CSR

さて、日本に帰国してからよくCSRという言葉を耳にするようになった。まだ一般にはそこまで広まっていないと思うけれど、NPOの中ではかなり定着しているようである。
僕が始めてCSRというコンセプトを知ったのは2年位前で、Dominiと いう、アメリカCSRのさきがけ的なインベストメント指標を作ったファームを知ったのがきっかけだった。それ以来、たまにアメリカでも耳にした り、Newsweek Japanの特集で見かけたり、日経に載ってたりと、だんだん世の中に広まってきているとは思っていたけど、まさかここまで日本のNPO界で話題に上って いるとは思わなかった。
こ のCSR、まだまだ発展途上のコンセプトで、日々進化しているように思われる。アメリカでは企業の社会的責任というコンセプト自体決して古いものではない と思うし、どちらかというと必然的に至上主義のメカニズムに対してのアンチテーゼとして沸いてきたものであると思う。でも、日本のCSRはものの見事に猿 真似だね、うん。葛藤から生み出される解決策ではなく、「うーん、それっていい考え方だし、アメリカで流行ってるし日本でもやったほうがいいよね」的なも の。でも、日本のすごいところは、その謙虚な姿勢からとんでもなくよく機能するシステムを作り出してしまうところ。これは、その葛藤の部分がないからテー ゼに対するアンチテーゼとかではなく素直にジンテーゼを生み出してしまうところにあると思う。とてもTransferencialな国民性ですね。
そこで、世の中のコミュニティー・オーガナイザー諸君に一言!今コミュニティー・オーガナイザーが日本のCSRの基盤つくりに携わることで、日本における社会活動参加の地図が塗り替えられるかもしれない。さらに言うと、社会活動の文化を築くことになると思う。
ア メリカの企業もそうだけれど、日本の企業もどのようにして社会的な投資をすればいいのかわかっていないようである。試行錯誤の段階ね。企業にとっては福 祉活動に対して寄付をすることは安全パイであるけれど、「投資」という意味では魅力を感じていないようである。これは「影響力」の問題であると思う。 CSRとは「投資」によって社会に対して責任ある「影響」を及ぼすことだが、これはCOによってその効果を増すわけである。つまりは地方分権の流れのも と、住民主体で21世紀の社会作りを創造していくことはコミュニティー・オーガナイザー無しではできないんじゃないかと思う。それがCSRによってより具 体的に動き出すような気がします。そういった意味でも、コミュニティー・オーガナイザーは福祉というコンセプトをもっと全体的にみて、社会にとって何が必 要であるか、どのようなアプローチが可能か柔軟に対応していかないといかんね。それにはまずコミュニティー・オーガナイザー塾みたいなものを始めないとい かんかねぇ。いろいろ考えないと・・・。

