シリーズ『実践の糧』vol.33

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第230号,2017年2月.

実践の糧」vol. 33

室田信一(むろた しんいち)

昨年、私の母親が体調を崩して入院した。とても複雑な病気で、現代の医療では治療することはできないとされている。いわゆる難病と呼ばれる病気で、昨年突然体調が悪化して入院先の病院では長くはもたないだろうと宣告された。

しかし、難病だからといって諦めるわけにはいかず、あらゆる可能性を含めて家族で最善策を検討した。結果的に効果的な対策が見つかったわけではないが、自然治癒により一命を取り留め、今は入院前の状態にまで回復している。

しかし、いつまた同じような状態になるかわからないので、母の病気のスペシャリストの先生を探し出し、飛び込みで診察してもらった。入院先の大学病院では「打つ手なし」と診断されていた母の症状を、その先生は「これくらいならまだまだですよ」と診断し、私たち家族にとって救いの神となった。

医療の素人からすると、都心の有名な大学病院であれば専門知が結集していると考えがちであるが、高度に複雑化した現代の医療では、ある特定の疾患に対する治療の開発はその道のスペシャリストの手に委ねられているようである。

エビデンス・ベースト・メディスン(EBM)という言葉がある。「根拠に基づいた医療」のことで、医師の個人的な診断に委ねるのではなく、同様の病気に関する過去のデータを参考にして、医師の診断がその病気の治療にとって適切かということを比較評価しながら患者にとって最適な治療を進める考え方である。大学病院を中心に、研究と教育によって専門性を構築してきた医療にとってその考えは当たり前のように聞こえるが、EBMという概念の登場を待たなければ属人的な要素が強かったということである。

しかし、母の病気を機に知ったことは、現実はEBMとはほど遠く、スペシャリストに巡り会えるかどうかが患者の命を左右しかねない世界ということだ。インターネットが普及した現代でも、スペシャリストに巡り会うためには努力と運が求められる。ただし、よく考えてみれば、人体の不思議はまだ解明されていないことだらけで、また、一人一人の人体は異なる特徴を備えていることを考えれば、医師の知識や技術が平準化されている状態よりも、スペシャリストの先生さえもまだ知らない新たな治療方法がどこかの別の医師の手によって開発されるかもしれない状態にこそ希望を感じる。

人と人との関係性や集団内の微妙な力動に介入するソーシャルワーカーも医師以上に固有で複雑な対象に向き合っているわけだが、ソーシャルワーカーの養成課程を見ると、平準化された知識と技術をマニュアル通りに教授することを重視しているように思う。

皆さんは自分の地域のソーシャルワーカーに何を求めるだろうか。マニュアルを遵守するワーカーか、それともその人の個性を発揮して他のどこにも存在しない実践を推進するワーカーか。私がかつてニューヨークでワーカーとして働いていた時、個人商店のように個性あふれるワーカーが各地に存在していたことを思い出す。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.32

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第229号,2016年12月.

実践の糧」vol. 32

室田信一(むろた しんいち)

社会の課題を解決するために、コミュニティ・オーガナイザーは住民に「その気」になってもらうように働きかける。その結果、課題は解決の方向に進むが、反面、住民に過度な負荷をかけてしまう危険性があるというジレンマについて前号で述べた。

非営利セクターの国際比較研究をおこなったラルフ・クレイマーは民間非営利セクターの役割を先駆者(vanguard)、価値管理者(value guardian/volunteer)、サービス供給者(service provider)、アドボカシー(improver and advocacy)の4つに整理している。この研究は今から35年前の研究で、現在の政府と非営利団体の関係は、当時のそれと大きく異なっているということができる。

