The True Leadership

あなたの身の回りにリーダーはいますか?
こういった質問をしたときに、日本人はどのように答えるのだろうか。まず、リーダーという言葉自体がぴんと来ない人も少なくないかもしれない。世間一般で考えると、政治家だったり、経済界やメディア界の権力者だったり、カリスマ的な芸能人や有名人だったり、そんなところだろうか。
身の回りで考えると、 自分が所属している集団(会社や、学校や、趣味のグループや地縁組織)の代表者だったり、先輩だったり。地域の顔のような人や、町内でも有名なおじさんやおばさんなど。何をもってして、誰をリーダーとするかはその人次第だろう。
あなたはどういう人をリーダーと考えますか?
この質問はどうだろうか?きっと日本におけるリーダーのイメージは(いや、日本に限らずだけど)男性で30歳以上、頭が良くて、カリスマ性があって、厳しさを兼ね備えていて、鋭い目をしている。黒髪短髪とか。西郷隆盛みたいなイメージを持っているけど、それは僕のイメージかもしれない。でも、少なからず、日本における共通のリーダーのイメージというものは存在するのではないだろうか。このイメージはどこから生まれてきたのだろうか?西郷隆盛のような歴史的人物とそれを伝える教科書や本からか。マスメディアからか。親から子へ語り継がれてきたものか、それぞれの経験から培われたものか。僕が西郷隆盛のイメージを持っているのは、きっとマスメディアの影響のように思う。映画やテレビによって作られた価値観ですね。こんなところまで、メディアというものは影響を与えているんだからMedia Literacyの問題は深刻だと思う。そんでもって、こうしたメディアによる影響は我々の根本的な価値観を形成してしまっているし、個人的には男女平等という価値観を強く持っている(と思っている)僕でさえも、リーダーといったときに(ちなみにここではポジティブな要素を持ったものとして)、まず最初に持つイメージは男性のイメージなわけです。これは、女性にとっても同じことが当てはまるのかもしれないね。
まぁ、今回のコラムで僕が言いたいことはMedia Literacyの問題ではないので、本題に戻ります。
つまり、ポジティブな意味での「リーダー」と言ったときに我々の想像力はえらく乏しいわけで、さらには、リーダーのイメージでネガティブなものとしては、自己中心的、権力者、勝ち組、いい顔しい、目立ちたがり屋などが挙げられると思う。つまり、リーダーに対してこんな偏った狭いイメージを持ってしまっているがために、身の回りにもリーダーがいないし、ましてや自分がリーダーシップを発揮するなんてことはもってのほかなわけである。まぁ、こういう体質の社会からでも少数のリーダーは出るかもしれないけど、多くのリーダーによる創造力に溢れた社会形成みたいなものは無理でしょう。アメリカの大統領がリーダーのfalse imageを作り出してしまっているのは、大統領のせいでもなんでもないわけで、そういった土壌を作り出してしまっている我々すべての産物と考えることができると思う。まぁ、そのイメージに甘んじている「なんちゃってリーダー」には元々リーダーとしての素質はないんだろうけどね。
つまり、本当の意味でのリーダーが機能する社会って言うのは、5人に一人か、最低でも10人に一人くらいがリーダーの社会だと思う。ここで言う本当のリーダーとは、自分の役割を理解した上で、周りとの相互関係の上で、全体にとって最も必要とされていることに対して行動が取れる人のことである。この行動とは、一人で取る行動かもしれないし、周りの人間を巻き込んで取る行動かもしれない。そこらへんのことも、5人に一人がリーダーシップを発揮すれば、あうんの呼吸で行動につながるだろう。一人、気張って人前でありがたいお話をすることだけがリーダーではないわけだ。
しかし、多くの人は、それじゃあどうすれば5人に一人がリーダーの社会に変えられるのかと思うだろう。頭では分かっても、現実としては難しい。自分ひとりでは、どうすることもできない。COとはそういうことを具体的に考え、行動を取る、そういうことなんです。所詮、5人に一人がリーダーの社会なんてありえないといって、端から諦めてしまっていたら、可能性は0になる。それだけのこと。
COを学んだ人はみんなリーダーになるかというと、答えはYesだろう。それは、真の意味でのリーダーで人を率いるという古典的なリーダーではない。たくさんの人間がリーダーシップを発揮できるように土壌を整えることがCOで考えるところのリーダーの行動である。

Accountable for Accountability

近年日本でもよく耳にする「説明責任」。英語ではAccountabilityです。
説明責任と言う言葉は,多くの場合政府に向けて使われる。それは,政府は憲法に基づき行政をつかさどり,市民・国民の税金によって公務を行っているからである。つまり,日本という国家が存在し、さらに地方公共団体が国内に配置されていることで、僕らの生活には何かしら政府が介入するということである。
つまり、説明責任を求めるという行為は、そうした一国民、一市民、一生活者として当然の権利である。それをひっくり返せば、説明責任を求めないということは、権利の放棄と取られてもおかしくない。
アメリカでは、そうした説明責任を要求するアドボカシー専門の団体はたくさんあり、政府に対するWatch Dog(番犬or見張り役)として機能しています。イギリスではCompact Championという役割があり、行政とボランタリー団体との協働関係を見張るということです。行政オンブズマンのようなものかな。
というように、政府のAccountabilityを求めるうえで、市民は権利を行使する方法を様々な形で編み出しているわけです。つまり、市民は行政のAccountabilityを求めるためにもAccountableである必要があるということですね。「説明責任」ばかりを繰り返して、具体的に行政のAccountabilityを向上させるような仕組みを自発的に作らない限り、いつまで経っても真の意味でのAccountabilityというものは生まれないでしょう。
行政が「説明責任」を果たす事に対する「説明責任」は誰が果たすの?ということですね。
つまり、市民が「説明責任」という言葉を用いる際には、同時にその説明責任を問うだけの知識・情報を求められるということです。それも相当の専門知識が必要になるわけです。そのためには、アドボカシーの専門集団を組織化するような体制が必要でしょう。さらには、それを資金面で支援する民間(企業)との協力関係を築くことが重要になってきますし、さらに、そこに企業との癒着や談合などがないような仕組みづくりが必要となるわけです・・・。低信頼社会っていうのは大変ですね。果たしてこの流れは人類の文明の進歩に寄与しているのだろうか・・・。

