シリーズ『実践の糧』vol.82

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第282号,2025年10月.

実践の糧」vol. 82

室田信一(むろた しんいち) 

 2025年9月、アメリカ保守派のインフルエンサーであるチャーリー・カーク氏が殺害された。このニュースは日本でも報道されたが、アメリカでの報道は相当加熱していたらしい。私は、この報道が出るまでカーク氏のことはあまり知らなかった。保守派の中では熱狂的に支持されていたカーク氏だったが、その渦の外には彼の情報がそれほど流れてこなかった。そこがSNS時代のメディアの特徴である。

 改めて彼の動画を見直すと、反DEIであったり、大学からリベラルを追い出す動きだったり、排外主義だったり、LGBTQに対する保守的な態度だったり、トランプ政権が掲げる政策の震源地なのではないかと思ってしまうほどである。カーク氏のような言論がSNSを中心に大量に流布され、そこに陰謀論も加わり、今日的なアメリカの保守的な言論が生み出されているという、遅ればせながら、そんな様相が確認できた。

 今までこの連載で政治的な話はしてこなかったが、私のようなものでも、政治的な立場を問われることがたまにある。政治的な立場を表面することはアメリカでは珍しくないが、日本ではあまり一般的ではない。私自身は自分の政治的なスタンスを隠しているわけではなく、リベラルであると自認している。しかし、イデオロギーを強く示すというよりも、私が19歳から27歳まで過ごしたアメリカでの生活が、あまりにもリベラルな空気の中で成り立っていたため、呼吸をするようにリベラルな思考に染まっていると思う。

 私が住んでいたニューヨーク市は、自由な言論に溢れていて、毎週のように市内のどこかで大小様々なデモが開催されていた。ニューヨーク市は人種の坩堝であるが、その中でも私が住んでいた地域は住民の過半数が移民であり、多国籍な人たちで構成されていた。私がソーシャルワークを学んだ大学院や私が働いていた現場ではセクシャルマイノリティの人が多く、私のルームメイトもゲイだった。

 そのような環境で20代の大半を過ごしたため、リベラルな価値観が当たり前になっているが、イデオロギーとしてリベラルを支持するというよりも、自分の身近な生活の中にリベラルな振る舞いが溶け込んでいるという感覚のほうが近いと思う。なので、保守派の人たちがリベラルを批判しても、うーん、なかなか理解できないのかもしれないなぁ、と思ってしまう。

 反対に、私は保守王国であるテキサス州に何度か行ったことがあるが、そこでの経験は貴重なものだった。軍事産業が主力の街に行った時、夜の市営グラウンドに足を運んだ。美しく整備され、電気が灯された芝生の野球場で、何組かの家族が集まって野球を楽しんでいた。数十ドルでそのグラウンドを貸し切れるという。ニューヨークでは考えられない光景である。テキサスの住民の立場に立ってみると、真面目に働いて、家族を養って、そこそこの給料をもらって暮らしている。そうした生活を守ってくれる保守的な政治家を支持することは当たり前だと思った。彼らからすると、ドラッグや売春が日常茶飯事の街で、不法滞在者を含む移民の支援や権利擁護をしていた私は非国民として映ったかもしれない(そもそもアメリカ国民ではないのだが)。

 近年、日本でも保守とリベラルの分断が取り沙汰されることがある。地域の実践に関わる者は、そうした分断から目を背けてはいけないと思う。むしろ、自分の立場をしっかり表明し、なぜその立場を支持するのか、その背景となる体験や価値観を含めて相手に伝えることが重要になるだろう。イデオロギーではなく、どのような生活を大切にしたいのかを伝えることが、相互理解へのカギとなるだろう。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.81

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第281号,2025年8月.