アメリカでいうと、1980年代まで政府による社会保障費が非営利団体によって提供される福祉関係サービスの予算を上回ることはなかった。つまり、非営利団体は政府が提供していないサービスを先駆的に提供していたという意味において、クレイマーの言うところの「先駆者」としての役割を果たしていた。もしくは、政府のサービスでは不足する部分を補足する「価値管理者」としての役割が主流であった。さらに付け加えると、政府の政策が不十分であれば政府に対して要求する「アドボカシー」としての役割を担っていた。

しかし、1980年代を契機にそれは変わった。アメリカに限らず先進諸国では増幅する国家の社会保障費を効率的に運用するために非営利団体にそれらを委託する傾向が強くなった。政府の代わりにサービスを請け負う「サービス供給者」としての役割が主流になった。増幅する福祉ニーズを満たすために、政府は安い費用でサービスを外部委託し、それらを受託した非営利団体は事業の規模を拡大してきた。

ところが近年の政府の方針は、非営利団体よりもむしろ住民ボランティアによる互助活動によって拡大する福祉ニーズを満たすという政策へと転換してきている。そうした流れの中で、住民による互助活動を促進するために非営利団体に各種の「コーディネーター」を配置する政策が推進されている。コーディネーターがいることで、地域の住民活動が円滑に推進されるという側面はあるだろう。しかし、福祉ニーズを満たすための政策の一環として住民を「その気」にさせて互助活動に動員するというのは、結果的に住民に過度な負担を押し付けていることになる。

「担い手の高齢化」や「担い手不足」といった言葉を地域の活動でよく耳にする。しかし、ボランティア活動する人たちが高齢化して何がいけないのだろうか。高齢化しても活動したい人はしたらいいし、できなくなればやめればいい。担い手が不足するというのは、誰にとって不足なのだろうか。政府によって押し付けられた「目標」を達成するために不足するということではないだろうか。

非営利団体やボランティアの強みは「先駆者」や「価値管理者」「アドボカシー」としての役割である。「サービス供給者」に押し込められている現状について、改めて考え直す時期が来ているのではないだろうか。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.31

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第228号,2016年10月.

実践の糧」vol. 31

室田信一(むろた しんいち)

私はニューヨーク市のセツルメントで移民コミュニティのオーガナイザーとして働いていた。私の仕事は、彼らが移民として感じている生きづらさや、彼らが生活の中で権利を侵害されたと感じることなど、彼らの話を聞き(つまり、アセスメントして)、その課題に対して集合的に働きかけるためのリーダーを養成し、彼ら自身が活動の目標を掲げることを支援し、その活動を側面から支援するというものであった。前号の表現を引用すると、移民の彼らに「その気」になってもらうための触媒としての役割を果たしていたことになる。

そのようにボトムアップで意思決定をして活動に取り組むこともあれば、一方で、他の関係機関から提案された目標に向かって活動に取り組むこともある。たとえば、移民支援の中間支援団体から人権侵害の問題に対してアクションを起こすので、協力の要請がかかることがある。具体的には、○月○日に開催される集会に、当事者である移民を何人動員できるかといった要請である。

草の根の活動だけで政治的な変化を生み出すことは容易ではないが、小さな団体同士が連合体を組み政治的な圧力をかけることで変化を生み出す可能性は高まる。キャンペーン成功の鍵は、どれだけ多くの当事者を動員して、政策決定者である政治家や官僚に「無視することはできない」と思わせることである。より多くの当事者を動員することがコミュニティ・オーガナイザーの評価につながる。つまり、どれだけ多くの人に「その気」になってもらうかがオーガナイザーの手腕になる。取り組みの内容は異なるが、日本のコミュニティワーカーや生活支援コーディネーターが住民に「その気」になってもらうように働きかけることと原理的には同じである。

私にとってコミュニティ・オーガナイザーが天職だと感じたのは、この「その気」になってもらう働きかけが得意だったからである。働きかけようとしている課題が、当事者である移民の生活にどのように影響を及ぼすのか、なぜ影響を及ぼすのかについて丁寧な対話を繰り返した。あくまでも当事者である彼らの声を尊重して、意思決定を重んじた。強引な動員は絶対にしなかった。そうした手続きを重んじることが結果に結びついた。私がコミュニティ・オーガナイザーとして勤務してから市内の大きな集会などにコンスタントに動員することができ、中間支援団体からも一目置かれるようになった。