A Rock Star

Take a risk and free your soul.
ロックスターの使いそうな文句だが,コミュニティ・オーガナイザーにも当てはまるんじゃないだろうか。
コミュニティ・オーガナイザーを含むソーシャルワーカーはクライエントのニーズにもとづいて行動をとる。これは基本中の基本だと思う。ここで言うところのニーズとはブラッドショーの言うところのNormative Needs, Relative Needs, Perceived Needs, Expressed Needsを含む。つまり,クライエントが求めているニーズだけではなくて, 専門職としてクライエントのニーズをアセスする必要があるわけである。そうして得たニーズにもとづき行動をとるわけだが,ここでネックとなるのは,ワーカーに降りかかる様々な社会的拘束や経済的,時間的,空間的限界である。例えば,今クライエントにとって必要なものが低価格の住居だとする,しかし,ワーカーが公営住宅に募集しても何年間も待たなくてはいけないという現状を知っているがために応募するに至らないとか,あまり無理なお願いをすると,行政の住宅問題を扱っている部署の職員との関係がこわれるとか,自分の所属している団体は住宅問題を専門に扱っていないとか,クライエントのニーズとはまったく関係ないところで障害を作ってしまうわけである。それと同時に,市場主義で成り立っている住宅事情を知っているがために,家賃の安い物件など無いし,それを探している時間も無ければ,労力も無い。と言うように,自分で限界を勝手に設定してしまうわけである。
こうした限界を築くことはオーガナイザーにとっては致命傷である。オーガナイザーは,現状の社会体系や,システムでは解決不可能な問題に対して,より広範囲で,時には政治的に,働きかけることで社会変革を促すわけである。そうした社会変革を促すことは,限界を設定しない志と,理想を描き出す想像力を要する。つまり,Take a risk and rock your soul.なわけである。リスクを負って,自分の心に準じた行動。つまり,ちょっと変人にならなくてはいけない。社会に円満している価値観からは変人と見える行為でも,クライエントの立場に立ったら理がかなっているかもしれない。オーガナイザーは,社会的な価値観も考慮したうえで,変人に成りすますことが重要である。それが,2月の寒空の下凍えながら,何百人の住民を巻き込んで,市庁舎の前で市長に向かって廉価な住宅の必要性を訴えることになっても,そこに正当性がある限り,そしてクライエントのニーズに準じている限り,まったくもって意味のある行為なわけだ。
今の日本にはもっとロックスターが必要な気がする。

徒然コメント

今回は、最近思っている事を、徒然なるままにしたためようと思います。

まず其の一。ソーシャルワークの倫理綱領と儒教の関係。
そもそもソーシャルワークの倫理綱領とは、葛藤の上に成り立っているものである。倫理とはそういったもの。その葛藤を理解して初めて、倫理綱領の意味がある。例えば、アメリカのソーシャルワーク教育でありがちな例として、こういうのがある。水面下での人種差別がまだまだ根強く、クライアントの殆どが低所得層の黒人の地域の施設で働く白人のワーカーは、自分の中に存在する人種差別の価値観とどのように付き合うか。また、所属している施設の理事はみんな白人の裕福層で、白人のシングルマザーと黒人のシングルマザーが施設を利用しようとしているときに、白人を優先するような価値観が当たり前のように成り立っていたらどうするか。ソーシャルワーカーとしては、誰でも平等に扱うことが大切だし、本来、人種差別を助長するような行為は許されない。しかし、その地域の当たり前の価値観として、黒人でシングルマザーの人はたくさんいて、白人でシングルマザーの人は少ないから、白人に対しては、何か特別な措置が必要かもしれないと、そのワーカーは感じるかもしれない。しかし、それは倫理綱領に反することになる。しかし、理事の意向もあり、やはり白人のクライアントを優先して、支援することになるかもしれない。
まぁ、こうした、日常の価値観と、ソーシャルワーカーとして倫理との葛藤というのは、結構当たり前の話で、大切なことは、この葛藤を無視せずに、理解するということ。これは、結構勇気と根気が要る。つまり、当たり前の価値観に疑問を投げかける必要がある。疑問を投げかけるにあたり、倫理綱領の存在が重要になってくるわけだ。というか、当たり前の価値観を疑問に感じることで初めて倫理綱領が機能するといえる。
そんな中、日本の社会には、その根底にたくさんの日本独自の価値観が存在していて、価値観の上に、暗黙のルールが山ほど存在する。それが、社会の規範を作り出しているわけで、この規範を無視したり、反抗していたら、とても日本の社会では生きていけない。こんな当たり前なことだからこそ、その日本独自の価値観が、ソーシャルワークの価値観(倫理)とバッティングすることは日常茶飯事のはずである。例えば、あるケースに関わっている関係機関の人が、自分よりも年配である為にソーシャルワーカーとしての価値基準も年配の人優先になる、なんてことは当たり前だと思う。職場での先輩・後輩関係が仕事上の決定事項に大きく影響を及ぼすことも多いと思う。こうした、日本独自の価値観とソーシャルワークの倫理との葛藤のようなものを研究している人が、一人もいないということが不思議に思う。
人権宣言を掲げている地方自治体は少なくないが、その職員がどこまで普段の生活の中で男女差別を容認しているか、外国人に対しての差別を持っているか。日本は、倫理綱領の概念を海外から借りてきて、作っているけれど、日本の社会に当てはめてつかえていなかったら、何の意味があるのだろうか。
まず、これが一つ目の徒然コメント。