実践の糧」vol. 81

室田信一(むろた しんいち) 

 以前も少し書いたが、現在、私は東京都練馬区で空き家となった実家を地域の居場所として使ってもらうように準備を進めている。私の実家は呉服屋を営んでいたため、2階建ての建物の1階部分は広い空間になっていて、大きな改修をしなくても、地域のちょっとした居場所として使ってもらえる。

 そこで、昨年(2024年)の10月から居場所に関心をもっていただける地域の関係者の人に集まっていただき、定期的に会議をしながら準備を進めてきた。私はその居場所から車で50分ほど離れたところに住んでいるため、頻繁に立ち寄ることはできない。したがって、家の管理から場の運営まで、地域の人たちに委ねる必要がある。また、地元に知り合いが少ないため、練馬区の社会福祉協議会に相談して会議の運営などを協力してもらっている。

 今年(2025年)の7月からは正式に運営委員会という組織をつくり、代表には地元で子ども食堂を主催してきた人にお願いした。副代表には地元の高校生と地元で子育てサロンを長く運営してきた人になっていただき、多様性に溢れる構成メンバーとなっている。

 空き家を居場所として開放するにあたり、当初はなるべく無機質な「物件」として提供し、運営する人たちのカラーに染めてもらおうと思っていた。しかし、途中から徐々に心変わりするようになり、現在は建物の歴史を存分に活かした居場所づくりへと方針が転換した。そうした転換は段階的に起こってきた。

 最初の転換点は、居場所の名称を決定する時だった。私の両親は長年呉服屋を営んでいて、そのお店の名前が「御きもの処たきち」というものだった。「たきち」というのは私の祖父の名前に由来しており、個人史がかなり詰まっているため、地域に広く開放される居場所のネーミングには合っていないように感じていた。しかし、空き家活用の準備と並行して家の片付けを進めるうちに、家を片付けることも、空き家として実家を開放することも、両親への弔いとしての意味があることを自覚するようになった。それが主目的ではないが、空き家には歴史があり、それを次世代に受け継ぐという点では、歴史を無視することはできないと感じるようになった。会議の事務局を務める社協の提案もあり、居場所の名称は「みんなの家たきち」になった。

 次の転換点は、3月にプレ・オープンした際に、ご近所さんに挨拶回りをした時である。見知らぬ人たちが出入りする居場所が近所にできることを快く思わない人もいるかもしれないと危惧したが、亡くなった両親のことや、地域に愛されていた呉服店のことを伝え、居場所を支えていただくようにお願いした。

 そうした歴史が資源となることを確信したのは、オープンに向けて6月にワークショップをした時である。活動についてアイデアを出す中で、参加者からたきちの歴史を意識した発言が多く出た。中には、「最近はご近所付き合いもなく、人が集まる理由がなくなってきているけど、たきちがあることで、人が集まる理由ができる」という発言もあった。この時に、地域の居場所づくりにおいてその建物や地域が歩んできた物語が大きな資源になるということが確信に変わった。

 最後に、宣伝になりますが、現在たきちではオープンに向けて、その歴史と物語を活かしたクラウドファンディングを実施しているので、ぜひホームページをご覧ください。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.80

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第280号,2025年6月.

実践の糧」vol. 80

室田信一(むろた しんいち) 

 ある子どもが積み木を巾着袋に入れようとしている。しかし、どう見ても積み木の方が大きいので巾着袋には収まりそうにない。あなたがそれを見守る親だとしたらどうするだろうか。袋が小さすぎるからいくら頑張っても積み木は袋に収まらない、という事実を口頭で伝えて諦めさせるだろうか。それとも子どもから積み木と袋を取り上げて、積み木が袋に入らないことを目の前で実証するだろうか。あなたが「良い教師」であれば、積み木と袋の口のサイズを計測する方法を教えて、積み木が袋に入らない事実を一緒に確認するかもしれない。もしくは、あなたが本人の主体性を重んじる人なら、傍で見守り続け、積み木が袋に入らないことに子どもが気づくまで辛抱強く待つかもしれない。

 教師が生徒に一方的に知識を詰め込む教育のことをパウロ・フレイレは銀行型教育と呼ぶ。フレイレを知る以前から受験勉強を前提とした日本の教育が銀行型教育であることに違和感を感じていたが、フレイレを読むことで、そうした違和感を言語化して理解することができた。驚いたことに、30年以上の時を経て、今もなお日本の学校では詰め込み型の教育がなされている。ゆとり教育を導入したり、「考える力」を育むことを重視したり、教育を改革する試みは施されてきたが、国語、英語、社会などの人文社会系の学問領域では暗記力で点数が決まる教育がいまだにおこなわれている。

