Democratization

最近ちょっと気になっている言葉で、「民主化」という言葉がある。といっても、一般的には普段の生活の中で、この言葉を耳にすることはないと思うし、僕が特殊な世界で特殊な人種の人たちと特殊な本ばっかり読んで特殊な議論を行っているから、「民主化」などという言葉が気になったのだと思う。これが、たとえば十数年前であったら、当時はまっていたNBAのネタで、たとえば5年連続ダブル・ダブルの成績を残しているパワーフォワードがインディアナ・ペイサーズからトロント・ラプターズにトレードされたことなどが気になっていた、とか、そういうレベルの話だと思う。いずれにしろ、マニアックな話であることには変わりない。
さて、「民主化」の話に戻るけれど、たとえばどういう文脈で「民主化」の話が出たかというと、アジアの国家の中で構築されている社会的セーフティ・ネット(国民年金や、医療保険制度、公的扶助や、介護保険などの社会保障制度を指す)を南アジアの国家で整備することは可能かという議論に対して、ある台湾の先生が、たとえばインドのカースト制のような社会の民主的な枠組みが整備されていなければ、社会セーフティ・ネットを整備することは困難であるというようなことを言っていた。つまり、インドはまず「民主化」される必要があるという議論である。なるほど。
まぁ、その考え方はわかるし、理にかなっているといえよう。確かに生まれた時点で、国民の社会階層が設定されているところに、平等な社会保障制度を設けても、鯉と金魚が一緒にいる生け簀の中の金魚にえさをやろうとするようなもので、いくら餌をまいても足りないだろう。(あまりいい例じゃないですね、ごめんなさい。)
まぁ、その説明自体は置いておくとして、僕が気になるのは「民主化」という言葉の使い方なんだな。これは、ひょっとしたら僕のトラウマなのかもしれないけど、「民主化」という言葉を聞くとアメリカ合衆国大統領であるブッシュさんの顔が思い浮かぶ。ブッシュ大統領は「民主化」の旗印の下、他の国家の「民主化」を推進するという目的で軍力を用いた強引な国家介入をおこなってきている。その成果がどうであるとか、介入しなかったらどうなったとかは、ここでは議論しないけれど、大切なことは「民主化」という言葉が、強制介入を正当化するために用いられたということ。おそらく、ブッシュ大統領の言うところの「民主化」とは議員代表制で、選挙によって選ばれた国民の代表が国政をまかなうということだと思う。さらには、言論の自由とか、機会の平等とかいろいろあるとは思うけど、まずは議員代表制と選挙制を重要視しているようである。つまり、アメリカン・フリーダムの押し売りである。でもまぁ、言いたいことはわかる。
しつこいようだけど、ここでの問題は、「民主化」という言葉が何を指しているかだ。さらに言及すると、「民主化」という言葉を用いた時に聞き手に何を想像させているか、ということだ。
僕が思うには、「民主化」という言葉はプロセスのことである。Comprehensive Optimismの中でもいったけれど、民主主義とはあくまでも目的概念であり、理想とする状態のことである。その理想とする状態を目指して、失敗を繰り返しながらも日々前進することが「民主化」だと思う。つまり、インドが民主化されなければならないとか、韓国が民主化されたことで福祉国家となったと言った時に、「民主化」がある特定の時点を指して用いられているとしたら、そういう言葉の使い方はナンセンスだということ。「民主化」とはベクトルのことで、それ自体が何かを約束するものではない。民主化されるまでの国家を「悪」としたら、一度「民主化」された国家は、その時点からは「善」となるのか。民主化された国家の中にも根強い権威主義や差別が蔓延していることは確かである。だから、あまり安易に「民主化」という言葉を使わないほうがいいだろう。ブッシュ大統領が使う「民主化」とニューヨークのコミュニティ・オーガナイザーが使う「民主化」とでは、まったく違うものを指しているんだから。