時代は繰り返す

さてと、ずいぶんご無沙汰していたこのブログも久しぶりに更新するに至りました。
ニュー ヨークでの帰国準備、帰国して、新しい生活のスタートとなんだかんだで3ヶ月くらいはゆっくりとこのブログを書くことができませんでしたが、これか らは日本でのCOの現状を踏まえて、NYで書き残してきたノートなどを含めてこのブログを更新していきたいと思っています。
さて、今回は日本に帰ってきた自分が今、深く感じていることを書き落としておきたいと思う。具体的には「福祉」とは何か、そしてNPOのあり方などに触れてみたいと思う。
日本に帰ってきて、自分が今までやってきたこと(CO)をカテゴリーに分けるとすると、日本では「地域福祉」と呼ばれるものに当たる。
そ れとはまた別に、現在の日本ではNPOを中心とした市民活動が大変大きな盛り上がりを見せている。実際に僕がNYで働いていたセツルメントハウスなども このNPOに当てはまるわけだが(というよりも、NPOの原点といえるのかもしれない)、日本では、このNPOの歴史が浅いせいもあってか、NPOとそれ 以前の俗に言うボランティア団体などの地域福祉との間には大きな開きがあるように思われる。
NYでは確かにForest Hills Community Houseの ようなセツルメントのことをSocial Service Agencyと呼ぶけれどもそれはNPOという大きなカテゴリーに収まるわけで、日本で言うところの福祉NPOに当たるのかな。確かに市民活動よりも福祉 的なサービスの担い手という感は否めないが、NPOとSocial Service Agencyの間に日本で見られるような壁は存在しないと思う。
特に今回帰国して日本の地域福祉の文献をあさってみたが、NPOに関して述べているものは少なかった。一方で、NPOの分野では既存のコミュニティーでの活動を含めた地域福祉をコミュニティー内の機能として認識している団体は少ないように見える。
一言で「市民活動」と言ってもさまざまだが、COの原点に帰るとそれがNPO活動であれ、地域福祉であれ関係ないと思う。どちらかというと、方向性をつけることでお互いが強調されることが大切なのではないかと思う。
Johns Hopkins大学の権威で市民活動(NPO)についての研究を続けているSalamon教授によるとこの第三セクターと呼ばれる市民活動数は世界中で急 増しているらしい。これは、高度に進んだ通信技術力などを駆使して政府や資本に頼ることなく市民が中心となって社会的ニーズを満たしているという。これ に加えて僕はもうひとつの見解を挙げたいと思う。
今 日、コミュニティーの崩壊が謳われ始めて数十年が過ぎようとしている。都市化、国際化、核家族 化に加え、生活パターンの変化もあり、長く続いてきた地理 的な条件を基にしたコミュニティーが崩壊の道をたどってきた。一方で通信技術の進歩によって、新しい生活パターンが成り立ち、新しいコミュニティーの形が 出来上がってきた。今日NPOが盛り上がっていることは、コミュニティーの形成に当たるんだと思う。それは、以前農業を中心とした村単位でのコミュニ ティーが存在したり、商店街を中心とした町内会などができたように、新しい生活パターンに基づいたコミュニティー作りがものすごい勢いでなされているのだ と思う。これ自体はコミュニティー・オーガナイザーからして言えば、願ったりかなったりで、コミュニティーの存在しないところでオーガナイズなどできない と 言われてきた最近のCOを一気に改善してくれるかもしれない。
しかし、ここで大事になってくることは「福祉」というコンセプトだと思う。福祉 とい う言葉自体、今日NPOを盛り上げている人達にとっては野暮ったいもの になると思う。僕も個人的に福祉という言葉には何か制限が付きまとうような気がする。それは、福祉という言葉が児童、高齢者、障害者といった俗に言う社会 的弱者にしか当てはまらないというイメージが強いし、自由度に制限があると思う。
さらに付け加えるならば、マスメディアが作り出す、市場主義的な価値観の中では、どうしても見劣りする部分は多々あると思う。
た とえば、最近僕がイベントに顔を出したBeGood CafeというNPOは若者の中でも人気のミュージシャンをゲストに呼んでトークショーをしたりと、市場が求めるものを非営利の形で実現しているという部 分では眼を見張るものがある。それに加え、内容もエコや、平和などメッセージ性も強く、地域通貨やCooperativeを展開したりと、従来の地 域福祉が目指すところが多々ある。
そ れでは、こういったNPOの活動が今までの地域福祉を取って代われるのかというのがポイントだと思う。どちら かというと、本来のコミュニティー・オーガ ナイザーの視点から言えばこれほどすばらしいことは無いわけで、福祉として提供するフォーマルなソーシャル・サポートを、市民が力を出し合うことでカバー できるならば、そして世の中からコミュニティー・オーガナイザーという職業が無くなって、世の人々皆がコミュニティー・オーガナイザーになればそれはコ ミュニティー・オーガナイザーの本望であると思う。そうすれば、あとはオーガナイザーは子供の教育に携わればいいと思う。
まぁ、しかし、そうは行 かないのが現実で、ここで大切になってくるのが福祉というコンセプトだと思います。福祉というものは、ほんの120年位前までは地 球上に存在しなかった考え方で、それまではインフォーマルなソーシャルサポート、及び宗教を通したチャリティーのみが存在していた。、政府、又は市民の代 表が フォーマルな福祉を定着させたのは、基本的には民主主義という社会形態をもってして初めて成り立ったものである。つまりは、「人類みな平等」のコンセプト の上に成り立っているもので、だからこそ、社会的弱者の児童、高齢者、障害者が福祉の代名詞のようになってしまったんだろう。
COのコンセプトは民主主義と特に密接に絡んでいると思うが、福祉自体民主主義という土台が無くては大変不安定なものになってしまう。ビスマルクのように国力と考えて福祉を導入した例もあるので一概には言えないが。
こ の民主主義のコンセプトを今日のNPO活動に当てはめて考えるとどうであろうか。よくアメリカではNIMBY(Not In My Back Yard)と言うコンセプトを用いるが、これはCOの中で最も気をつけなくてはいけない落とし穴である。コミュニティーをまとめることで、自分達の コミュニティーは助かるが、他のコミュニティーで起こっている問題は一切関係ありませんということである。つまりは、コミュニティーをまとめるということ は単純に特定の人々さえ得をし、その他のコミュニティーがどうなってもいいかといったらそういうことではない。だからこそ、COではニーズ調査が大切で、 オーガナイザーは提案者ではなく、コミュニティーが本当に必要としているものを形として導くための溶媒であり、それと同時に正義、不正義の判断を助けるよ き助言者でなくてはならない。
たとえコミュニティーをまとめたとしても、それが排他的かつ利己的なコミュニティーだとしたら、それはいいCOなの だろうか。なかなか難しいところであ る。結局は民主主義という厄介な代物と毎日格闘して初めて答えのエキスのようなものがぽたぽたと搾り出されるのかもしれない。