 人文学や社会科学は「一つの正解」がない学問領域で、どのように物事を捉えるべきか、そのための複眼的な視点を身につけることが求められる学問領域である。したがって教師には、生徒がそうした複眼的な視点に気づくために問いかける力が求められるだろう。問いかける際、ある決まった答えを想定して問いかけるのではなく、教師が想像もしなかったようなものの捉え方や考え方が示されることを想定し、問いかけによって教師側も新たな視点を身につけることができる、そのようにお互いが気づきと学びを深めることができる関係がフレイレのいう人間化された関係である。

 私が所属する大学でもそうした教育を意識して実践している。特に卒業論文を執筆する過程においては、学生自身が問いを研ぎ澄ましていくことを大切に、対話を繰り返す。しかし、そうした対話に慣れていない学生が少なくない。

 冒頭の積み木のたとえでいうと、積み木と袋のサイズの測り方を自分で模索することなく、教師に教えを求めようとすることがある。もしくは、教師が目の前で実証してくれることを待っていたり、中には教師が答えを教えてくれることを待っていたりする。私はどうするかというと、なぜ巾着袋の中に積み木を入れようとしているのか、その理由を尋ね続ける。生徒が「積み木が袋に入っている状態が理想的な状態だから」と答えたら、なぜその状態が理想的と捉えられているのか、さらに問いかける。そこに一つの正解はないが、積み木が袋に収まっている状態を自明のものとするのではなく、そのように自分が捉えている視点に気づいた上で、それでもなお積み木を袋に入れようとするのであれば、どのように入れることが可能なのか考える。もし、積み木が袋に入らないとしたら、他にどのような選択肢があるのか(大きな袋を探すのか、積み木を小さく加工するのか、など)、そうした選択が何を意味するのか、について問い続ける。

 そうすると、私も想像しなかったような結論に辿り着くことがある。誰も試したことがないような方法で解に辿り着こうとすることがある。自分の思考の巾着袋の口が広がる瞬間である。教師と生徒に限らず、人と人としてお互いに歩みを進める。共にこの社会を構成するとはそういう関係を築くことなのだと思う。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.79

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第279号,2025年4月.

実践の糧」vol. 79

室田信一(むろた しんいち) 

 イギリスの社会学者で、『コンパッション都市』の著者であるアラン・ケレハー先生が昨秋日本に来日された際、多くの時間を過ごす機会に恵まれた。コンパッション都市もしくはコンパッション・コミュニティとは、死や死にゆくこと、グリーフや死別の体験を、一部の医療職などによる専門的なケアの領域に閉じ込めるのではなく、コミュニティによる共有体験として開かれたものにするという考えである。

 この概念について知った当初はあまりピンとこなかった。私は2年ほど前に両親を亡くしたが、その死別経験まで人の死をあまり身近に感じたことはなかった。死や死別は、どこか自分から切り離されたものであり、他人の前で滅多に口にすることではないという先入観があった。一方、グリーフケアのように、悲嘆に寄り添うことや悲嘆の感情を言語化することを積極的に取り入れている領域もあるが、それはそれで「悲しむ人のためのコミュニティ」のように見えて、一般的なコミュニティからは切り離されたもの、という印象を抱いていた。

 死や死別の経験は「非日常」的なものであり、私にとっては特殊な領域として位置付けていたが、ケレハー先生からコンパッション都市/コミュニティについて学ぶ中で、現代的な「死」の捉え方が特殊なものであり、本来はすべての人にとって死はもっと身近なものであるということを理解するに至った。

 ケレハー先生によれば、狩猟・採集社会では、怪我をして群れと行動を共にできなくなった時点で死が確定することになる。その時代の死者の大半は乳幼児や子どもであった。それが農耕社会になると、人が定住するようになり、死の多くは疫病によって引き起こされるようになった。依然として乳幼児や子どもの生存率は低いが、死の位置付けが変わった。死体の腐敗による疫病の蔓延を防ぐために、コミュニティが死を承認し、死者を弔ってきたのである。