Operational Hypothesis

「作業仮説」とか訳されるのかな。とっても重要なことだし、COの最も得意とする部分だろう。
どういうことかというと、COは現実の複雑さにたいして働きかけるということ。
多くの政策はHypothesisの上に成り立っている。
Hypotheticalという言葉があるが、どういう時に使われるかというと、例えば「男女雇用機会均等法に従い当社では男女差別のない業務遂行を行っています」とある企業の人事部の人が言ったとすると、それに対して”What you are saying is hypothetically correct, but how realistic is that?”(あなたのいっていることは仮設的には成り立ちますが、どれくらい現実的な話でしょうか)というように使われる。
政策の話をする時に、多くの話は仮説の段階では成り立つものの、それを現実の世界で実行しようと思ったら、なかなか成り立たないだろう。例えば、日本の生活保護制度というのは、制度としては世界を代表するようなすばらしい制度であるという。国民すべての最低限度の生活を保障し、生活の状況に応じて、医療や介護、その他の社会サービス、児童に対する手厚い保護、教育支援と、制度そのものを見ると充実した政策のように見える。しかし、現実は、生活保護制度に対するスティグマや、受給したくてもできない現実、ケースワーカーは担当ケースが多く、きめ細かなケースワークができず、保護受給者の人で、さらに借金を抱えてしまっているケースも決して少なくない。しかし、それらの制度には収まりきらない問題に対しても細かな制度を作っていたらきりがない。ましてや、それが社会における人間関係の問題であったりしたらなおさらである。上で挙げた例のように、男女差別の問題や人種差別、文化の問題などどんなにすばらしい政策があっても、その中でどのように物事が機能するかを考えなくてはいけない。だからOperational Hypothesis(作業仮説)を考えることが大切なんだね。
社会には様々な影響(変数)が存在するため(無限といってもいいよね)、仮設がどのように作用されるのかを考えなくてはならない。
先日、Crashという映画を見た。アメリカの人種差別と良心の話。人の中に存在している良心とは裏腹に、又は表向きの顔やステレオタイプとは別に人種差別の構図が成り立っている。その中で、どのようにして仮説を立てることができるだろうか。単純にアフリカ系アメリカ人は白人系アメリカ人によって抑圧されている存在であるからとか、社会的な立場が違うからというようなことは、現象的にある一定の関係を実証することができたとしても、Crashの中で行われているような、様々な不確定変数を計算することは不可能といってもいいだろう。というか、計算すること自体、無意味である。
ここで大切なことは、こうした社会の力動の中で作業仮説を立てるということは、つまり自己分析をするということなんだな。難しい話かもしれないね。関係性の不確定変数を計算することよりも、一人一人が自己分析をすることを進めることのほうが、よっぽど意味があるということ。
誰がこう思っていて、彼の肌の色は何色で、彼女はこういう価値観をもっていて、その人の友人はどういう立場で・・・・なんてことを言っていたらきりがない。でも、そういう細かいことが社会の中ではとっても重要だったりする。生活保護という生存権を保障するはずの制度が、様々な個人的理由からすべての保護受給者の生存権を保障し切れていないことが何よりの証拠!
だとしたら、最も有効なアプローチは自己がどのように確立するか、自分が社会の中でどのような存在であるかをそれぞれが分析することが有効なのではないだろうか。人間は多様な存在である。多様性を認めて、多様性を生かすような、そんなアプローチが必要だよね。Real Freedom for All.