三本柱

さて、久しぶりにCO道に書き込みをしています。
いよいよ2年近く働いてきたForest Hills Community Houseでの仕事も終わりをむかえ、今月末には日本に帰ることとなりました。NYでの経験は本当に身になるものだったので、これからもちょっとづついろ んな形でここに書き落として行きたいと思う。
今日は2年間コミュニティー・オーガナイザーとして従事してきて、最も効果的に長・短期のCOを展開できる三つの要素について書こうと思います。
この三つの要素はおそらくCO以外でも有効な考え方であるとは思うけれど、ようは人間と仕事をする上で大切なコンセプトになると思います。そのなかでも、人に主体性を持った行動を促すCOでは特に以下の3点が重要だと思います。
1)コミュニティー・ビルディング
2)Issue based organizing(問題解決のための組織化)
3)選挙に関わる活動
という3点ですが、これは1)長期的で包括的な活動(Long-term)、2)短期的で目的が明確な活動(Short-term)、3)具体的に結果が出る活動(Practice of one’s power)といえると思います。
具 体的に言えば1)は常に活動の根底となるコミュニティーという基盤を作り、保つ活動。コミュニティーの無いところにオーガナイズもありえません。 Social Capitalとも呼ばれるコミュニティーの要素を作り、より多くの人に地域社会活動に参加してもらうことが鍵になってきます。これがなくては、情報の伝 達も、ニード調査も、エンパワーメントも、運動も成り立ちません。
一 方で、2)は具体的に問題解決のために人が具体的な目標を掲げまとまる機会を与 えるものです。1)だけではいくらコミュニティー活動を繰り返しても進歩が見 られないため、いつしかコミュニティーは目的を失い、まとまる意義を見失ってしまいます。コミュニティーがまとまるという意味では、問題解決でなくても、 収穫祭や奉納祭だったり、人種迫害運動や宗教的セレモニーなど考えられるが、今日の民主主義国家におけるコミュニティー活動の中では、問題解決というプロ セスが最も生活の基盤と密着していると思う。これは流動的なものであって、短期的なイベントである方が望ましく人々の生活に身近に感じられる目標のような ものを上げることが大切になります。
3)の選挙に関わる活動というのは、今日の民主主義の中で選挙にどれほど重きを置くかで変わってきますが、 2005年の今日の時点ではやはり選挙というも のは民主主義の大きな要素であって、無視はできないし、影響力は大きいです。さらに、世界的にも選挙権が人権として確立しつつあり、選挙権はすべての人間 が平等に行使できる一つの「力」として大切なコンセプトとなりました。この「力」を使って具体的に政治に影響力を与えることは大事なCOの要素です。さら に、実際に選挙を行わなくても、有権者であることを盾に代議士の人と交渉することも可能になります。実際に目に見える「一票」という力を行使することで人 はエンパワーされます。
以上の三つの柱を軸にCOを展開することで、より効果的な活動ができるでしょう。残念なことは多くのCOはこの中の一つに のみフォーカスしたものが多いこ とである。じっくりと先を見据えた活動をしてはいるもののいつになったらその効果が表れるか未知なものや、目先の問題解決で一致団結してはいるものの山場が 過ぎると解散してしまうコミュニティー、政治的な活動には熱心であるがそれ以外のコミュニティー活動が皆無なものなどである。それぞれの活動がお互いの要 素を取り込むことで、より効果的なCOが展開されるんじゃないかな。