 それが、産業化と医療技術の進歩によって人類の平均寿命が飛躍的に伸び、大半の死は高齢期に起こるものとなり、かつ医療職や宗教家によって専門的に対処されるものとなった。すなわち、コミュニティや一般の人々から死や死別経験が切り離されたのである。産業化以前の社会においてはコミュニティが死や死別経験を分かち合うことが当たり前だった。

 コンパッション都市/コミュニティとは、死や死にゆくこと、死別やグリーフをコミュニティに取り戻すムーブメントといえる。ただし、それは前近代的な社会に先祖返りすることではなく、近代的な医療の恩恵を受けながらも、専門家とコミュニティが手を組んで、現代にあったケアの形を模索することである。

 現在、私は空き家となった実家を地域の活動拠点として開放しようと準備を進めている。当初は、故人を偲ぶような場所に人は立ち寄りたくないと思い、両親のことをあまり表に出すつもりはなかったが、コンパッション・コミュニティについて学ぶにつれ、死や死別経験をコミュニティに開かれたものにすることはむしろ自然なことなのだと考えるようになった。死や死別経験をそのように捉え直すことで、空き家はあるけどなかなか地域に開放できないという人たちが、もっと気軽に地域に使ってもらうようになれば、全国で地域の拠点はもっと増えるかもしれない。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.78

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第278号,2025年2月.

実践の糧」vol. 78

室田信一(むろた しんいち) 

 少し前のことであるが、『情熱大陸』というテレビ番組で元プロ野球選手のイチローさんが取り上げられていた。イチローという孤高のアスリートに接近する番組で、第一線を退いた今でもストイックに自分の理想を追い求めている姿はとても興味深かった。

 そのイチローさんが、同じくメジャーリーグで活躍した松井秀喜さんと昨今の野球(特にメジャーリーグ)について語り合う場面があった。その中で、データを重視する野球のあり方に対してつまらなくなったと評していた。選手自身が自分で考えることや感覚を重んじることがなくなり、対戦する選手のデータや得意な球種、ボールの回転数など様々なデータに基づいてコーチから指示が出され、そのデータに基づいて一つひとつの作戦が遂行されるということだ。

 そうした背景には、各球場がピッチャーの球種やボールスピード、球の回転数などのデータや、バッターのスイングスピードや打球の角度や速度といったデータを計測し提供するようになったことで、それらのデータを各チーム、各選手が活用するようになったことがあるらしい。メジャーリーグで良い成績を残しているチームほどそうしたデータを駆使していることから、データ野球が主流化してきているということである。

 実はこの点については、現役メジャーリーガーのダルビッシュさんも同様の見解を示している。ダルビッシュさん曰く、現在のメジャーリーグの野球は、先に答えが提示されていて、その答えを導くための方程式に当てはまる球種を投げるという、まるで問題集を解くような野球になっているということである。

 もしデータに反した作戦で負けた場合、データを軽視した監督とデータに基づくプレーをしなかった選手が槍玉に挙げられてしまうのだろう。その結果、誰も考えなくなり、データを重視するようになっていく。

 幸いにも地域の実践においてはデータやエビデンスの波がそこまで押し寄せてきていないが、対岸の火事ということでもない。保健・医療の分野はもちろん、ソーシャルワーク領域においてもエビデンス・ベースト・プラクティスという考え方が重視されてきており、事業評価の領域においてもますますデータが重視されるようになっている。

 エビデンス・ベーストといっても、ワーカーが思考しなくなるのではなく、あくまでもワーカーが実践する際にデータを参考にするということである。しかし、野球同様に、実践の結果を評価する際にデータが用いられることで、データを軽視した判断を追求されてしまうと、弁明することが困難になるだろう。もしくは、それを弁明するためには、自身を守るためのエビデンスや理論で武装する必要が出てくる。

 イチローさんが高校球児を指導する際、野球のプレーにおける一挙手一投足にはデータには表れない細かな機微がたくさんあり、そうした駆け引きの中でプレーが成り立っていることを強調していた。ソーシャルワークや地域の実践もまさに同様である。データにできないような細かな機微、可視化できないようなやり取りの中で新たな関係性が生まれたり、リーダーシップが育まれたり、実践が広がっていく。

 メジャーリーグのデータ野球が日本にも無批判に広がってしまうことをイチローさんは危惧していたが、日本の社会政策においてもエビデンスの波が着実に押し寄せていること、そしてそれを無批判に取り入れてしまう流れを私は危惧している。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.77

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第277号,2024年12月.