其の二。日本のソーシャルワークにおける役割モデルの必要性。
これは、上で書いたことと多少なりとも重なると思うんだけど、日本のソーシャルワーカーと仕事をしてきて感じたことは、自己と仕事上の役割とを切り離すことができていないワーカーが多いように感じる。これは、感情的にならないとか、客観性を重要視するとか言うレベルの話ではない。べつに日本のソーシャルワーカーの文句を言いたいわけではなくて、一つのテクニックとしての役割モデルの重要性をおさえておきたい。
例えば、一つのクライアントに複数のワーカーが関わっているとする。自立を支援する上での鍵は、本人の気持ちの変化であるが、ソーシャルワーカーの付き合い方次第では、クライアントやその家族の心の変化やエンパワーメントの状態も大きく変わってくる。そこで、例えば二人のワーカーが、仕事に一生懸命なあまり、クライアントに対し、二人して自立を促し、プレッシャーをかけ続けたら、どうなるだろうか。または、二人していい顔して、「なかなか自立に踏み切ってくれないねぇ」と、顔を見合わせていたらどうだろうか。これは、ワーカー同士が、お互いの意見を尊重したり、先輩・後輩関係を重要視しすぎてしまうために、クライアントにとって最適と思われる接し方では無く、ワーカーたちにとって最も安全で、無難な接し方をしてしまうという、よく陥りやすい落とし穴だ。日本のワーカーを見ていると、このパターンにはまってしまう人が多いように感じる。
そこで、役割モデルを勧めたい。役割モデルとは、例えば、クライアントと接する前に、誰が交渉役で、誰がなだめ役で、誰が養護役で、誰が説得役かなど、面接時の役割を明確にしておくことが大切である。(子どもを叱るときの、お母さんとお父さんの役回りみたいなものね。)その役割を果たすことで、例えば、面接中に、一人のワーカーの意見をもう一人がわざと否定することで、クライアントの気持ちに変化を与えるなど、高度な面接技術を用いることができる。逆に、面接時に、みんながみんなお互いを気遣っていたら、突っ込んだ話に発展する前に、きっかけもつかめずに面接が終わってしまう。面接を行うとき、ワーカーはアクターである。自分(達)をどのようにクライアントの前に提示すると、新しい空気を送りこみ、心の変化や、考え方の変化を作り出せるのだろうか。それをプライオリティーにもってくれば、自然と自分の役割が見えてくるのではないだろうか。そういった意味で、ドラマセラピーなどの技法から学ぶことは多いと思う。

其の三。法と政治とお金にまつわる話。
COは法や政治やお金のオルタナティブと考えられる。
我々は法の下に平等であると定義されているものの、実際には、法の目が届かないところで多くの不平等が行われており、また、不平等な法律さえ存在する。そういった、不平等に対して、弱者は、政治力を使うか、お金を使うか、または、仲間を集めて、声を大きくして、不平等の是正に対して働きかけるかである。同じように、政治力の無いものは、法の力を使って言及するか、お金の力を使うか、または、人を組織化するかである。同じように、お金の無いものは、法の力を使うか、政治の力を使うか、または、人を組織化するか。
しかし、多くの場合、法と政治とお金は一握りの者が支配していて、その他大勢は、法や政治やお金の力に支配されている。そこで、COは、そうした力の無い者達が自分たちを組織することで手に入れることのできる、交渉権であり、力である。もちろん、そんなに単純な話ではないけれども、多くの場合この考え方は当てはまる。
そこで、アクティビストと呼ばれる人たちは、人を組織し、いたずらに法や政治や資本に対して反抗する。その先の答えを考える前に、まずは反抗する。そして、反抗すればするほど、法や政治やお金の力を思い知らされることになる。
例えば、あまり法にこだわりすぎると足元をすくわれてしまうが、不平等であると思われる法に対して、何が、どのように不平等であり、それに対してどのような法の改正を行えばよいのかを明確にしたうえで、人を組織化し、交渉すれば、より効果的な結果を導き出すことができるのではないだろうか。それは、政治や資本に対しても同じことが当てはまる。
コミュニティ・オーガナイザーは住民参加を促し、人の組織化をより民主的なプロセスで行うことがその専売特許だが、さらに、法、政治、財政の理解を深めることで、より効果的なCOが展開できるのではないだろうか。