勝手に世界のSWアナリシス

たまたま知人を介して紹介された日本で福祉を学んだ人に、僕の母校であるハンター大学ソーシャルワーク学部 てコミュニティーオーガナイジングを学ぶことについて質問されたので、COとは、またその流れを説明しようと思い、勝手に今日の世界のSWの現状のような のを書いてみました。自分の把握していない部分は多々あると思いながらも、今の自分が知っていることを残しておくことはいいことだと思う。よって以下に記 します。せっかくブログなのだからこれを多くの人に手直ししてもらえたら嬉しいと思いながら。
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世界のソーシャルワークの形態を大きく分けるとイギリスからの流れで始まったアメリカ式のソーシャルワークとドイツを源流にして北欧に流れていったドイツ式とに分けることができると思う。
そこにはもちろん政治背景や時代背景があるわけですが、どちらも甲乙つけがたい福祉形態になっています。

メリカ的な社会福祉は住民・市民・当事者牽引型の福祉といえます。これはコミュ ニティーアクティビズム色が強く、イギリス・アメリカ型の民主主義枠組みのなか、市民が主体となって生活の質の向上及び社会的弱者の社会的地位と保障制度 向上を求めるという要素が強くなっています。ちなみに日本は戦後アメリカ的な民主主義の基盤を構え、同時にアメリカ的な社会福祉制度を広く導入していま す。
方、ドイツ型の福祉は、僕も決して詳しくはありませ んが比較的政府が中心となって福祉を 提供する形を取っているようです。特に北欧、スウェーデンの社会主義的な福祉保障制度は有名ですよね。これは、たとえば東西ドイツが合併したことなどの経 緯を経て、国の方向性としては経済的に世界をリードするよりも安定を求め、国民の生活の質の向上の方にフォーカスを持つと言う背景があって出来上がった仕 組み と思われます。日本は高度な経済成長を経て社会主義国的な福祉を擁しましたが、近年経済の落ち込みと共に、そのまま安定を求める政治よりも、国を再興する 政治に動いていると思います。これに関してはさまざまな意見があると思いますが、この方向性と共に社会福祉も変化せざるを得ないのが現状でしょう。さらに、付け加えると、2000年の社会福祉法の成立を機に地域福祉及びNPOを支援する方向で大きく動き出しているように思えます。これは、どんどんアメリカ的な当事者主体の福祉になってきてる流れと受け取れます。

の当事者主体の福祉では、たとえば障害者福祉だとしたら、障害者達とその家族が「コミュニティー」としてまとまり、福祉制度なり、社会制度なりの改革を訴 えるこ とで向上を計れます。もちろんその背後には選挙制度、代議士制があり、アド ボカシーというものが必要になってきますが、そういったことを踏まえて、大きな意味で、コミュニティー全体、しいては社会全体が向上するためにコミュニ ティーオーガナイザーが必要になってきます。日本は今まで社協が中心となって政府の代弁者として福祉会を率先してきましたが、今日、社協への政府からの資金的な援助は底打ち状態で、このままでは日本の福祉はますます低クオリティーになってしまうという見方が強まっています。
一方、アメリカでは障害者団体が70年代、80年代にアドボカシーとコミュニティーオーガナイジングを繰り広げた為、ノーマライゼーションに関しては相当進んでいますが、福祉システムが充実したカナダでは、(カナダは国民健康保険制度があるけどアメリカにはない)障害者福祉に関してはまったく遅れを取っています。これは明らかにアドボカシーがなされなかったことによる結果です。

といったように、当事者主体の福祉はコミュニティーオーガナイジング及びアドボカシー無くしては成り立たないことは否めません。
も、こういった政治的な圧力をかける以外にもTさんの言ってるまちづくり的な要 素も大いに含まれてきます。今までも社協を中心とした福祉では、コミュニティーセンターや、ボランティア活動を通じてまちづくりをしてきたわけだけど、 これからは社協以外のNPO、自治体が中心となってまちづくりをする方向性が強まると思います。
キーワードはコミュニケーションとネットワークと人間性でしょうか。
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踊れ踊れ。