優れたコミュニティ・オーガナイザーがいることで、その団体に関わっている当事者はそれだけ自分たちの声を政治に反映することができる。声を反映させるそうした手続きは、中間支援団体による政策提案と政治的交渉、草の根団体による当事者の動員というように分業化されている。現代社会の政治的な意思決定のペースは早く、そのペースに合わせて当事者は「その気」になり、動員に加担する。

社会が回転するペースに合わせなければ、住民や当事者は社会の動きから取り残されていく。そのため、橋渡しをする役割がオーガナイザーやワーカーの仕事であるが、そのペースを住民や当事者に課すことは正義なのだろうか。避けることのできないジレンマだった。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.30

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第227号,2016年8月.

実践の糧」vol. 30

室田信一(むろた しんいち)

近年、住民が事業の担い手となることを前提とした政府の政策が増えてきている。社会福祉の領域は国家予算に占めるその割合が大きいため、予算の抑制圧力が強く、結果として住民の関与を求める傾向はより顕著に表れている。介護保険制度の新しい総合事業と呼ばれる領域もその一つである。

新しい総合事業では生活支援コーディネーターと呼ばれる職員が全国に配置され、住民同士による支え合いの活動を各地で推進することが求められている。言い方を変えれば、それまで地域で支え合いの活動など取り組んでこなかった地域住民に「その気」になってもらい、生活支援のための活動を一緒に生み出していくことがその趣旨である。

「その気」になってもらう、というところが重要である。住民に「その気」になってもらうための存在を触媒と形容することがある。コミュニティ・オーガナイザーには触媒としての役割が求められると従来から言われている。触媒としての役割とは、潜在的な意識を表面化させることである。具体的には、大気汚染などの公害被害を受けながらもどのように意見表明をしていいかわからない住民の声を集めて、その声を政府や加害者に伝えるといった場合がある。その場合、住民が抱く潜在的な問題意識に働きかけることになる。一方、新たに開発された住宅地で、住民同士が交流する夏祭りのようなイベントを開催して親交を深めるというような場合もある。その場合は、住民の潜在的な交流意欲に働きかけることになる。何れにしても、住民に「その気」になってもらうために、コミュニティ・オーガナイザーは様々な方法を駆使する。

綺麗事を言ってしまえば、コミュニティ・オーガナイザーという触媒なしで住民が自ら立ち上がり、行動を起こすことが望ましい。しかし、組織化が自然発生する確率は低く、多くの場合お互いを牽制しあって誰も行動を起こさず、機を逸してしまうということが少なくない。したがって、第三者であるコミュニティ・オーガナイザーがその地域に関与することで、潜在的な意識を集めて、行動へと繋げるのである。

新しい総合事業に関していえば、今後、各地で事業が推進されるにつれ、住民に「その気」になってもらうための方法論が蓄積されていくことが期待される。その結果、住民の触媒としての生活支援コーディネーターの専門性が地域の中に浸透していくかもしれない。地域住民に効率よく「その気」になってもらうことが高い評価につながるようになる。その時に、生活支援コーディネーターはふと思うかもしれない。自分は何のために人に「その気」になってもらっているのだろうか、と。生活支援コーディネーターにとっての「大義」は何か、と。そこを見失ってしまうと、生活支援コーディネーターという仕事は精神的に消耗するものになるだろう。

私自身、ニューヨークでコミュニティ・オーガナイザーとして働いていた時にそのようなジレンマを抱いていた。次回はそのことについて書きたいと思う。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.29

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第226号,2016年6月.