以上、徒然なるままに好き勝手書いてみました。

Dreams & Hopes

先日、東京で行われたSPSNの10周年記念シンポジウムに参加してきた。格差社会に関して、社会学を代表する三名の先生方がそれぞれの視点から発表を行い、討論者二名を用意するという、とても充実した内容であった。格差社会に関しては、以前も、CO道の中で書いていて、最終的には、社会教育の必要性や、 ローカルエコノミーの仕組みづくりなどに関して触れて終わったけれど、今回のシンポジウムでも、似たような話が出ていた。特に、若年失業者(ニートや引きこもり、フリーター)に対しては、就業訓練以前の、高校教育レベルから、専門的な教育を行う必要性があると、東京大学本田先生(『「ニート」って言うな!』の著者)は話されていた。僕、個人としては、これに関して賛成しかねる。専門的な教育の必要性よりも、社会学習の機会など、社会と触れ合う機会を幼い頃から持つということが、必要なのではないだろうか。僕の知人で、南アフリカ人の女性がいるんだけど、彼女のお父さんは、ダイヤモンド商をしていることもあって、自分の子ども達に、幼い頃から、何かを作らせたり、売ったり、サービスを考えたりさせて、ちょっとした商売をさせるらしい。そこで、彼女は妖精が好きだったので、妖精に関するグッズを集めたり、作ったりして、それを地元の人に売ったり、そのうちインターネットで売ったりする事をしていたという。結構なお金になって、自分でしっかりとお小遣いを稼いでいたらしい。つまり、アントレプレナーとして子どもを育ててるわけだね。まさに、幼い頃からの自立を促しているわけで、30代になっても親から自立していない日本の「子ども達」とは全くの対照です。
それはさておき、今回のシンポジウムに出て感じたことは、SPSNというグループは社会政策に関して議論することを目的としているのだけれど、やはり、政策の議論だけでは、何だか、根本的な部分が欠けているような気がした。それは、高校から専門的な訓練を行うという提案を一つ取ってみても感じられるんだけどね。
例えば、今回の議論の枠組みとして、ポスト工業化時代の国家財政があり、北欧のような福祉国家を築くことができなかった税制が指摘され、若者や、女性、ホームレスなどに対する、社会政策の遅れが取り上げられていた。そういった話を聞きながら、アメリカの事をちょっと考えてみた。特にニューヨークでは世界中から集まってきた移民が溢れかえり、不法滞在や不法就労も当たり前、社会保障を受けられない者への人道的な対応を余儀なくされている。しかし、そんな過酷な状況におかれていても、夢や希望をもって暮らしている人が多く存在し、人生の楽しみ方を知っている人が多いような気がする。その理由は、ソーシャルワークの援助技術が進んでいるというような問題ではなくて、一定の価値観を共有しているコミュニティから生まれるバイタリティのようなものからくるのではないだろうか。経済的に発展している状態にあるということも、もちろん大切な要素ではあるが、ある程度の経済・産業的インフラの基盤が整っていることは、日本にしても同じなわけで、あとは、そのインフラをどのように住民が主体的に利用できるかが鍵となる。その主体性の根源が「夢」や「希望」ではないだろうか。
僕の南アフリカの友人の話に戻ると、南アフリカでは、小学生の女の子がちょっとした商売をしようと思ったら、それを可能とするインフラが整備されているわけで、それが、第一の条件となる。次に、それを行うために、その女の子が主体性を持って取り組むバイタリティのようなものが必要になるけど、それは、女の子が大好きな妖精のアイテムを取り扱うということで条件をクリアする。つまり、女の子は自分の好きな妖精のアイテムをより多くの人に持って欲しいという夢を持って商売を始める。しかし、商売ごとは必ずしもうまくいかないものである。それは、周りの人々が妖精のアイテムに興味を持たないかもしれないからである。このことは、市場を理解する上では、とても大切な教訓である。自分の夢をかなえるためには、そしてその見返りとしての収入(お小遣い)を得るためには、他の人が求めるものを取り扱う必要がある。そこで、より現実的に夢をかなえるために、女の子は、マーケット調査をしたり、市場を広げたり、より希少性のある商品を選んだりと、試行錯誤するわけで、それこそが、社会教育なのである。
こうした、社会教育の場所は、商売ごとに限らず、ボランティアや、地域での活動を含めて社会に溢れている。あとは、それをどのように利用するかであり、その利用のためのハードルをクリアするかである。
人が夢を持つためには、自分の能力や価値観を認めてくれる人の存在が欠かせない。以前、CO道の中で団塊の世代は、自分たちの子どもの能力や価値観を認めない傾向にあるといった事を書いた。本来親がすることが望ましいと思うことだが、本人の能力や価値観を認めることこそソーシャルワーカーに求められるクオリティなのではないだろうか。その人が、自分の意思をもって、自立して生きていく上で、その根源となるバイタリティを引き出す手助けをすることは、社会の制度や枠組みを作り出すことと同じくらい重要なことのような気がする。いや、むしろ、人の心が伴わない社会政策など、砂上の楼閣と言ってしまいたい。人のこころや、生き方に関わることは、本当に困難である。だからと言って、それを客観的に現象として捉え、対策を考えるのではなく、どのようにして、そのこころや生き方を生かして社会に反映できるか。それがCO道の考え方である。
さらに余談だが、先日世間を騒がせた欽ちゃん球団の萩本欽一さんは夢についてこんな事を言っていた。「夢をかなえるためにはたくさんの人を巻き込んで、たくさんの人に迷惑をかけないといけない」。全くそのとおりだ。自分の夢に向かって走る事を恐れて、他人への迷惑ばかり考えて、迷惑の責任を取るガッツも無くては、人生何も達成できない。どんどん、人を巻き込んで、失敗しても、それを理解してもらえるように、心から人と付き合っていかないと。夢とはそんなものじゃないかな。