120% of Obedience

今日は、戦略の話。
これまでにも何度か書いてきたけど、Henry D. Thoreauが著したCivil Disobedienceという本がある。これは、「市民的不服従」と訳されるが、本の内容は、市民としての責任を全うするためには、政府が決めたことに対して何らかの不服従の態度を示すことが重要であるということが書いてある。彼が用いている例は、市民の代表として選ばれた政府の代表者がスペイン戦争(メキシコ侵略)を敢行した際に、その政府を選出した市民の責務として、何らかの不服従の姿勢を示す必要があるということである。そこで、彼は納税を行わなかったことで刑務所へ送られる。しかし、彼はそれは市民としての責任と考えている。後に、こうした彼の平和的な不服従のアプローチをもとに、キング牧師ガンジーなどが非暴力による不服従という市民活動の形を再現したことは有名である。
さて、こうした「不服従」であるが、市民としての不服従は、対象が「公」であり、市民社会は市民の集合体であるという前提で成り立っている。つまり、市民社会の一員として、不服従の態度をとることは、公共性の確立を意味する。不服従というが、それは不服従ではなく、責任のまっとうであるという論理が成り立つ。
しかし、我々は「市民」としての顔以外にも様々な顔を持ち、様々な関係の中で生きている。
例えばそれは、上司と部下であったり、先生と生徒であったり、親と子であったりする。そこでは、「市民的不服従」のロジックは成り立ちにくい。なぜなら、そこには特別な関係が成り立っているし、上意下達の関係が普遍的に成り立っていることがある。特にそれが労働者と雇用主であると、労働という自己の商品化を通して関係が成り立っているわけである。まぁ、ここでマルクスや労働の話には入るつもりではないので、止めておくが。
さて、僕らが毎日生きていると、そうした特殊な関係の中に生きていることを思い知るし、いつのまにかそれに慣れてしまって、感覚が麻痺してしまっているかもしれない。だから、いつしか自分が上に立つ人間になったときに同じプロセスを繰り返すことになるだろう。
さて、こうした「非人間化」の関係性の中で、どのようにして人間性の確立を行うことができるのであろうか。「不服従」という選択肢をとらずに。
僕の経験の中で最も効果的な方法は、120%の服従である。100%の服従とはつまり、上の立場のものの意向に100%従うということである。頼まれたことは、どんなにいやなことでも、忙しくてもすべてこなす。考え方なども、基本的にすべて受け入れる(ここで大切なことは、受け入れるということであって、心から同意する必要はない)。つまり、相手の意向をすべて満たすわけである。相手の意向をすべて満たしたときに、相手を飲み込むことができる。そこで、さらに相手が求めている以上のことを実行すると、それはすべて自分の経験となる。つまり、上の立場の者のコントロールが及ばないこと、想像力を超えたところで自己を表出することが重要なのである。その時に、上の立場のものは困惑する。自分の支配下にあるものが、自分が求めていることをすべてこなし、さらに自分の名の下に行動をとる。それは、上の立場のものにとっては誇らしいことかもしれないが、自分の想像を絶することであり、どのようにしてコントロールしていいか困ってしまうかもしれない。大切なことは、相手をすべて飲み込み、さらにそのうえでプラス・アルファを行うということである。これが、120%服従の理論。
もちろんそれが、暴力的な関係の上に成り立っていたり、身に危険を及ぼすような関係にあるときには、通用しないかもしれないし、気をつけなくてはならないかもしれない。しかし、我々が近代国家の人間関係の中で、頭を悩ましている上下関係のようなものにはたいてい成り立つ。しかも、労使関係の中には抜群の効果を発揮することは自分の経験の中で実証されていると思う。
この理論の唯一の欠点は、死ぬほど努力しなくてはならないということ。相手の要望を満たすことだけでも大変であるが、さらにプラス・アルファとなると相当の努力が必要なので、ある程度計画的実行する必要がある。相手にとって脅威となるまでに、何ヶ月、何年くらい努力できるか。戦略である。
なんだか、このように書くとまるで、緻密な反抗のように見えるかもしれないが、反抗ではないと思う。大切なことは、これは気づきのプロセスであるということ。上に立つものにとって、相手をコントロールするということはどういうことなのか、又はコントロールできなくなったときに、その関係は成り立つのか、実は主従関係とは、上に立つものさえも非人間化してしまうのである。その非人間化された状態に気づくプロセスを下にいるものが成長することで、作り出すということ。つまり、上意下達の関係を上の者から解除する、解除せざるを得ない、又は自分を人間化するためには解除せざるを得ないような状況にもっていく。これを逆に、主従関係や、自分の力が及ばない立場に納得いかないからといって、最初から反抗していたら、おそらく非人間化のプロセスはますます進むだろう。Condition of Originが成り立っているからね。
なんだか、だらだらと書いてしまったが、今自分が抱えているストレスフルな関係や、非人間化された関係をもう一度見つめなおして、戦略的に人間化するプロセスを考えてみたらどうだろうか。120%の服従には確かに努力が必要だが、その戦略がある程度明確になることで、不思議なほどのエネルギーが生まれてくるものである。