実践の糧」vol. 29

室田信一(むろた しんいち)

「良い実践」が一人の優れた実践者の功績として讃えられることや、反対に「その人にしかできない特異な実践」として片付けられてしまうことがある。実践とは大なり小なり「その人にしかできない」ものである。

「良い実践」と「良くない実践」の違いとはなんだろうか。成果(アウトカム)によって評価されるものだろうか。過程(プロセス)によって評価されるものだろうか。そもそも実践に対して「良い」や「良くない」といった評価を下すこと自体がナンセンスなのではないだろうか。かつての「良い」実践はいつしか時代遅れの実践になるだろうし、ある人が高く評価する実践は、他者からすると評価に値しない実践ということもある。

ただし、ある時代の、ある与えられた状況の中で多くの人が望ましいと思う実践は存在する。それらの実践はその時代の多くの人が求める実践であって、万人に通用する実践とは限らないが、「時代のニーズ」を捉えているという点において注目に値する。それらの実践は、従来の実践が用いてきた(課題を捉える)レーダーを刷新することや、従来の枠組みでは対応できていなかった課題に対応する術を示すものである。

昨今、子ども食堂の実践が各地で注目を集めている。しかし、地域で孤立している住民に対して会食の場を提供する実践はこれまでも取り組まれてきた。その多くは高齢者に対するものであったが、その対象を子どもや子育て世帯に広げたことで「子ども食堂」は注目されるようになっている。全国で爆発的に子ども食堂が増えているように、その実践自体は比較的取り組みやすいものである。その術(スキーム)を示した点において、先駆的な実践は注目に値する。

その「時代のニーズ」を捉えた実践は、複製可能なものとしてモデル化され、さらに実践の段階で複製可能な形にマニュアル化されていく。そのマニュアル通りに実践をしてもオリジナルである〇〇さんの実践のようにうまくはいかない、という評価が与えられたりする。

アメリカ人はマニュアル化することに長けているとよく言われるが、それはそもそもマニュアルを利用する人がマニュアル通りに実践しないことを前提にしているからだと思う。そのため、大胆であったとしても、その人やその組織にしかできないオリジナルの実践をマニュアル化して示すことを試みて、そのマニュアルが他者によって更新され、改善されることを期待する。そもそも万人に通用する実践をマニュアル化しようとは思っていないから、実践の要点を抽出することで分かりやすいマニュアルが作れるのではないかと思う。

この人にしかできないことやこの組織にしかできないこと、ということをもう少し堂々と述べてもいいのではないだろうか。その特異な実践が「偉人による実践」として崇められるのではなく、「編集可能な姿」で示されることで、次の新たな実践が生み出され、蓄積されていくだろう。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.28

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第225号,2016年4月.

実践の糧」vol. 28

室田信一(むろた しんいち)

「一人のカリスマリーダーの力では社会は変わらない」とよく言われるが、それについてもう少し丁寧に考える必要があると思う。カリスマリーダーは本当に求められていないのか。そもそもカリスマリーダーは世の中に存在するのか。

カリスマリーダーにはワンマンとしてのイメージが伴うため、市民社会や民主主義を信望する者は、カリスマリーダーの存在を理想的な社会からかけ離れたところに位置づける傾向がある。どちらかというと私もその口だが、どうも私たちはその「頭の中のカリスマリーダー像」に惑わされているのではないかと思うことがある。

市民活動(ここではボランティア活動を含めてそう呼ぶ)をしていると、カリスマリーダーと呼ばれる人に出会うことがある。しかし私がこれまで出会った人たちは、いわゆる人間的な魅力で周囲を巻き込むカリスマリーダーというよりも、むしろ「思いの強い人」たちであったように思う。その人たちは思いの強さによって周囲の人間や組織を巻き込み続けていた。そして、その人が歩みを止めると、その動きは止まってしまう。従って、そのようなリーダーでは社会を変えることができないといった評価が下される。