先週またもやNYICのアドボカシーデイに参加して、州都のAlbanyうちのプログラム 生徒たち80人ほどを引き連れて行って来た。朝の5時半に集 まって、夜は7時半までかかる一日がけのバストリップだったが、みな積極的に参加した。参加者には交通費として$10請求したが、これがなかなか涙無しで は語れないようなエピーソードを生んだ。夜中の2時から昼の12時まで魚の卸で働いている一人の生徒が、バストリップのあった前の週のある日、彼の仕事終 了後の午後の1時半にわざわざ交通費$10を払いにオフィスに来た。その日はオリエンテーションの日だったので、1時間ほど待てるかと聞いたら、魚くさい から家でシャワーを浴びて帰ってくるといったが、2時間後くらいに遅れて戻ってきて、寝過ごしてしまったと言うこと。なんとも泣かせる話だと思う。本当に みな一所懸命にアドボカシー活動に参加してくれる。
ニューヨークではよく行われるこの一日がけのアドボカシーデイ、当事者を連れて行き、州の議員 さんのオフィスを訪ね、意見を聞いてもらう。当事者たちは細 かい予算の話やら、法案の事はあまり理解していないパターンが多い。今回も、TANFファンドを特定の人口に限らず使ってくれだとか、州の教育予算をこれ くらい上げてくれだとか、当事者にとっては特殊すぎる内容を話しに言ったわけだが、そういった部分はLobbyist、又はうちの場合はオーガナイザー、が 担当し、当事者たちは各々のメッセージを伝える。
きのバスの中で考えていたんだが、英語を学んでいる最中の生徒たちが州の議員さんたちに会いに いくといって、朝の5時半から80人が集まり、特に明確な 指示も無いままAlbanyに着いて、その日のプログラムを過ごそうとしている。具体的に何をすればいいのかと不安にならないのか、かえってこっちが不安 になってしまう。ただし、皆僕らが伝えようとしているメッセージはわかっている、そしてそれぞれ何かを伝えようと言う意思を持っている。
れはダ ンスなんだと思った。行進ではなくダンスなんだと。みな踊りの踊り方はわかっていて、あとはリズムさえ提供すれば、それに合わせてそれぞれがダン スを披露するんだと感じた。日本で同じ事をしようとしても、なかなかそうは行かないのではないか。日本でやる場合、的確な指示の元、全員が同じリズムで行 進することで、最も効率のよい結果を生み出せるのではないだろうか。しかし、ここアメリカで人に行進をさせようとしてもそう簡単には行かない。まずは僕が リズムを創り出し、それに乗って思う存分踊らなくてはいけない。そのダンスにみなが乗ってきて始めて全体が効果的なメッセージを送ることができる。案の 定、いざ議員さんのオフィスに行くと、みなそれぞれに主体性を持って、誰かに吹き込まれたメッセージではなく、それぞれが心からのメッセージを議員さん、 又は代表者に伝えた。内容はべたな英語で伝えれる精一杯のものではあったが、心がこもっている分、きっと議員さんの心にも残ると感じた。
ともと Albanyへ行くこと自体、政治の上で具体的な結果を残すことが目的ではない。そこに往復6時間かけていくというその行動に意味があり、それを 定期的にすることで、議員さんの良心に訴えると言うものだ。よって、その話す内容、提案は大切ではあるが、それ以上に人間としてのコミュニケーションが大 切になってくるわけである。
そのコミュニケーションは軍隊 のように指示を与えられた人間によってもできるが、リズムに乗ってメッセージの波をぶち まける方が効果的であるだろう。何よ りもその方が参加者たちは達成感が得られる。オーガナイジングとはそういった人間の感覚的な部分(心の部分)をうまく扱わなくてはいけないと思う。これを 欠くと、理屈だけの政治的なやり取りになってしまって、主体性や、リーダーシップなどの要素の欠けた発展性の無いものになってしまう。
ダンス・ダンス・ダンスってことだね。

Community Building

今日は僕の働く団体のコミュニティ・ビルディングに関するミーティングに参加した。何でこうしたミーティングを行うことになったかと言うと、最近うちの団体が抱えている問題からきている。問題と言うと、語弊があるかもしれないが、セツルメント・ハウスとして30年以上地域の福祉問題に携わってきたFHCHはそのミッションにもあるとおり、地域の住民のつながりによる、お互いを助け合い、それぞれが成長できるような環境のコミュニティ作りを、一つの大きな価値観としてきた。つまりは、コミュニティ・ビルディングである。1990年代からコミュニティ・ビルディングという考えが、COの世界で、より注目されるようになった。これは、Robert Putnamの提案するソーシャル・キャピタルという概念が基本となって発展してきたものだけど、要は、コミュニティを基盤として活動するにも、そのコミュニティが崩壊していては何もできませんよってことで、まずは、その崩壊したコミュニティを作り直すような活動が必要なのではないかと言う考えなんだな。セツルメント・ハウスは、まさにコミュニティ・ビルディングを行って発展してきたわけだ。しかし、近年セツルメントを含めたソーシャル・サービスの供給体は事業を中心とした運営に変わってしまい、コミュニティ・ビルディング的な活動が欠けているという現状がある。そこで、政府や財団などによる補助金や助成金に対して、コミュニティ・ビルディングの要素を踏まえた活動に対する助成の仕方があるのではないかということで、今回のミーティングに至ったわけだ。