実践の糧」vol. 77

室田信一(むろた しんいち) 

 前回は、オーガナイザーがコミュニティに関与する際に、そのコミュニティのメンバーと対話の空間を作り出すことについて書いた。オーガナイザーはイタコのような存在で、自分自身をそのメンバーの感覚に近づけていき、メンバーの声を代弁する存在になることが求められると私は考える。他のオーガナイザーがどのような感覚でそうした対話に取り組んでいるのか分からないが、私の感覚はイタコに近いような気がする(イタコになったこともないし、イタコに直接会ったこともないが)。

 しかし、その感覚をあえて別の体験と結びつけるとしたら、私が20代の頃に習っていたドラムを叩く感覚に似ていると思う。私が習っていたのはハイチのドラムで、先生のフリズナーはLa Troupe Makandalという、いわゆるヴードゥーの音楽を奏でるドラムグループのマスターだった。残念ながら、フリズナーは2012年に急逝してしまったが、ニューヨーク市でも指折りのヴードゥーのドラムマスターで、彼のバンドは世界各地で公演をしたことがあり、2007年には東京でも公演をしている。

 私は彼のクラスに参加するまでドラムを演奏したことがなく、最初は目が当てられないほどリズムを外していた。フリズナーは手取り足取り教えることはなかったが、私の耳と体がリズムに慣れるまで根気強く教えてくれた。

 ヴードゥーのドラムは異なるサイズのドラムによって奏でられる複雑なリズムで、ドラム経験者でも最初は苦労する。今でもよく覚えているが、練習中に私が奏でるドラムのリズムが他の人と少しでもズレていたら、フリズナーがとても厳しい目でズレを指摘してきた。5人から10人くらいがサークルになってドラムを叩くと、かなりの音量なので誰がズレているかなんて気がつきそうにないが、フリズナーは一瞬でそれを聞き取った。

 ドラムなどのパーカッションを経験した人ならわかることかもしれないが、ドラムを奏でるには、頭でリズムを理解しようとしても全くうまくいかない。もちろん、リズムや曲の流れは頭で理解しなければならないが、それを一旦体に染み込ませてから、自己を解放してリズムに身を任せなければ他のメンバーと波長を合わせることはできない。それはとても不思議な感覚で、意識は研ぎ澄まされているが、感覚を自分の周囲360度に広げているような状態である。

 このドラムを奏でる際の感覚と、私がオーガナイザーとしてコミュニティのメンバーと対話する感覚は似ていると思う。ひょっとしたら、私はドラムの影響からそのようなアプローチをしているのかもしれない。重要なことは、フリズナーが複雑なドラムの音の中から、ズレた音をすぐに聞き取ったように、一人一人の声や仕草、表情などに意識を集中して、一人ひとりが何を考えているかや、どのような意識か、といったことを読み取る必要がある。それと同時に、私がそのグループの対話をどこかに向かって引っ張るのではなく、一人ひとりがそのコミュニティというものを体現するように対話をファシリテートする。声の大きい人がいたら、その主張を相対化するような問いかけをしたり、場に馴染めてない人がいたら、その声を拾って大きくしたりしながら、その集団が総体として何を感じているのかを共有することを意識している。

 他のオーガナイザーがこれを読んで、どのように考えるのか興味深い。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.76

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第276号,2024年10月.