世界の問題の裏側

いやぁ、眠い。眠いけど、いっちょ書いておくか!
ということで、一昨日から台湾の社会政策学会の会長である陳先生と事務局長の古先生が来日し、同志社大学と日本の社会政策学会で講演をされた。その中で、陳先生の講演の内容は「社会的セーフティネットとグローバル化における社会・経済格差」というものだった。ここで、陳先生はグローバル化の影響により、アジア諸国に限らず、世界中の国々で、同様の課題が発見されていると説明された。
例えば、少子化や高齢化、家族構成の変化、経済的投資と経済の国際化、政党政治などを挙げることができるということだ。具体的には、出生率が低下したり、独身者や、単親家族、国家以上の経済的影響力を持った多国籍企業の出現や、政治の形骸化などにつながるという話。なんだか、漢字だらけで、ちょっと僕のブログっぽくなくなってきたので、そろそろ話をいつもののりにします。
こんな陳先生の話を聞いていて思ったことは、社会の問題といわれることは、問題と見るから、問題なのではないだろうかということです。養老孟司さんが「バカの壁」という本の中で書いているけど、失業率が高いことっていうのは、そんなに問題なのだろうか。そもそも、人が働かなくても生きていけるというのは、人類の長年の夢だったのではないだろうか。確かに、仕事をしないことで、本人が落ち着かなかったり、人生における充実感を失ってしまうことは、問題かもしれないけれど、仕事をしないで、自分が本当に従事したいことに打ち込むことができる世の中って言うのは、理想なのではないだろうか。職がなくても、ご飯を食べて生きていける人がたくさんいるって事は、人類が長年求めていたことではないのか、そんなことを養老さんは書いている。
同じようなことが、例えば少子化や高齢化にも言うことができるのではないだろうか。
何事も「問題視」するから問題に見えてしまうけれども、もう少し正の部分に光を当てると、例えば、少子化というのは女性の社会進出が進んだ結果であるし、高齢化というのは保健・衛生が整い、平均寿命が延び、介護や医療が整備されていることを意味するし、家族構成が変わったということは、結婚や離婚の選択肢の幅が広がり、決められた家族の型にはまらなくてもよくなったということで、結婚という選択肢を選ばないカップルや、同性愛者の家族、両親から離れて自立して暮らす子供など、いろいろな選択肢が提供されているということだと思う。また、多国籍企業の出現によって、世界規模で技術革新が進み、科学の進歩が急ピッチで進んでいる。その結果、宇宙工学やナノテクノロジーへの投資も可能となり、宇宙や人間、生命体に関する探究が進められているわけである。そもそも、人類が何世代にもわたって繰り返し問い続けてきた「我々はどこから来たのだろう」「私は誰」「死とは何を意味するのか」といった疑問に対して、科学的に取り組み、この100年ほどで、人類は躍進的にその問いに答えるための歩みを進めることができたといえるのではないだろうか。ちょっと、ロマンチックになりすぎかなぁ。
また、最後の政党政治の問題は、まさに民主主義の問題である。確かに、政党政治になり、市民にとっては選択肢ができたようで、実は党の力の奪い合いのゲームに巻き込まれて、本当に市民が望んでいることが政策に反映されていないかもしれない。しかし、チェック&バランス機能は間違いなく増している。封建社会では、王や皇帝などが、独裁的に国の指針を決めていたが、現在の政治構造にはそうした独裁的な動きを抑止する仕組みが内包されているし、民意の反映という意味では格段に柔軟な体制になっていることは確かである。何事も、比較概念で考えることはよくないけれど、50年とかのスパンで見る限り人類は確実に民主化の道を歩んでいると思う。
ここで大切なことは、そういったことを50年とか100年とか300年とかのスパンで考えることだと思う。実は、陳先生の述べたことはほとんど、アメリカの建国者たちが思い描いていたことだと思う。アメリカのFounding Fathersと呼ばれる人たちはかなり大きなスパンで、アメリカという国を、そして人類における民主化の流れを築いた。今日のアメリカの政策を思想的に見ると、いまだに当時の考えとそう変わっていないということは良くわかると思う。
つまり、おそらく問題があるとしたら、近代を生きる僕らが目先のことばかり見ていて、100年単位でものを考えることができていないということだと思う。これだけグローバル化が進み、技術が進歩し、宇宙の仕組みが分かってきても、僕らの頭の中は目先の3センチくらいしか見ていない。皮肉なものですね。
ちょっと歩みを止めて、ゆっくり考えなくてはいけないね。一日じっくり考えるだけで、100年単位で、物事が変わるかもしれない。一日を100年につなげるのも、オーガナイザーの役目ですね。
友達をちょっと川原の散歩に誘うことから、物語は始まるのかもしれない。鴨川がいいかなぁ。

Comprehensive Optimism

こんなにBlogから遠ざかっていたのは、初めてかもしれません。
実は、その間いろいろと下書きをしたりもしたのですが、どうも肩に力が入ってしまってる感じでよくない。学者病ですね。このブログで書きたい本質的な部分に関するネタは、コミュニティ・オーガナイザーとして働いていたときのほうが豊富だったように思います。研究職になると、どうも頭でっかちになってしまいよくない。感性が、失われますね。
さて、そんなことで、今日は肩の力を抜いて、短いものをぱっと書いて、寝ます。
今日、同志社大学Martha Mensendiek先生の授業にゲスト講師として呼ばれたので、同志社大学の3回生に対して僕がニューヨークでコミュニティ・オーガナイザーとして働いていたときの話をした。特に、CO道のテーマでもある”Comprehensive Optimism”に関して話してきた。Googleでこの言葉を検索しても、あまりぱっとした検索結果が出てこないし、CO道のホームページが5番目に出てくるということは、まぁ、そんなものって事ですね。これは、僕の造語ですが、きっと誰にでも理解できることだろうし、特にCOの経験を通してその考え方が血肉に染み入るものだと思います。
まぁ、それはいいとして、今日思ったことは、コミュニティ・オーガナイザーに必要な条件は、1に計画性、2に優れた事務能力、3にここぞというときのリーダーシップ、だということです。
それは、Comprehensive Optimismにもつながると思う。何かを継続的かつ具体的に積み重ねることが、Optimismを持てるということです。これに限る。
PessimismやOverwhelmingnessとは、現実と理想のギャップによって生み出される。つまり、現実をgrasp出来ないときに、気持ちがいっぱいいっぱいになってしまったり、悲観的になるということ。その解決方法は、まずリラックスして、一つ一つこつこつやること。ましてや、コミュニティにおいて、複数の人間が、共通の目標を持ち、行動を共にするとなると、個人の持つイメージと、他のメンバーの持つイメージのギャップからその船が自ら沈没してしまうことがある。大切なことは、まずリラックスして、周りを見回して、人とつながり、具体的に行動する。コミュニティ・オーガナイザーとはそういった、一連のプロセスを側面から支える役。
今日の90分の講義で、それがどこまで伝わったかなぁ。なかなか難しいものですね。