しかし、市民活動のように他者の関与を前提とする活動の場合、その背景に「思い」がなければ何も始まらないだろう。強い思いは市民活動の原動力となる。

カリスマリーダーという時、その人には他の人が努力しても得ることができない生まれもった才能が備わっていると考えることが多いと思うが、私は市民活動の領域でそのような人に出会ったことがない。芸術の分野などでカリスマ性を備えた人が活躍することは少なくないと思うが、市民活動のリーダーにそのような人はいるのだろうか。市民活動でカリスマリーダーと呼ばれる人は、実は「思いの強い人」であって、それは特別な才能をもっている/もっていないという二元論で区分される人ではなく、思いの強さのグラデーションの中に存在する人なのではないだろうか。

そう考えると、「あの人はカリスマリーダーだから社会を変えることはできない」と揶揄されている人は、実は不当な評価を受けているのかもしれない。もちろん中にはカリスマ性を備えた人もいるかもしれないが、多くの場合、カリスマリーダーと呼ばれる人も、実は私やあなたと同じように何かしらの「思い」を抱き、社会に対して行動を起こしている人であって、その思いの強さがゆえに、周囲から「カリスマ」のカテゴリーの中に押し込められてしまっているのかもしれない。

むしろ、「思いの強さ」と同時に重視しなければならないことは、「思いの密度」である。その強い思いが推進されるための具体的で綿密な計画があり、その計画が遂行されるための工程表があるのか。その工程表は他者が関与できるような設計になっているのか。他者の関与を可能にするための仕組みが含まれているのか。

「思いの強さ」とは別の「思いの密度」という尺度でその人物を評価したとき、カリスマの有無とは関係なく、社会を本当に動かす人かどうか、正当な評価を下すことができるのではないだろうか。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.27

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第224号,2016年2月.

実践の糧」vol. 27

室田信一(むろた しんいち)

私はしばしば、コミュニティを組織することを演劇の舞台に例えて表現する。演者がその舞台に馴染み、生き生きとその演目を演じることと、コミュニティの中でワーカーが当事者や住民を組織して、彼(女)らが声を発するための場を設定することには、多くの共通点がある。そうした解釈は、前回紹介した『黒子読本』のように、コミュニティワーカーを「黒子」として捉えることにも通じるかもしれない。しかし、前回も述べたように、頭巾で顔を隠して、自身を表に出さない黒子像は刷新される必要があると、私は考える。

アウグスト・ボアールというブラジルの演劇活動家がいる。『被抑圧者の演劇』の著者であり、その演劇の実践を広く普及したことでも知られている。ボアールは演劇の舞台を通して、演者と観客がダイアローグ(対話)を重ね、生活の中で直面している課題についてお互いが意識的になる場を設ける。その解決策を一緒に考え、それを舞台上で表現するのが被抑圧者の演劇である。

私もニューヨークに住んでいた頃に被抑圧者の演劇のワークショップに参加したことがある。そのワークショップでは、まるでコミュニティにおける実践が凝縮されたような感覚を得る。参加者は自分の身体を使って感情や考えを表現する。その表現の過程を通して「主体性」が育まれていくのである。ワークショップをファシリテートするのは、舞台裏の監督でも、頭巾をかぶった黒子でもない。演者自らが参加者とのダイアローグを通してその舞台を創り出し、自身も新たな意識化を経験するのである。

ワーカーにはその演者のような関与が求められる。コミュニティの活動では、身体も重要な要素であるが(例えば、会議での表情や会話する時のボディランゲージなど)、身体以上に言語が大きな意味をもつ。集会などでワーカーが発言する際に教科書どおりの「おきまりのセリフ」を並べてしまうと、一瞬でその舞台から人の心が離れていってしまう。

「住民の主体性が大切です。」

「この実践はまさに〇〇の機能と言えます。」

「皆さんの支え合いによって生活は守られています。」

心のこもっていない言葉の積み重ねによって、その実践からは魂が抜けていってしまう。残念なことに、魂の抜けたコミュニティを無理やり組織するために、地域のヒエラルキー構造やカリスマ性に依存する組織化(もはやそれは組織化とは呼べない)が展開されるのである。

今日もどこかで三文芝居が上演されている。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.26

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第223号,2015年12月.

