さてと、久しぶりの投稿です。しかも今回は、約2年ぶりに滞在しているNYから。
今回滞在中の目的の一つは、以前僕がNYでオーガナイザーとして仕事をしていた時に所属していたINCOというプロジェクトの同僚約15名に対してヒアリング調査をすることである。今のところ順調で、たくさんの貴重な意見を聞くことができている。以前勤務していた時は、共通のプロジェクトに取り組みながらも、お互いのバックグラウンドやパーソナリティの部分にまでそれほど干渉したことはなかったので、今回の調査を通して改めてお互いに関する新たな発見があった。
INCOの何よりも特徴的なことは、コミュニティ・オーガナイザーを雇うための資金をNY市内の非営利団体に提供しているところにある。これは、今日ではなかなかありえないことであるし、過去にもINCOほど大きな規模でオーガナイザーの人件費を確保したプロジェクトはなかったのではないかと思う。そう、COのメッカであるアメリカでも、それが現実なんだね。
そこで、専門職として雇われてCOを専門的にこなすオーガナイザーについてちょっと考えてみた。
これまで、俗にコミュニティ・オーガナイザーといわれてきた人たちの仕事は、その100%がオーガナイジングというわけではなかった。例えば、ケースマネジメントをしながら、個別援助ではどうにもならない問題(たとえば貧困地区における住宅問題など)を抱え、よりマクロなアプローチを行う必要性を感じ、結果的に彼ら・彼女らの業務の中でCOの方法論を駆使することが一般的になったりといったようなケースだ。ほかにも、ボランティアとして活動しているうちに、活動のリーダーとなり、コミュニティ・オーガナイザーになったというケースもあるだろうし、非営利団体で一つのプログラムを統括するディレクターとして勤務していたが、オーガナイジングなしではプログラムの存続が不可能となり、当事者を組織化することでプログラムの存続をうったえるといったケースも考えることができる。もちろん、いずれにせよ当事者の声があって初めてそれぞれの活動が意味をもつようになる。
それでは、COを専門としたオーガナイザーを雇うことはどれほど意味のあることなのだろうか。オーガナイザーとは本来、必要に迫られ、ごく自然な営みの中で生まれる存在であるが、365日オーガナイジングだけをこなす雇われオーガナイザーとは果たして必要なのだろうか。そのオーガナイザーの存在が当事者主体の原則を濁すことにはならないのだろうか?
そんなことを考えながら、例えば僕が現在の日本でもっとも深刻な問題と思うニートについて考えてみた。ニートという言葉がどこまでを指して用いられるか再度検討する必要があるが、登校拒否や引きこもりという個別のケース以上に、子供の育て方が分からない、または子供とのコミュニケーションを図ることができない親の問題であったり、精神的な疾患の問題であったり、公的扶助の問題であったり、ニートといっても一言では語りきれないほどの大きな社会的な問題を内包している。
それでは、そのニートの問題に取り組むコミュニティ・オーガナイザーは必要であろうか?若者自立塾が全国にできているようにニートの若者支援の団体は全国でもたくさん立ち上がっている。それぞれ、ニーズに応じたプログラムを開発し、ニートの若者の社会復帰を支援する方法を開発している。当然、マクロレベルでの交渉もあり、メディアなどによる啓発活動、政府による緊急対策検討会などを通して国の補助を受けて行われるプログラムとして確立するにいたった。しかし、現状は経済的に余裕のある家庭しか利用できない状況であり、ニートの若者を抱えることで貧困の状況から抜け出すことができなくなっている家族などに対する支援は、まだまだできていない。これに関しては、行政も頭を悩ましているが、最近では生活保護事業の中の自立支援プログラムなどで対策が進んでいる。
本題に戻ると、こうしたニート支援団体にとってオーガナイザーは必要であろうか?なんとも言えない。なぜなら、まず第一にニートの問題に関して言うと、当事者および当事者の家族は何をしていいか分かっていないし、ニートの若者を抱える家族は問題の所存は自分たちにあると思っているからだ。全国で何百万人ものニートがいて、社会問題といわれていても当事者たちは個人の問題として考えている。それに応じて、ニート支援団体も、自分たちが今後どのような支援を展開するべきか明確なビジョンを提示しているようには見えない。中には、ビジョンを持った団体ももちろんあるが、全国レベルのアドボカシーへと発展するような流れは見えない。政府が全国のニート支援団体を若者自立塾としてまとめた功績は大きいと思うが、それらの団体の中から今後の明確なビジョンが生まれてきていないと思うし、僕が見る限り、これらの団体が自ら結束を強めているという動きもない。まぁ、僕が知らないだけで、いろいろな動きはあるのかもしれない。
当事者もどうしていいか分かっていないし、政府もどうしていいか分かっていない問題を、専門的に分析し、当事者の視点を持ちながら解決へ導く専門職がソーシャルワーカーなわけだが、ここでは、仮に有能なソーシャルワーカーが存在し、支援団体がそれなりのビジョンを持ち動き始めていることとして話をすすめよう。
まず、全国レベルのアドボカシー活動を展開することになると、まず当事者のニーズを把握する仕組みが必要とされる。そして、そのニーズを他の支援団体と共有することが重要になり、そのニーズを元に場合によっては新たな事業へと発展することもあるだろうし、マクロな政策提言という形でアドボカシー活動へと発展するかもしれない。こうした一連の流れを誰かが指揮しなくてはいけない。
ここで、当然支援団体の中のリーダー格の存在が思い当たると思う。当然、そのリーダー格の人は全国的な動きを誘導する必要があるが、実際に当事者の声を吸い上げることは不可能だろう。つまり、当事者のニーズと全国的なアドボカシー活動の間の血液循環を助ける存在が必要になってくる。それがコミュニティ・オーガナイザーの存在であろう。
よく、アドボカシー活動の理想は、当事者がみずからを組織し、当事者の代表が政策提言をするといったイメージが存在する。否定はしないが、物事はもう少し複雑である。
こういう例えをするとわかりやすいかもしれない。
たとえば、ある団体が自分たちの活動を世間に知らせるためにホームページを作ることにしたが、ホームページを作るノウハウを持った職員は一人もいなかった。そこで、ウェブデザイナーという、常に彼らの活動を世間に対して発信する専門職を雇うことになった。このウェブデザイナーは、ホームページ上で語られる活動を担当しているわけでもなければ、当事者とかかわりがあるわけでもない。彼・彼女の役割は、あくまでも専門知識を使って団体の活動を世間に知らせることである。この団体にとって、このウェブデザイナーがいるといないとでは、大きな違いが生まれる。このウェブデザイナーが当事者である必要性はなく、重要なことは、情報が発信されるということである。
同様のことが、コミュニティ・オーガナイザーにも言えると思う。当事者の声を拾い上げ、社会的な枠組みで分析することに長け、プログラムの開発や、政策的な提言といったアドボカシー活動へ導く能力を有する専門家であるコミュニティ・オーガナイザーが当事者の代表である必要はない。大切なことは、仕事も最も効果的にこなすことのできる存在であるということだからだ。
話がだいぶ長くなったが、今回多くのフルタイムで働くコミュニティ・オーガナイザーに対する取材をしながらそんなことを感じた。