Critical Thinking 1

本質を見なくてはいけない。今回のブログで書ききることはできないと思うし、まだまだ自分の考えがまとまっていないから、中途半端になってしまうと思うけど、とりあえず言葉にしていくプロセスは大切だし、そのためのブログでもあるから、お聞き苦しい文章になってしまうかもしれません。
日本の大学にはcritical thinkingの授業はあるのだろうか。って、一応僕も日本の大学に所属している身なので、それくらい知っておくべきだろうけど。ちなみに僕がNYで通っていたLaGuardia Community Collegeでは主に一般教養の授業を受けていたけど、critical thinkingの授業がプログラムとして組まれていました。よく日本では「批判的思考」と呼んだりするみたいだけど、どちらかと言うと「本質の見方」みたいなものだよね。人が言っているからとか、メディアが放送しているからとか、先生や上司が言っているからとか、先祖代々繰り返してきたからとか、そんな理由で自分の価値観や考え方を決めず、そういった周囲の意見や考え方、歴史の変遷、現在の状況などを理解したうえで、自分が物事を判断する。グッチのかばんが流行っているから、みんなグッチのかばんを使うとか、ヨガが流行ったらみんなヨガを始めたり、人気モデルのような容姿にみんなであこがれたり、きっとそうして世間一般が認めるということは、その中に本質的な要素が含まれていることは確かだと思う。確かにグッチのかばんはいいものだし、ヨガは健康にいいし、モデルの人たちの容姿は「肥満=不健康」というロジックで見ると理想的かもしれないし、エロスを内包しているかもしれない。以上で挙げたようなものは、消費者としての選択肢がある中で、世間一般やメディアの影響を多分に受けたうえでの自己決定になると思うけど、それが消費者ではなく、社会の役割となったときにどうだろうか。例えば行政職員とか、建築士とか、医者とか、教師とか社会の基盤をまかない、その仕事の内容が公共性を内包している役割を持つときに、その人たちが取る行動や下す決定が不特定多数の人々に影響を及ぼすことになる。そしてソーシャルワーカーもまさにその一端を担うわけだけど、ソーシャルワーカー、特にその中のコミュニティ・オーガナイザーに至っては、そうした他の専門職が下した決定や判断に対してクリティカルであることが求められる。つまり、公共性watch dogなわけだ。公共に対して影響を与える立場の機関や職員が進める事業や提供するサービス、法律などを「平等性」「公平性」「権利」などのフィルターを通してクリティカルに見なくてはいけない。その中で、「平等」というものは非常に複雑な要素が絡むものであるということを理解しておく必要があるし、権利を主張することが最終的に全体にとってプラスになるかどうかを考えなくてはいけないし、プラスにならないかもしれないけど(三歩進んで二歩下がることは前進である!)、リスクを負うことを恐れずに「物事の本質」に忠実に判断を下さなくてはいけない。これは政治や、学校教師、消防士、ごみ収集職員にに対しても同じことが言えるだろう。ソーシャルワーカーはそうした公共性に対するゲートキーパーなわけだ。だから、コミュニティのニーズを把握し、現在のシステムによって被害を被っている人たちの立場に立って、社会全体にとっての触媒にならなくてはいけない。これって、結構難しいことだね。そんでもって、ソーシャルワーカーでなくてもそうしたことをコミュニティで行っている人は多く存在する。 市民が協力してゲートキーパーになることが望ましいだろう。そのためには、ある程度の組織化が必要だし、いずかれのタイミングでコミュニティ・オーガナイザーが必要になってくる。卵が先か鶏が先かということだ。
なんだか、長くだらだらと書いてしまったけど、結局は物事の本質を見抜く文化を広げることが大切だろうね。そのために、コミュニティ・オーガナイザーが胸を張って目を見開いて見本となることが大切。