Border-less Society

先日、日本社会福祉学会が開催した第2回政策理論フォーラムに参加してきた。第一回目についても、このブログで書いたけど、今回は、地方分権化の政策形成に社会福祉は寄与できるかと言うテーマでシンポジウムが行われた。札幌で行われたと言うこともあり、100人ちょっとの参加であったが、 その内容はとても濃いものであった。
政策の視点、財政の視点での発表、そして、実践を行ってきた元鷹巣町町長を含めた実践論者の発表と、後戻り無しのシンポジウムであった。学者は、比較的自分の立場を守るためにも、あそこまで幅広い視点を盛り込んだシンポジウムにはなかなか参加しないものだと思うが、それぞれが、それぞれの経験と専門性から、主義主張を行い、最終的には「研究者がいかに政策形成に寄与できるか」や「社会福祉がいかに政策形成に関与できるか」といった部分にまで到達した。本来は、そういった議論から始まってもいいと思う。
さて、今回は、フォーラムの内容ではなくて、別のことについて書きたいと思う。今回の旅行中、札幌市内を観光する時間が多少あったので、有名な赤レンガ庁舎(旧北海道庁)へ行ってきた。なかなか立派なこの建物の中には、北方領土に関する資料館もあった。ここで学んだことは、終戦後、当時のソビエト軍が北方領土を占領したわけだけど、占領下においても、多くの日本人がそこに暮らしていたと言うことだった。ある意味、誰が国を占領しようと、奴隷のように強制労働を強いられたり、何かしらの自由が剥奪されない限りは、健全な経済活動を行うことで、基本的には生活は変わらないと思う。しかし、ソビエトが北方領土占領後に行ったことは、ロシア語を公用語とし、日本の貨幣の使用を禁止した。つまり、文化的な抑圧を行ったと言うことだ。これは大きい。
今回のコラムで僕が伝えたいことは、「北方領土返還!」といった政治的なメッセージではない。大切なことは、個人の視点から北方領土の占領を考えることだと思う。個人に対しての直接の影響力を考えたとき、マクロレベルでどの国が戦争に勝ったとか、負けたと言うことは、そこまで大きくはないと思う。もちろん、国の代表を精神的な支えとしてきたものにとって、その代表者を失うことは精神的なダメージとなることは理解できる。しかし、例え敗戦であったとしても、戦時中より、終戦後のほうが平穏な暮らしを得たというケースがほとんどの戦争に当てはまるのではないだろうか。だとしたら、何故ゆえに生死をかけて戦争を行う必要があるのか。それは、文化や習慣という、自己を形成している重要な要素を奪うという暴力的な行為に対しての反発から来るものと思われる。人間の全体性を考えたときに、言語や、習慣、信仰、風習などの生活のバックボーンを失うということは、自己を否定されるも同然であり、例え衣食住といった生活の保障があっても、自己の存在理由という面での存在否定になるだろう。
そうした、自己の存在を否定するような環境は、戦争や植民地化に限らず、60年以上戦争を経験していない日本においても多く見られるのではないだろうか。例えば、会社が倒産したため、自己破産申請を行い、離婚を余儀なくされ、家族と離れてホームレスとなった人や、受験戦争について行くことができず、学校を中退し、引きこもりとして暮らしている若者たち、または、社会のレールから飛び出す勇気を持てずに、自己の価値観と社会の価値観の違いに葛藤を持ちながら、自殺という選択肢を選んだ人たち、さらに付け加えると、自殺という選択肢を選ぶ事はしないものの、自分の存在理由を肯定することができずに、葛藤を抱え、精神疾患を患うもの。戦争や、暴力的侵略の被害者ではないものの、社会的・精神的な被害者である、こうした人々は、社会の難民であり、心の難民である。
近年ヨーロッパでは、こうした状況にある人々に対して、Social Exclusion(社会的排除)という言葉を用いて状況を説明し、Social Inclusion(社会的包含)という政策目標を掲げている。若年失業者などもその対象である。こうした政策的な言葉を用いることで、問題の社会化は可能であるが、逆に、問題の脱人間化が進んでしまうと思う。個人の責任を問わない脱個人化とは違い、脱人間化は、一人ひとりのポテンシャルを引き伸ばすことで問題に対峙するというスタンスが失われることにある。つまり、社会的排除などという言葉を用い、社会的な問題を明確にすることで、逆に個人個人がそれぞれに抱えている問題をぼやかしてしまう。
コミュニティ・オーガナイザーの対象は社会であり、コミュニティであり、集団である。しかし、それは、その社会や、コミュニティや、集団における「個人」に目を向けないということではない。個人の集合体として成り立っている、社会、コミュニティ、集団を変えるのは、マクロな政策だけでは無く、個人の考えや、気持ち、態度、モラル、規範、習慣、信条、信仰などであり、有機的な個人の変化をマクロの変化に結びつけることがコミュニティ・オーガナイザーの役割である。本当に、それだけの話。それが、難しい。
戦争や、侵攻による力の植民地化・奴隷化と同じ、いやそれ以上に、社会の仕組みや政策によって引き起こされる社会的・精神的植民地化・奴隷化は人々の人生に影響を与える。そして、社会を根っこから腐敗させる。オーガナイザーはそうした土壌に鍬を入れて、耕し、社会にとって最善の土壌を用意することをやっていかなくてはならない。この、鍬を入れるのが大変なんだけどね。