ただし、これは、政府や財団に対する反論や意見といったReactiveなものではなく、自分たちが考える、コミュニティで必要とされている活動を進めていくための、自分たちの活動を自分たちで評価できるような指標やモデルの形成を行うと言う、Proactiveなものであった。

そこで、それじゃあ、いったいどういった活動がコミュニティ・ビルディングにおいて最も効果的なんだろうといったような話合いが行われたわけだけど、これが、なかなか一筋縄ではなかった。実際に事業を展開しているときは、あれこれと、コミュニティ作りを行う上での重要な、細かい要素のようなものが考えられるわけだけど、それをある程度普遍的な活動指針として挙げようと思うと、なかなか難しいものだったりする。だから、ソーシャル・キャピタルの研究は迷路に迷い込んでいる感があるように思われる。

そこで、一人の職員が、会議の中心である、FHCHの内務大臣(Associate Director)にいったい何がFHCHでこのようにうまくいっていると思うかを尋ねた。ちょっと、考えた末、彼女の答えは、FHCHで働くワーカーの層の厚さからくるものだと思う、というような内容だった。彼女は、20年ほど前に我が母校Hunter College School of Social Workを卒業し、一年間行政の仕事をした後、FHCHで勤務してきた。彼女を筆頭に、FHCHにはHunter出身のソーシャル・ワーカーが10人ほどいる。それも、17年前に卒業したものや、15年前、10年前と、歴代のインターン実習生がそのまま就職しているパターンがその殆どで、僕がその中の最年少と言うわけだ。Hunter College School of Social Workのディーンをもってして「FHCHはHunterの西に位置する分館だ」と言わせるほど、密接な関係であり、それだけの人材を育ててきている。

コミュニティ・ビルディング活動はその人材をもってして成す事ができる、というような答えでは、政府や財団は納得しないと思うが、コミュニティ・ビルディングを行う上でのワーカーの地域に対する心構えや、その団体の抱えるミッションと、その遂行度などは、ある意味では、確実にコミュニティを形成するような指針となるようにも思われる。今日では、団体の透明性や先駆性、柔軟性、開放性などが求められ、何十年も勤続しているスタッフを抱え込んでいる団体は、フットワークが重いように受け止められがちだが、コミュニティの崩壊が叫ばれる今日、何十年も、同じ理念を持って地域へと影響を及ぼし続けているセツルメント・ハウスの意義のようなものを再び見出すことは大切なんじゃないだろうか。

NY市アドボカシー・デイ

今日は寒かった。最高気温が摂氏0度くらいで、さらに風が強くて5分外にいるだけで骨の芯まで冷えた。そんななかNew York Immigration Coalitionが主催したImmigrant Advocacy Dayうちのプログラム参加者20人ほどを引き連れて参加してきた。NYICのメンバーの中でもアドボカシーのメインプレイヤーであるFHCHは引っ張りだこで、 午前中のタウンホールスタイルミーティングではディレクターがImmigrant Opportunity Initiativeと呼ばれるNY市の予算に関して話し、そのあとの集会、議員とのミーティングでも他のグループを代表して発言した。
まぁ よくあ Advocacy Day又はLobby Dayってやつで、市が予算を決めるこの時期になると決まって僕らのようなCBOは市庁舎やら、州都に参加者を送り込んで、来年の予算を確保する。まぁ、 挨拶 代わりのようなものであって、年によっては結構白熱したりもする。
回僕が訪れたブルックリン地区代表の市議員さんは、100キロはあるであろう 巨漢の持ち主で、昨日の雪のせいもあってか、泥だらけのコートに汚い靴、大 きく飛び出たおなかを無理矢理スーツのズボンに押し込んでいるその容姿はとても市の政治を担っている人物には見えなかった。話を始めてみると、これがな かなか頭の切れる人物で、又、自分の知らない問題事項は素直に認める気持ちのいい人だった。たいていの移民コミュニティーはJetsスタジアムのマンハッタ ン移転に反対しているわけだが、その代表である僕らを前に彼は堂々とスタジアム移転サポート宣言するなど、自分の政策に相当自信を持っている感じがした。まぁ、政治家とはそういうものか。
それよりも面白かったのは、 彼が部屋に入ってくる前に買ってきたコーヒーの紙コップにBloombergとプリントされていたことだ。これは市長が経営する株式情報メディア会社の広告で、市庁舎はウォール街から歩いて数分に位置するだけにBloombergの広告を目にすることは不自然ではないが、これは市長が意図的に自分の宣伝も兼ねて していることと思われる。ブルームバーグ市長は堺屋太一氏の「平成三十年 に出てくる織田氏を髣髴させるビジネス界出の政治家で、自分の資金を使いながらなかなか大胆な改革に出ている。昔は家系が政治に精通していないと政治の道 に関わりにくい社会だったが(今でもそうか)、資本主義経済が飽和状態になってきた今日、お金があって始めて政治に関われる社会になったようで、ブルーム バーグ氏はその象徴のような人だ。何よりも共和党(もともとは民主党支持者だが)の市長の会社の広告入りカップを手にした民主党の市議員さんの絵が風刺画 のよ うであまりにもこっけいだった。
ちなみに余談だが、僕はこういった議員訪問があって始めて成り立つ民主主義のあり方に対してちょっと疑問を 感じ る。さらには市庁舎前で氷点下の中、集会を 開いて初めてメッセージが伝わるという民主主義に対してもおままごととしか感じることができない。でもみんなこんな茶番が大好きみたいで、ますますイ リュージョンの中に引き込まれる気がしてならない。