Facilitator

最近ファシリテーターという言葉を良く聞く。アメリカでCOを勉強したら、いちばん最初に学ぶことであり、いつまでたっても大切なことなわけだけど、日本にもだんだんとこの言葉が浸透してきているようだ。
実は昨今、COに関する論文を訳してて、facilitateをどう訳すべきか悩んだ。悩んだ末、カタカナ表記にした。本来,こういう重要な言葉、特に人が行動を取るときにイメージとして機能する言葉は、できるだけ母国語表記がいいと思う。ただし、このサイトでもCOをCOとししまっているだけに、あまり大きなことは言えない。(アルファベットだもんなぁ・・・。)
そこで、何とかしてファシリテーターの日本語を開発したいと思う。今回の話は、そんなことのヒントになるかもしれない。
上川徹という人がいる。日本サッカー会を代表する審判であるし、世界トップレベルの審判である。
2006年、ドイツで開催されたワールドカップの三位決定戦の主審を務めた。そんな上川さんの審判スタイルは、まさにファシリテーターのそれである。上川さんは試合中、ラフなプレーができるだけ増えないよう心がける。試合がスムーズに進み、スタジアム全体がひとつとなり、納得の行く試合運びの中、お互いが全力を出し切って決着がつけられるよう、お膳立てをする。そのためには、悪質なプレーに対して厳しく毅然とした態度をとるし、避けることができなかった反則については、選手の一所懸命なプレーを盛り上げる形で、笑顔で反則を取る。スタジアムと言う与えられたフィールドで、二つのチームが全力でぶつかり合う、ボールは一つ、世界中からこの試合を見に集まってきた何万人の観衆。最高のゲームが行われるはずの素材はすべてそろっている。あとは、素材そのものの味を生かす料理人の腕にかかっている。ファシリテーターとは、そんな料理人のことなんだな。
上川さんが常に気をつけることは、冷静さを失わずに、常に自分の感情の動きを理解することだと言う。自分が会場の雰囲気に飲み込まれてしまったり、感情的になってしまったら、素材に対して余計な手を加えてしまう。だから常に、平常心を保つよう心がけている。そして、プレーヤーに対して耳を傾け、語りかける。相手の目を見て、自分が下した判断を理解してもらう。コミュニケーションをとる。
簡単そうで難しいこと。COの学校を始めたら、ここら辺からじっくりやりたいね。

Curiosity

僕は、そもそも争いごとが好きではない。これは、なぜだろうか。
相手よりも優位な立場に立つことは、いやなものではないが、相手と一対一で勝つということに、快感を覚えない。どちらかと言うと、優劣の結果と言う「答え」が持つ可能性の限界のようなもの(というよりも、可能性の限界を設定するような感覚)に魅力を感じない。二人が協力することで、いろいろな可能性を秘めているはずなのに、二人のなかで優劣を決めること自体、たとえそれが将来的に逆転するにせよ、窮屈さのようなものを感じてしまう。何で、その窮屈さを感じるのかはわからない。確かに、切磋琢磨することでお互いが能力を引き出しあうことができると言う構造は理解するし、否定もしない。
おそらく僕が求めているものは、人間の脳をひたすら絞って生まれてくるエキスではないような気がする。つまりは、自分の外からの様々な刺激によって生まれる「新しいもの」に対して好奇心があるのだと思う。自分の脳をひたすら絞って、相手とぶつかり合ったって、そこから生まれるものには限界があるけど、地球や宇宙から受ける、たくさんの不確定要素を取り込むことで生まれてくる、未知の世界のようなものに惹かれているのだと思う。だから、競争社会よりも、多様性を受け入れる社会の方がずっと居心地がいいし、楽しい。
そんなことを、羽生善治さんと茂木健一郎さんの対談(「勝負する脳!」2007年2月発売)を読んでいて思った。それは、羽生さんが相手の先を読む将棋の限界を感じて、新たな可能性を秘めたうち方を試み始めたことに通じると思うし、茂木さんが言う、本来、得と思われない行動を取るときの人間の真理に隠された「長期的に見ると、そこに何かいいことがあるかもしれない」という感覚と同じだと思う。
そもそも、COとはそうした多様な考えの中に秘めた可能性を抽出するような活動だと思う。みんながお互い競争しあって、一番を決めて、その一番が決めるルールにのっとって生きていたって、全然発展性がないものね。それだったら、みんなでいろんな可能性があるということを探り合って生きていた方が発展性がある。でもまぁ、生産性という言葉になると、弱いかもしれないけどね。僕は、ここで生産性の議論をしたいのではなくて、人間の中に秘められた、好奇心と言う名の発展性の話だから、労働の商品化の話とかには言及したくないし、全く見当違いになってしまう。
コンピュータが確実に勝つ将棋の打ち方を計算しつくしたからって、競争による発展に限界が来たとは思わないし、コンピュータのめまぐるしい発展で計算による論理的な思考が一定のレベルに到達したなどとも思っていない。そもそも競争が好きではないので、論理的vs.創造的みないな構造自体、考えてもいない。
大切なことは、可能性を秘めた生命体同士が結びつくことによって生まれる可能性の相乗効果をどのようにつくりだせるかと言うことだと思う。みんなバカじゃないので、好奇心を求めながらもちゃんと生産的な生活をするわけだからさ。今必要なことは、どうやって創造的で発展的な思考の渦を作れるかということでしょ。そんでもって、それに向かって、どうやって行動するかってことでしょ。