実践の糧」vol. 26

室田信一(むろた しんいち)


『黒子読本』という社協コミュニティワーカーのためのブックレットがある。栃木県社協の有志が中心になって作成しているものだ。コミュニティワーカーにとっての実践の「ツボ」をわかりやすく整理しており、とてもよく出来ている。『黒子読本2』まで発行されていたが、新たに『黒子読本3』ができたということで、楽しみだ。

しかし、その社協のコミュニティワーカーを「黒子」と位置付ける考え方に違和感を感じるのは私だけだろうか。社協には住民主体の原則という考え方がある。そのため「社協ワーカーは黒子たれ」と言われてきた。しかし、近年、社協のコミュニティワーカーも個別支援をすることが求められ、「個」を見て、その「個」とワーカーが向き合うことが求められてきている。そのことが、戦後、日本で展開されてきた「コミュニティワーク」を次の段階に移行させたのではないかと私は見ている。

戦後のコミュニティワークでは、「住民主体」の掛け声のもと、住民組織が自分たちで活動の目標を定めて、その目標に向かって取り組むことをサポートしてきた。そこで見える住民像は、通常、強い「住民」である。地域という独特な政治力学の中で、潰されることなく、「住民」の声として表に出てきた声に、社協ワーカーは耳を傾けることを期待される。

しかし、本来、社協ワーカーが耳を傾けなければならない声は、地域の中で埋没してしまう声なのではないだろうか。その埋没してしまう声を尊重することは、「住民主体」によって導かれた「住民」の意思と相容れないかもしれない。地域で仕事をすると、必ずと言っていいほどこのようなジレンマに陥ることになる。

その時、黒子には何ができるのか。見て見ぬ振りして主役である「住民」の活動をサポートするのか。黒子らしく、裏で画策して、「住民」の目の届かないところで地域の中で排除された存在をサポートするのか。それとも、黒子の頭巾を外して、対等な存在(一人の人間)として「住民」に向き合うのか。

いま、現場で求められているのは、最後のような選択をするコミュニティワーカーなのではないだろうか。そのような意味では、日本のコミュニティワークは「ポスト黒子」の時代に突入している、というのが私の考えだ。さて、『黒子読本3』がどれくらいそうした新しい黒子像を示してくれているのか、今から読むのが楽しみである。

黒子読本』(栃木県社会福祉協議会)
黒子読本2』(栃木県社会福祉協議会)
黒子読本3』(栃木県社会福祉協議会)

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.25

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第222号,2015年10月.

実践の糧」vol. 25

室田信一(むろた しんいち)


こんにち求められる地域の実践とはどのようなものであり、そうした実践にとってどのような研修が必要かについて考えてきた。今回は、いよいよどのような研修の仕組みが必要かをお伝えしなければならないが、これは思ったほど簡単ではない。

従来の知識を伝達するタイプの研修ではない、ということは言えても、この記事の中で具体的なプログラムを示すことは難しい。そこで、研修に求められる重要な要素を一つ取り上げたい。

それは「質問する力」を養うための訓練が含まれていることである。「質問する力」というのは、相手がなぜある考えに至ったのか、その思考の中身やプロセスを追求するための質問であり、クリティカル・シンキングを生み出すための質問と言える。社会福祉の教育が従来から重視してきた自己覚知にとって、クリティカル・シンキングは必須と言える。ところが、そのクリティカル・シンキングのトレーニングが、実践と結びつけて考えられることは多くない。

実践の場面に即して「質問する力」を養うためには、研修の中で質問する方法を教えることが重要である。私が提供する研修では、よくロールプレイの振り返りの進め方において質問する方法を教えている。