Public Assistance

先日,初めて,生活保護の申請に大阪府A市の福祉総務課窓口へ行った。社会貢献事業の仕事を始めてから,こうしたケースワーク的な内容の仕事が多くて,大変勉強になる。ケースワークを通して,より具体的なニーズアセスメントが可能になると思う。ただ、その具体的な部分にばっかり注目していると、視野に全体性がなくなってしまうから難しいものだ。
さて,生活保護の話に戻るけど,検索エンジンで「生活保護」と検索して,上位に引っかかるホームページの中に立命館大学立岩真也先生のページがある。このページでは日本の生活保護受給率の低さを指摘し,生活保護受給の必要がある(特に障害を抱えている)若者に対し,生活保護申請を勧める内容の文章がある。それは,生活保護制度は日本国家が憲法第25条が規定する理念に基づいて,国民の最低限度の生活を保障するという考えからくる。
世界的な傾向としては,福祉国家が機能しなくなりつつあり,新自由主義的な経済成長を基盤とした脱福祉国家化が進んでいて,アメリカでは,1996年のSocial Welfare Reform以降WorkfareやWelfare to Workと言った,就労を通して公的扶助からの脱却を助長するような政策が取られてきている。こうしたなか,日本でも三位一体の改革を通して,地方分権化が進んでいるが,この改革の焦点は財政再編であり,つまり社会保障費の削減と言うことになる。細かい政策情勢なんかは,ここで書くつもりは無いけれども,何よりも一番大きい編成は生活保護という,国家が憲法によって保障してきた国民の最低限度の生活を,地方公共団体が代わりに責任を持って保障する(させられる?)に至ったことにある。立命館大学の山本隆先生の言葉を借りれば,ナショナルミニマムがリジョナルミニマム,またはローカルミニマムになったと言うこと。つまり,地域間格差を認めると言うことだね。これは前回も話していた,格差社会の構造を一層強めるように働くでしょう。
さて,ちょっと政策の話をしてしまいましたが,今回僕が触れたいことは,生活保護申請における水際作戦の話。行政の業務では法や制度で決められた事業をマニュアルどおりに遂行することを求められるわけで,つまりは,融通が利かないことを前提とした仕組みになっている。もし,行政の業務に融通を利かせる必要があるなら,融通の利いた法が必要になる。法とは基本的に,社会の仕組み,人間の生活・利害関係に関連した内容となっているんだけど(どの法律も,桜の咲く季節や,水の沸点を決めるようなものでは無い),社会や人間って物は多様であり,またコンスタントに変化するものであるため,そもそも規範を作ること事態が困難なわけだ。とは言っても,そこには,ある程度の秩序が必要なわけで,夜警国家に始まり,社会の秩序調整のために国家,つまりは法の役割が強化されて,近代国家が発展してきた経緯がある。
そのような国家が,国民とのコンタクトを行ううえで,水際作戦が必要となる。水際作戦とは行政の職員が,行政窓口で法の融通をコントロールする仕組みである。それが,生活保護の申請,つまり,「国民の最低限度の生活の保障」となると,これは,相当融通の利いた判断を必要とされる。いや,本来は融通の利いた判断をしてはいけないものだけれど,あまりにも明確な判断基準を設けることで,生活保護制度が,生活困窮や何かしらの事情で生活保護を必要としたものへのセーフティネットよりも,フリーライダーを後押しするための選択肢としての要素が強まってしまう。つまり,生活保護制度は,水際作戦によって申請者にフィルターをかけ,インフォーマルな調整を行うことで,セーフティネットとして成り立つと考えられる。もっと福祉っぽく言ってしまえば,means-testを用いた選別を「最低限度の生活」と言うあいまいな概念の下行う必要がある。
で,具体的に何が水際作戦かと言うと,申請者や受給資格者に対して,申請をより困難にするべく数々の質問を行い,あらさがし(と言うよりも,この場合,いいとこ探し)をするわけである。結果的に,何度も窓口に行って,追い返されて,申請をあきらめると言うパターンに追い込むわけである。予断だけれど,最近僕が発見した水際作戦の中でも,極悪だと感じたものは,パソコンのアンチウィルスソフトのカスタマーサービスである。日本のパソコンユーザーがウィルスソフト業界のいい顧客であることは消費者教育のレベルの低さを露呈している格好だが,それをいいことに,何もわからずに,とりあえずアンチウィルスソフトをオンラインで購入してしまうユーザーが多いと思う。そして,何か問題が生じても,カスタマーサービスに問い合わせるには,有料の電話サービスか,ネット上のUnaccountableなフォームメールのみという始末。あれは,ひどい水際作戦だった。
こうした,水際作戦のinjusticeに対して,立岩先生は,どんどん生活保護申請をしなさいとおっしゃってるわけだ。まぁ,ここでは,生活保護制度自体の話や,利用の肯定・否定といった話はしません。ただ,コミュニティ・オーガナイザーの視点で一言書かせてもらえるなら,水際作戦に対して乱暴に法の定義を持ち出したり,役場の職員に対して暴力的な態度を取ることはお勧めできません。なぜなら,上でも述べたとおり,日本では生活保護制度を機能させるためには水際作戦がどうしても必要で,その制度に対しての不満を,末端の職員にぶつけても焼け石に水だからですね。そんでもって,もし,政府が水際作戦をやめたら,国の予算における社会保障費が激増し,瞬く間に世界でもトップレベルの「不健康な国家」となる。かといって,国家のために生活保護申請を自粛するべきとは思わない。大切なことは,窓口の職員と申請者とのコミュニケーションを円滑にして,Accountableな関係を築くことである。生活保護申請窓口の職員は,相手の目を見て話す事をしない。「Yes」とも「No」とも言わず,申請者が諦めるように話を進める。一方で,申請者は水際作戦に必死に抵抗するために「権利」という盾を武器に,横柄で傲慢な態度を取りがちである。つまり,双方が,信頼関係を築くと言う立場に立たずに,コミュニケーションを始めてしまっているところに問題の所在があると思う。申請者は,職員を信じ,職員がどんなに面倒な条件を付けてきても,可能な限り対応して,保護申請の正当性を証明して欲しいと思う。申請を却下されることを恐れずに,「却下」と言う市の判断を尊重し,同時に「却下」と判断されても生活が成り立たないのであれば,その旨を伝えるために,何度でも窓口に行く,そして,にっちもさっちも行かない状況を理解してもらう。「保護を受けて当たり前」「だから、何とかして拒む」という不健全な会話をdialogueに切り替える。そのファシリテーションを行うことも,オーガナイザーの重要な役割であろう。
国家が税制を用いて,国民の生活保障を行うという枠組みは,2006年の現在もとりあえずは機能している。この仕組みが,長く続くとは思えないが,社会制度の円滑化を進め,市民社会の発展を促し,政府と市民がAccountableなガバナンスを確立するためにも,生活保護制度を,市民が責任を持って使いこなすことは,重要なプロセスであると思う。生活保護を自分たちの制度と考え,自分たちでmanageすることが,今日の壊滅状態である生活保護制度を再び機能させる第一歩なのではないだろうか。