アクティビスト vs コミュニティーオーガナイザー

なんだか、この度CO サイ ト立ち上げに向けてCOに関するリンクなどを調べていたんだけど、COのカテゴリーに入れたいものとちょっとCOからずれてくるものとが出てきた。あくま でも個人的な価値観から来るが、その多くはアクティビストものとコミュニティーオーガナイジングものとに分けられると思う。よって今回はこの両者の違いに ついて僕なりの見解を書いてみようと思う。
一般的にアメ リカでコミュニティーオーガナイザーと言うと、アクティビストのイ メージが強い。現にそういった反応をよく受ける。僕の中でのアクティビストの概念とは、何か強く信じるもの、反対するもの、擁護する問題等に個人的な問題 意識をもち、それに対して個人の意思 主張し続ける人、のことだと思う。例えばPeace Activistなどと言う場合、平和に対しての問題意識が人一倍強く、戦争の話題になると我こそはと平和主義を主張し、戦争反対運動やら、平和集会やら を催したりと、その問題に対して実際に何かの行動に出る人を指して使われる言葉だと思う。これは一人の人間として民主化された社会の中で生活するうえでは 大切なことであり、特にアメリカでは人々が行動を起こすことで歴史が変わってきた背景があるだけに、アクティビズムは無条件の賞賛のようなものを受けてい る。
このアクティビズムは無論コミュニティーオーガナイ ザーにも必要な資質ではある が、それだけではCOは語れないと思う。決して学術的なCO論だけには収めたくは無いが、COにはいくつかの基本概念がある。まず一つには、個人の問題意 識ではなくコミュニティー全体の問題意識を第一とするというのがある。コミュニティーにおけるニーズ調査をして初めて、そのコミュニティーに対して働きか けることができる。第二に、計画性を持って 題に対処する。もちろんこれは住民参加型の計画こそ望ましいく、コミュニティーのニーズを基に、問題解決のた めの設計図を作る必要がある。これは以前も書いたが、ReactiveProactiveの違いになると思う。何か問題が発生したことに対して計画性を 持たずにがむしゃらに行動に出ても、勝算は低い。三つ目には、ビジョン くる。これは二つ目のポイントとも深く関係してくるが、最終的にどこにたどり着き たいかが明確でないと、ただの理想主義になってしまう。コミュニティーオーガナイザーがアクティビストのように行動に出ずにひたすらコミュニティーの為と 試行錯誤していても、そこに明確なビジョンが欠けていたら理想家で終わってしまうと言うこと。
これって結構厳しいけど、本当の話。いくら住民主導のオーガナイジングを謳っていてもビジョン無しでは何も起こりません。ってことで、僕もそれなりに自分なりのビジョンを持って仕事に励んでいます。