Thinking and Feeling for Action

今日は、島根県松江市における実践の話。
僕は、自分が師事している先生の関係で、島根県松江市の地域福祉活動に少しずつ関わり始めている。松江市は人口20万弱(合併以前は約15万)の中国地方を代表する都市で、空襲や震災にあわなかった市内は、きれいな城下町がのこっている。 旧松江市内は21の小学校区に分かれていて、各校区には地区公民館が一つ存在する。今年、ミネルヴァ書房から出版された「松江市の地域福祉計画」という本を読めば詳しい内容が書いてあるが、松江市の地域福祉の基本はその公民館における地域活動にある。日本でコミュニティを語る上で、公民館の存在は無視できないと思う。そもそも公民館は「教育」の一環として位置づけられていて、文部科学省の管轄下にある。つまり、地方自治体レベルでは教育委員会が管理している。日本に限らず、行政とはタテ割りのもので、教育委員会と市の福祉課が協働するということがあまりない。それを当たり前と思い、教科書どおりの勉強をしていると、公民館は「生涯教育」という教育の一環としてしか理解しないで、地域全体のダイナミズムを無視してしまいがちなんだな。住民としてみれば、公民館の管轄が教育委員会であれ、福祉課であれ、市民活動推進課であれ関係ない。地元の施設であり、立ち寄りどころであり、身近にある公の施設なわけだ。
この「身近な公」と言うのが結構大切で、「公」となると、急に遠い存在になってしまいがちだけど、公民館の場合「身近」なわけだ。その身近さが親近感を持つことに役立つし、参加する上での敷居が低くなるし、主体性を持って地域住民が管理することにつながりやすい。
そんな、地域の活動の拠点であるはずの公民館は日本全国津々浦々に存在しているが、地域によってそれを有効利用しているところもあれば、全く機能させていないところもあると思う。地域福祉が盛んな自治体は公民館をうまく利用しているところが多いように思う。いや、公民館を利用して、地域住民がつながっている自治体こそ、地域福祉を推進することができていると言えると思う。
例えば、松江市の公民館の場合、自主運営方式をとっていて、住民が会員となって一年間会員費を支払うことで利用できるようになっている。会員費といっても一世帯につき年間700円程度の話である。しかし、その700円を支払うと言う行為が、住民の帰属意識を高め、自分たちの施設であると言うownershipをつくりだすことに役立っている。また、松江市の公民館を訪ねて驚いたことは、どれもきれいに整備されていることである。バリアフリーへの取り組みや、男性のトイレに赤ちゃんのオムツ交換のための台が取り付けられていたり、冷暖房は無駄をなくすために、コイン式だったりと、そうした細かいソフト面での気配りが、ハード面としても現れている。今回のタイトルでも書いているとおり、人間が何かの活動を行うときに、そこには共通の理念のようなものが存在し、共通の価値観を生み出し、共通の感情や感覚を持つことでひとつの組織化された活動となるわけだ。それが、福祉団体やNPOなど、その理念が中心で活動していると、理念(ソフト)ばかりが先行してしまい、ハード面に目が行かなくなってしまいがちである。例えば、障害者が働けるレストランを開くときに、確かに営利にはつながらないかもしれないが、障害者の雇用機会の平等や促進と言う理念と同じくらいに、当事者やレストランのお客さんにとって心地よい空間を提供することが大切になる。レストランだからと言うわけではなく、NPOなどの事務所を含めて、人の活動拠点となる場所には、ハード面でのそれなりの配慮が必要だと思う。そして、そのハード面での気配りが、利用する人や訪問する人の心に通じて、ソフト面として帰ってくる。そうしたプラスの循環をつくりだすと思う。それが、ソフト面にだけこだわっていて、ハード面をなおざりにしていては、不の循環がうまれ、いずれソフト面にまで影響が生まれてしまう。
松江市の公民館に行ったときの、あのなんともいえない居心地のよさと、その施設を使えることの喜びみたいな感覚は大切だと思う。それが「公」の施設だと言うことが、重要。ニューヨークのセントラルパークのようなものでもあるし、札幌のモエレ沼公園のようでもある。コミュニティ・オーガナイザーはそうした、人間の微妙な感覚を大切にしないとね。そういった意味では、建築家や都市計画に携わる人と、コミュニティ・オーガナイザーとはいろいろな面で共通する部分があるのではないだろうか。