Social Bipolarization

Economic Splitとも言えるのかな。最近日本で流行の格差社会。世界中の殆どの国では当たり前ですね。一応、たてまえとしては共産党政権である中国なんかは、世界一の格差社会かもしれないね。まぁ、地球がある意味最大の格差社会なんだけど、今日の国家形成の仕組み上、国家のサイズが大きければ大きいほど格差社会の度合いも大きくなることは自然なながれなわけで、あれだけの国土と人口を抱えていては、共産主義に希望を見出さざるを得なかったことは、誰しも納得いくことだと思うんだけどね。でも、ここまで経済的な競争力の強弱が、国民のQuality of Lifeに影響を与えるような国際状況では、たとえ国内に格差社会を築こうとも、国際競争に負けないような国家を築くことが、国の急務であって、国民も納得せざるを得ない風潮にある。まぁ,それが新・自由主義といわれてるけど。
だから、アメリカの若者なんかは、競争社会の根源として、世界銀行IMFに対して激しいプロテスト運動を続けているわけだけど、なかなか日本の若者で、そこまで世界的な経済状況に関して熱い思いを抱いている人は少ないようである。勉強不足ではないと思うんだよね。どちらかと言うと、無関心なんだろう。無関心だから、気がついたら、自分たちは「負け組み」のレッテルを貼られて、社会的に排除されがちだったりして。
ちなみに、大阪府は日本でも失業率が高く、生活保護世帯率の高さは日本トップクラスであることは周知の事実だと思うけど、その大阪府で、社会貢献事業を行っていると、そうした、格差社会の問題が顕著に表れていると思う。こうした格差社会の現実と毎日向き合っていると,個人単位での問題解決は焼け石に水のように感じてしまう。もう,そういう社会構造になってきているんだね。日本の福祉国家の崩壊というわけだ。(まぁ,そもそも福祉国家があったのかという議論はおいておいて。)
ちなみに,格差社会に対しての国家対策として、1960年代アメリカの,ジョンソン政権のにおける,「貧困への戦争(War on Poverty)」が挙げられると思う。Economic Opportunity Actに始まり、この時期のアメリカの貧困対策(人種差別対策でもあった)政策は,貧困地区における住民参加型の,地域の開発,つまり,住民が主体となった住宅や商業の開発というコミュニティ・デベロップメントの礎を築いたわけだ。これが,時代を経るにつれ,民間企業や金融機関とのパートナーシップも強化され,ひとつの貧困地区における,地域開発モデルとして確立してきた。こうした地域開発アプローチに対して,賛否両論ある。特に,近年では,規制緩和と民営化の流れのなか,貧困地区の地域開発の中心となってきたCDCがその力を弱めつつある。というよりも,そもそも経済的な競争力を売りとしていないために,民間企業との競争をさせられたら,元も子もないわけである。そういった意味では,政府に対してのアドボカシー機能の欠如は致命的なわけで,競争化の流れの中,小規模のビジネスが生き残っていくことなどは,困難であることは,近年日本中の商店街がなくなりつつあることを見れば一目瞭然で,CDCのような地域開発を目的とした非営利組織や,小規模のビジネスをバックアップするような連合体の形成が必要なのかもしれない。というか,アメリカの場合,連合体は存在するが,新自由主義の下,その発言力はすっかり失われてしまっているように思える。政府がAccountableと思っていると,こうして足元をすくわれてしまうわけだね。
一方で、貧困地区の地域開発が政府主導で行われ、連邦政府の予算を投入したことにより、新たな住民参加のあり方が確立したと言う見方もある。しかし、それが万能薬ではないことは今日のCDCの現状がものがたっている。
こう考えると、地域開発におけるオーガナイザーの役割としては,住民参加の仕組み作りと,政府とのつなぎ以上に,経済開発における,ローカル・エコノミーの仕組み作りや,さらには,住民教育などがカギとなってくるように思える。
まだまだ,勉強し甲斐のあるテーマだね。