例えば、3人一組になり、ワーカー役と相談者役、観察者役に分かれてロールプレイをおこなう。観察者役はロールプレイの間におこなわれる細かなやり取りをメモする。ロールプレイ終了後に観察者役はワーカー役と相談者役の会話で気になった部分について質問をする。例えば、ワーカー役に対して「借金の額はどれくらいですか、と聞いていましたが、それはどのような意図があったのですか」と質問する。ワーカーは何らかの意図があってその質問をしているはずである。もしくは、質問することによって、何も意図していなかったということが明らかになるかもしれない。もし何か意図していたとしたら、その意図が果たして効果的だったのか、その事実を相談者役の人に質問することで確認できる。「ワーカー役の人から借金の額について聞かれた時、どのように感じましたか?」この質問に対する相談者役が感じた思いを話してもらうことで、日々の相談援助における何気ない言葉の使い方や話の運び方が、相手にどのように受け取られているのかについて意識的になることの重要性に気がつくと思う。

そうした「質問する力」は研修の中に限らず、日々の実践の中でも重要である。自分がおこなっている相談援助の進め方、他機関との連携の進め方、職場内での調整の進め方など、意図はなんだったのか、その意図は相手に伝わったのか、と自問自答することが求められる。「一つの正解」が無い地域の実践だからこそ、そのようにして不確実性の中で行動する力が養われなければならない。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.24

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第221号,2015年8月.

実践の糧」vol. 24

室田信一(むろた しんいち)


ソーシャルワークという職業に対する社会的認知が高まるにつれ、ソーシャルワーカーの雇用を前提とする施策も各方面で広がってきている。そうした施策に基づく事業では、ソーシャルワーカーの業務内容を法によってがんじがらめにするのではなく、一定の裁量を与え、ソーシャルワーカーが独自の判断によって実践を展開することが期待される。

そのため、ソーシャルワーカーの配置が推進されるとともに、ソーシャルワーカーの実践スキルを高めるための研修が各方面で進められてきている。そこでは、従来の学校教育に見られるような、詰め込み型で、受講者に答えを与えるような学びは全く効果を発揮しない。なぜなら、ソーシャルワークの実践では、二つとして同じ事例は存在しないので、マニュアル通りの答えを求めるような実践は通用しないのである。

そこで、具体的な事例を用いて、その事例に直面した時にソーシャルワーカーがどのように対応することができるか、という現場での「考え方」について学び合う研修が提供されている。事例検討やケースメソッドなどがそれに当たる。しかし、事例を用いる研修にも落とし穴がある。事例を用いる研修は、ソーシャルワーク実践の複雑性を肌で感じることができる。その一方で、それらの研修では、事例の複雑性を「複雑なもの」として受け入れるのではなく、ある枠組みを用いて整理することを訓練する傾向にある。よく目にする枠組みは、「本人の求め」や「課題」「強み」「資源」などの項目によって事例を整理して分析しようとするものである。

そうした分析をおこなうことは、受講者に何を生み出すのだろうか。複雑なものを理解したという達成感とともに、事例に向き合うための「考え方」が身につくことが期待される。気になることは、そのような研修で大切にされていることは、受講者が「頭」で事例を理解するという側面であり、それはソーシャルワーカーという仮面をつけた状態での学びになっているということである。その仮面の内側には、偏見に満ちた自分や、地域住民と向き合うことに怯えている自分、ある状況が許せなくて怒りに震えている自分などがいるのかもしれない。しかし、そうした「仮面の内側」の部分(=無意識の部分)はとりあえず横に置き、ソーシャルワーカーという仮面をつけて、自分の人生とは直接関係ないその事例に向き合い、そして検討する。

そのような研修では、現場で人の人生に関わることを専門にするソーシャルワーカーの「心」は育たないのではないか、という問題意識を共有して今回は終えたい。次回は、「仮面の内側」の自分に接近する、無意識に意識的になる研修の方法について考えてみたい。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。