MLK

今週の月曜日はキング牧師 生記念の祝日だった。たぶん誕生日だと思う。あまり殺された日を記念日にすることは無いと思うんでね。キング牧師は中学の英語 の教科書にも載るくらい知られた人で、彼のI have a dream…スピーチはあまりにも有名すぎると思う。その彼が訴えたことは、とてもシンプルで、今になれば当たり前のことだけれど、黒人でも白人でも 平等に扱うべきだという、いたってシンプルなことだった。こんな当たり前のことを、当時の人たちは当たり前と思っていなかったと言う現実は、今日かなり影 を潜めたんじゃないかな。
でも、この盲目の人間による社会 形成というものは、いつの時代にもあって、今日もいたるところに存在すると思う。まぁ、 日本なんかはそれの宝庫でしょ。男 女差別から、朝鮮人問題なんていうのは当たり前で、どっちかって言うと毎日の生活の中で垣間見られる村社会がその際たるものかもしれない。
まぁ、 そういった盲目の社会形成の中に、21世紀の移民コミュニティーというものがあると思う。これは国連 把握しているものだけれど、今日の移民は世界 中の人口の3パーセントを上回るといわれていて、もちろんこの数字はこれからどんどん伸びてくると思う。グローバル化だね。もちろん自分の生活に満足して いて、さらに刺激を求めて移民する(典型的な日本人移民タイプ)もいるけれど、移民の多くは経済面、政治面での困難を理由に移民するケースがそのほとんど だと思う。これは不可抗力によって移民するわけで個人の問題としてみるよりも、世界全体の流れのひずみがその3パーセントとして出てきているんだなぁ。
んでもって、今の国際社会では誰が何を叫ぼうと、そういった「移民」たちを国際社会の一人間として扱う法律なんてものは制定されず、アムネスティーや国 連が人権を武器に口撃するのが精一杯という状態。高齢化によって、移民受け入れ需要急増中の日本社会では、このグローバル化の犠牲者たちをどのように受け 入れるのだろうか。キング牧師が叫んでいたように、ごく当たり前に一人の人間を人間として平等に扱う、そういった姿勢があればいいなぁ。でも無かったら無 いで、コミュニティーオーガナイザーの腕の見せ所だけどね。

Venezuela

今日は職場のParalegalの人とベネズエラに関して話した。
彼女はもともとはエクアドル 身だが幼い頃に家族でベネズエラへ移民したらし い。彼女がベネズエラに移り住んだ70年代は豊富に採取され続けた原油によっ てベネズエラの経済が最も成長した時期で、ヨーロッパからも多くの移民が移り住んだという。依然、スペインからの独立以来安定した政府を築けていない近隣 諸国に比べて、ベネズエラは原油のおかげで治安と経済の安定した社会を築いていたという。
しかし現状は、ヨーロッパからの移民が多くの富を所有 し、ベネズエラ国民たちは次第にその貧富の差に対して反感を得るようになっていったという。なんだか こういう話しってどこにでもあるような気がする。それは東南アジアに移り住んでいった華僑だったり、オーストラリアに招集された白人たち、アフリカ諸国 や、西インド諸島のインド人なんかもちょっと似てるのかな。
まぁ、 それはさておき、現在のベネズエラといえば、社会主義的な政策を立ち上げ、貧困 層の支持を得て大統領に選ばれたHugo Chavez 有名で、今年の夏に史上最大の投票参加率をもってなお国民の過半数に支持されてリコールを回避した。民主主義を信じ、さらにはIMFや世界 銀行のやり方に憤りを感じている層は、このChavezの再選に対して国民主導の政治の勝利として、多少なりと誇りに思ったかもしれない。
し、今日僕が職場の同僚から聞いた話は、そのまったく反対の角度からの見解だった。エクアドルから移り住んだ同僚家族はよく働き、ベネズエラでそれな りの富を築いた。当時のベネズエラは、移民がチャンスを掴めるような体制にあったのかもしれない。いずれにせよ、彼女からしてみれば、80年代になり、貧 富の差が激しくなるにしたがって、犯罪が絶えなくなり、家族でアメリカに逃亡することにしたという。彼女から言わせれば、その後選ばれたChevez的な 政治はその問題を解決するには至っていなく、政府として経済成長をサポートせず、上流階級から徴税をし、下層階級に社会保障を提供するという彼のやり方は ベネズエラ自体を魅力的な国にはしてくれないという。
その彼女は今、アメリカの移民コミュニティーの中で、専門職を得ながらも、決して裕福な暮らしは約束されていない。
女の人生を通してみた政治のあり方は今日の民主主義の現状を表していると思う。アメリカが今日のような保守的な体制になったのも、それを支持する国民が いてのこと。今日、苦労している移民たちもやがてアメリカで生活を築くことで、いつかは保守的な考えを得るだろう。同じ原理が日本に通じるようになるかは 楽し みな部分だ。(実際、日本にすっかりはまったガイジンさんが、きものを着て日本の伝統文化の保護を訴えてたりするのを見ると、まんざらない話でも ないかもしれない・・。)