ソーシャル・キャピタル研究の意義

さて、今回はちょっとかたっくるしい話にしようかな。
僕が、これから最低3年間、頭がはげる思いで研究するテーマが「地域福祉実践におけるソーシャル・キャピタルの重要性」と言うことなんだけど、うーん、、、やっぱりここで書くにはかた過ぎるかなぁ。
この研究を行おうと思った理由は、僕のコミュニティ・オーガナイザーとしての経験から来ていて、そもそも、僕がニューヨークで携わっていたINCOプロジェクトと言うものがあるんだけど、これは、ニューヨーク市内で15人のコミュニティ・オーガナイザーを雇い、包括的・協力的にCOを実践することで、市の政策に直接的なインパクトを生み出すというアドボカシー活動だったんだよね。このプログラムの資金は銀行と基金から出ていて、毎年各団体に対して5万ドル(約550万円)助成されると言うものだった。それで、この助成金を毎年ちゃんともらってプログラムを遂行する上で、半年毎に活動を評価されていたんだけど、その評価のしかたが全然気に入らなかったんだよね。
コミュニティを作り出して、コミュニティのメンバーを組織する上で、オーガナイザーはいろんなことに気を使わなくてはいけないと思う。例えば、活動に参加しているメンバーに対しての評価や、励ましの言葉、時にはお願いをすることで、より強い関係が築けたり。また、いざと言うときに、政治的な活動をするためには、日頃から、コミュニティ・メンバーが自分たちがコミュニティの住人であると言う意識を持たなくてはいけない。そのためには、メンバーが所属する母体(実際の組織ではなく共通のアイデンティティ)のようなものを用意することも、その活動の一つとなる。こうした、細かい配慮の積み重ねが、効果的なCOを生み出すと思う。そんでもって、それを別の言葉で表すと「ソーシャル・キャピタル」となるわけだ。「ソーシャル・キャピタル」は信頼、規範、ネットワークからなると言われるけれども、要は、お互いがコミュニティのメンバーであると言う意識のことだと思う。この意識を生み出すには、結構な努力と、作戦と、苦労が伴う。もちろん喜びも、同じくらいね。
僕の研究は、この「ソーシャル・キャピタル」を日本の地域福祉実践の中でどれくらい増殖することができるかというもので、そのための方法を考えると言うものです。
しかし、何でこの研究をするのか。ただ単に、僕がニューヨークで憤りを感じたからではない。
ここで重要になってくるコンセプトは「市民社会」だと思う。
市民社会という概念は古代ギリシャから始まり、西洋を中心に発展してきたコンセプトであって、民主主義の類義と理解している。今日では、政府でもなく、企業でもない第三の存在としてある意味「控除概念」として扱われている感があるが、本来は、国家に対して、個人の集合体として「社会」を形成し「自治」という「自由」を有すると共に「責任」も兼ね備えるという近代民主主義国家を説明する上では必要不可欠な概念である。
封建的な国家が成熟するのではなく、あくまでも民主的な、市民の意識の高さをもって発展する参加型の国家をして初めて可能となる真の民主化。理想論と思われるかもしれないが、その理想を追い求めるために僕の研究があると考える。
個人がAutonomyを持ち、平等な政治的権利を有する社会で、その「個」の集合体がどのように作用することで民主主義がより理想に近づくのか。地域福祉という概念の下、ソーシャルワーカーはどのようにそのプロセスを促進できるのか。熟考する必要がある。そして、可能な限り科学的なルールに基づき実証する必要がある。そういった意味での、この研究である。
今回のブログは、かなり独りよがりなものになってしまったなぁ。次回は、もう少し読者フレンドリーなものを!

福祉マネジメント再考

日本に帰ってきて、民営化の流れがあまりにも強いことに驚かされる。これは福祉のフィールドに限った話ではないが、福祉のフィールドでは世間があまり注目していないうちに民営化がどんどん進んでいる。福祉における民営化というと、とかくNPOが挙げられることが多いが、実際には株式会社等の営利会社がその殆どである。居酒屋で有名な「和民」が福祉業界に進出したことは有名だと思うが、福祉の業界で利益を上げるということはなかなか容易ではないんじゃないかと思う。日本の社会もこれからは、貧富の差が広がり、福祉サービスにも質の高低が出てくると思われるが、まだまだ至上主義的要素は薄く、家族では面倒見切れなくなった個人(認知症高齢者や障害者など)に対して、福祉サービスを利用するというように、あくまでもインフォーマル・ケアを補うものとして捉えられている。
そういった中、これから福祉のビジネスを成り立たせるためには、特に裕福層に対して質の高いサービスを提供することが経営者の考えるところと思われる。1970年代から続いてきた「措置型」の福祉国家的福祉では、財産の有無に関わらず、国の保障の下、「平均的」な事業を行うことで福祉ニーズを埋めてきたが、近年では社会福祉基礎構造改革により、新たにマネジメント能力が求められるようになってきている。
以上のような流れの中、最近ではコミュニティビジネスと言う考え方も注目を集めている。北欧ではソーシャルエンタープライズなどと呼ばれているようだが、これは、地域密着型の社会サービス提供体で、「社会的な目的を持ち、民間の価値観の上に存在」する。何だか、ややこしい話だが、これが何でややこしいかと言うと、我々の多くは「政府」「企業」「民間」といった縦割りの構造が骨までしみこんでしまって、その枠組み以外では物事が考えられなくなってしまっているからだと思う。結局、コミュニティビジネスって言うのは小地域で需要と供給をマッチする仕組みづくりということだと思う。小地域で経営を行うときに、極端な営利目的では経営は成り立たないわけで、そこには地域における人間関係や、環境に対する配慮など、モンスタービジネスが行ってきたような利己的かつ極端な営利目的の経営は成功しないと言うことである。なかなかそう単純なものであるとは思えないけどね。
必要原則に基づいた、コミュニティビジネス的なサービス提供は需要と供給のバランスが整っている間はいいが、貧富の格差が広がることで、必要が満たされない事例が増えることが予測される。そうなったときに、コミュニティビジネスはどういった動きに出るのだろうか。
・「公益性」という価値観の下、あえて貧困層のニーズを補うことで経営を成り立たせることができるのか。
・「社会正義の専門性」を持って、経営困難であれ、社会の不平等に対して働きかけるのか?それは民間の価値観から成り立つのか?
・事業を進める上での「事業団体・組織の民主制」はどのように保たれるのか?
多くのコミュニティビジネスは、発起人のユートピア思想を伴ったエリート的なエゴによって成り立っていることが多い。そんでもって、そのエゴのおかげで、社会変革を導くような一大貧困層救済プロジェクトが成り立つことも大いにありえるし、長期に渡りコミュニティの安定を築くような事業に発展してきた例もある。しかし、1人のカリスマができることは限られているので、大切なことは「ビジョン」の共有であり、事業運営の方向性を振り返り、状況に応じて変化することができるメカニズムであると思われる。
それって、結局COの理念なんじゃないかなぁ。コミュニティビジネスって言う名前ばかりが先行して、気軽に始められるビジネスみたいにNPOや1円企業がじゃんじゃか生まれてるけど、その中にどこまでCOの理念が入っているのだろうか。どうすれば、COの理念がコミュニティビジネスに浸透するかを真剣に考えなくてはいけないなぁ。ずうずうしいかなぁ。