「対象」≒コミュニティ

二ヶ月ぶりくらいの投稿になってしまいました。まぁ、そんな感じで、マイペースに、好きなときに好きなことを書くスタイルで行きたいと思っているので、ご理解の程を。
しかし、書きたいネタが無いわけではなくて、書きたいことは山ほどあるのに、ゆっくりと文章にする時間が無いんですね。僕もだんだん日本のストレス社会、少子化社会、Workaholic社会にどっぷりつかっていくのでしょうか。こうして、未を粉にした人体実験は続くわけです。スーパーサイズ・ミーのモーガン・スパーロック監督も顔負けです。なんていったって、3ヶ月では終わらないからね、この実験は。(ちなみに、去年は、日本帰国後半年ほどニート体験実習をしていましたが、それも結構きつかったです。)
さて、話題を戻して、今回のテーマだけど、「『対象』≒コミュニティ」としました。この、「対象」と言う概念がどこから出てきたかというと、先日愛知県で行われた日本社会福祉学会主催の第三回政策・理論フォーラムのテーマが「対象論」をめぐってと言うものだったんだけど、今回も、前回に続き、ちょっとした自分のReflectionをお伝えしたいと思います。
フォーラムに参加した人は、きっと僕と同じようなことをかんじていると思いますが、今回のフォーラムは一回目二回目と比べても、後味の悪いものでした。どのように悪かったかと言うと、社会福祉の「対象」を政策的な視点のみで語り合い、「福祉の視点」が全くかけたものになっていたということです。ここで言う「福祉の視点」とは「当事者の視点」のことです。福祉政策からすれば、障害者も児童も、高齢者も、ニートも、フリーターも、引きこもりも、外国人も、母子家庭も、DV被害者も、ホームレスもみんな福祉の「対象」となりうる存在であり、その「対象」は時代の変化と共に変わっていくわけである。それは、政策的に誰を「対象」とするかで変わるわけで、シンポジウムの中で岩田正美先生が言っていたように、ホームレスは常に存在してきたが、政策が変化することで、福祉の対象となったり、ならなかったりしてきたということ。
それでは、誰が福祉の対象であるべきか。それを、政策の視点のみで語ったところで、答えが見つかるのだろうか。それって、結局「知恵の輪」解きでしかないのではないだろうか、と思う。
福祉が福祉たる所以は、その当事者の視点に立ったものの考え方にあるのだと思う。それが失われたときに、それはただの社会科学(現象)や政策科学(べき論)になってしまわないだろうか。
そもそも、「対象」と言う言葉自体が、福祉のコンテクストで使われるときにネガティブなニュアンスを含むと思うが、COの視点に立ったとき、対象化することはいたって、エンパワリングなことである。
例えば、子供が欲しくても養育費や教育費のことを考えると、なかなか生むことができないカップルが多いと思う。これは、少子化の枠組みでは、認識されているが、そうした子供を持てないカップルを福祉の対象として認識するには、まだまだいたっていないと思う。児童扶助や、子育て支援などの動きはあるものの、あくまでも子供を授かったもの対象であり、子供を持つ決心のつかないカップルは対象となっていない(子育て支援が、子作りの引き金になることはありえるが)。このように、対象化されていない対象に対して、自己認識を促し、自分たちが社会的な枠踏みの中で、何かしらの支援を必要としていると言うことを気づかせることが重要ではないだろうか。つまり、「福祉の対象」として認識されていないコミュニティを対象化し、コミュニティとしてまとめることで、政策や法案に反映するような動きをつくりだすことが可能なのではないだろうか、ということなんだよね。
まぁ、端的にまとめると、「対象」を政策の枠組みで語っていても、どんどんと迷路に迷い込んでしまうと言うこと。「対象」とは、その対象者が自ら「対象」と認識して初めて、機能する。パウロ・フレイレがブラジルの未識字コミュニティに対して、conscientizationという手法を通して自己認識を高めたことで、彼らは自分たちを被抑圧者として認め、初めて自分たちの運命・人生に対して向き合い、自らをエンパワーし、社会変革への道を築いた。彼らは、自分たちが識字教育の「対象」であること、そして、それが社会の枠組みの中で、どのようなことを意味しているのかを理解して初めて、その与えられた環境に変化を与えるために行動を起こすことができたわけだ。
「福祉の対象」を語る際に、こうした視点を失ってはいけない。ましてや、オーガナイザーにとって、この視点を失うことは、命取りとなるからね。