の回りに半強制的な仕組みが溢れていることに気がつく。それは他者と共に社会を構成し、社会の中のサービス(諸活動)の利益を享受し、生活を共にする際に、必然性に基づいて作られた仕組みといえる。しかし、その仕組みがいつしか形骸化してしまうと、仕組みとしての求心力が失われてしまう。半強制という考え方に意識的になることで息を吹き返すコミュニティが出てくるかもしれない。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.42

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第239号,2018年8月.

実践の糧」vol. 42

室田信一(むろた しんいち)

今回は、コミュニティで人を雇用するということについて考えたい。前回書いたように、かつての村落共同体ではそのリーダーがコミュニティのメンバーの考えをまとめ、活動をコーディネートする役割を担っていた。社会の分業化が進んだことにより、コミュニティを取りまとめたり、コーディネートする存在が雇用され、配置されるという方法が採られるようになった。では、そのコーディネーターの財源はどのように準備するものだろうか。

現在、日本の各地には生活支援コーディネーターという職員が雇用され配置されている。主として地域における高齢者の生活支援の仕組みづくりを担当する生活支援コーディネーターを雇用するその財源は介護保険から拠出されている。地域の支え合いの仕組みをつくることが被保険者の利益につながるという論理が、生活支援コーディネーターの人件費の根拠となっている。つまり、住民が費用を直接負担するものではない。

これに対して、住民が資金を直接拠出することでコーディネーターを雇用しているケースがある。都内のある大型団地にはおよそ1700世帯が居住している。この団地は自治会加入率が100%でかつ1世帯あたりの自治会費が月500円ということだ。自治会費は地域によって様々だが、年間2000円から3000円程度(月額200円〜300円)が一般的で、この団地のように1世帯あたり年間6000円も徴収する自治会は稀である。しかも加入率が100%ということだ。単純に計算すると、月額85万円、年間1020万円の会費収入があることになる。団地の集会所にはこの自治会の事務所が併設されていて、そこにはパートタイムのスタッフが2名雇用されている。支援が必要な住民への対応など、気になった住民が事務所に連絡すると職員が対応する体制が維持されている。

一方、神奈川県某所にある高層マンション群では、周辺9棟のマンションが会員となり、自治会に代わり住民活動を取りまとめるNPO法人が設置されている。9棟の会員マンションの住民は1世帯あたり月300円の会費を支払っている。9棟のマンション合計で約5000人の住民が居住しているため、単純に計算すると、月額150万円、年間1800万円の会費収入がある。入居者には会費の支払いが義務となるため、100%の会費徴収率となっている。会員マンションの一角にNPOの事務所があり、そこにはフルタイムのスタッフ1名とパートタイムのスタッフ数名が雇用されている。このNPOが主催する地域のハロウィンイベントや盆踊り大会は地域内外から数万人が参加する名物イベントとなっている。

上記2つの事例は、その内容こそ異なるが、会費収入によって地域の中にコーディネーターの配置を可能にしているという点では共通する。住民が会費を収め、コーディネーターを雇用することで、住民にとって必要なケアを提供し、コミュニティを一つにまとめるためのイベントを開催している。同様の仕組みが他の地域でも実現可能なことを示唆してくれる。

昨今、政府は、住民の互助活動を強化するためにコーディネーターを配置する政策を推進している。そうした政府の財源は、うまく活用することで地域の住民活動の起爆剤となるだろう。しかし政府が予算を削減し、コーディネーターを雇用できなくなった時に地域の取り組みが停滞するかもしれない。その時に、住民が自分たちで資金を拠出してコーディネーターを雇用するという発想になれるだろうか。地域におけるお金の流れを改めて考える時期に来ている。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.41

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第238号,2018年6月.

実践の糧」vol. 41

室田信一(むろた しんいち)

地域の中で人々が生活空間を共有し、お互いの安全を守り、場合によっては生産活動をともにして、地域にかかわる事項の意思決定をする。人類が集団で生活するようになってから集団としてともに生活するための方法が培われ、それが進化・発展しながら今日まで続いてきた。村落コミュニティのような共同体社会では、第一次産業が主たる産業であり、生産と生活が共同体内で成立する。そのような意味では運命共同体でもある。そのようなコミュニティでは、各地の代表などが集まり、政(まつりごと)をとおして住民の意見を反映させながら共同体が運営されてきた。

一方、産業化・工業化が進行したことにより、かつての村落共同体とは異なる生産と生活が分離されたコミュニティが誕生した。日本の場合、1960年代以降、人口の都市化に伴い生活の場としてのコミュニティが各地に誕生した。生活の場のコミュニティを取りまとめる役割は多くの場合専業主婦が担ってきた。現在でもその傾向は残るが、共働き世帯が増加した結果、主婦層だけで生活のコミュニティを維持することが困難になってきている。

今日の地域コミュニティの主たる推進役は高齢者である。かつて専業主婦として生活のコミュニティを支えてきた人たちや、仕事を退職したのちに生活のコミュニティの一員として参加するようになった人たちがその中心となっている。そのような意味では、高齢者は地域コミュニティとの結びつきが強いが、稼働年齢層となると、共働き世帯の場合では特に地域コミュニティとの結びつきが希薄になる傾向がある。そのような中で、地域住民がボランタリーにコミュニティを形成し維持することがより難しい状況になってきている。

と、ここまで書いたことは教科書や新聞などでもよく目にする話である。私がコミュニティに関わるようになった頃から、いまでも変わらない関心事は、コミュニティの構成メンバーが自発的につながりを構築することが難しい状況の中で、コミュニティを取りまとめ、人のつながりを作り、意見を聞き、様々な活動を生み出す役割が生み出され、配置されてきており、多くの場合、そうした役割を担う人が雇用されているということである。つまり、構成メンバーの中でボランタリーにおこなわれてきたコミュニティの中を調整する役割が、専門分化され、雇用されたスタッフによって担われるようになってきているのである。アメリカではそれがコミュニティ・オーガナイザーと呼ばれたり、日本ではコミュニティワーカーやコーディネーターなどと呼ばれてきている。

では、そうしたワーカーを雇用するための財源を、現代社会ではどのように根拠づけてきているのだろうか。昨今の社会福祉法の改正では、地域の中で住民同士が支え合うコミュニティを構築する必要性が示され、それが地方自治体がコーディネーターを雇用するための財源の根拠となる可能性はある。

住民自身の手によってコミュニティを取りまとめることが難しくなり、専門家の配置が進められてきたが、そうした専門家を雇用する財源を用意できないのであれば、再び住民のボランタリーな取り組みに戻るのか、もしくは地域がコミュニティとしてまとまることを諦めるという選択を迫られるだろう。

そうした中、地域の中で自主財源を確保し、職員を雇用している事例もある。次回はそうした事例を参考に、コミュニティで人を雇用するということについて引き続き考えてみたい。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。