実践の糧」vol. 76

室田信一(むろた しんいち) 

 オーガナイザーがあるコミュニティに初めて関わるとき、そのコミュニティのメンバーが集まっているところへ赴き、そのメンバーと対話を重ねて、メンバーについて知る機会を設けることがある。たとえば、若者のコミュニティに関わるとき、若者がたむろしているストリートなどの溜まり場へ行き、そこで若者たちに声をかける。若者たちのことを知り、若者たちの問題意識を探るためにそのような場を設ける。

 その対話の中で、若者たちにとって「引っかかっている」ポイントが見出された時にはその点について掘り下げることをする。たとえば、若者にとって地域の中に居場所がないということや、そもそも社会の中に居場所がないということかもしれない。それはつまり、望ましい仕事に就くことができないということや、自己実現の機会が限られているということ、抑圧的な構造の中に閉じ込められてしまっているというような話かもしれない。

 もしくは、オーガナイザーが全く予見もしないようなことが語られる場合もある。ギャングの抗争に巻き込まれているというような話かもしれないし、大学に進学したいけど情報もなければ手段もわからないというような相談かもしれない。こちらがあらかじめ問題を設定するのではなく、空っぽの状態でそのコミュニティと接することが重要になる。

 そのようにしてコミュニティの中に対話の空間を生み出すことはコミュニティ・オーガナイザーにとって必須の技術であると思う。

 近年、コミュニティ・オーガナイジングの研修の依頼を受け、その参加者が15名に満たない場合、その場を仮想のコミュニティと想定して演習をすることがある。私自身が仮想のオーガナイザーとなり、対話の空間を作り出す。「なぜ、皆さんは今日この場に集まっているのですか」という問いを中心に、「なぜ、私たちは私たちなのか」という問いにみんなで接近していく。つまり、このコミュニティはどんなコミュニティなのか、ということについて意識を共有していく。その中で、メンバーの多くが「引っかかっている」ポイントが見えてきたりする。

 数ヶ月前、そのような対話の空間づくりをした後、終了後に一人の参加者から声をかけられた。「どうやったら先生のようにみんなの声に耳を傾けて、一人ひとりの話を掘り下げていくことができるのですか」という質問だった。いざ、そのように質問されると戸惑ってしまった。学生の頃から地域でオーガナイジングをしてきて、コミュニティに関与する場面をたくさん経験する中で、徐々に培われてきたスキルで、生まれもった才能でもなければ、具体的な訓練を受けたわけでもない。

 その時は、「イタコみたいなものですよ」と答えた。死者の霊を憑依させてその声を伝えるイタコのことである。つまり、自分はあくまでもみんなの声を媒介させるイタコのような存在で、話を聞いている人の感覚になるべく近づいて、その人の感覚を代弁するようなイメージである。イタコとオーガナイザーの違いは、相手が目の前で生きている人であるということと、複数の人を憑依させるという点である。

 その憑依している時の感覚は、意識は研ぎ澄まされているが、同時に「無」であることが求められる。その感覚はドラムサークルの中でドラムを奏でることに少し似ているかもしれない。次回はそんな話を詳しく掘り下げたい。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.75

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第275号,2024年8月.

実践の糧」vol. 75

室田信一(むろた しんいち) 

 話題の小説『成瀬は天下を取りにいく』と『成瀬は信じた道をいく』を読んだ。滋賀県大津市が舞台ということもあるので、関西在住の人にとっては身近に感じる内容が要所に盛り込まれている。物語は、さまざまなことにチャレンジを続ける女子高生成瀬あかりが、西武デパート大津店の閉店に際して、閉店を取り上げる地元のローカルテレビの生中継に毎日映り込み、西武への感謝を表明するという「アクション」から始まる。成瀬のそうしたちょっと変わった「アクション」が小説に登場する他のキャラクター(成瀬の友人など)の視点から描かれている。

 この小説の読み方は人によってさまざまだろう。多くの読者は、成瀬の突拍子もない行動とそれを淡々と確実にこなす彼女の行動力に魅了されるのではないだろうか。ネタバレになるので詳細は書き控えるが、物語自体、成瀬の行動力に魅了される周囲の人間の模様を描くことで、成瀬の人物像を浮かび上がらせるという手法が用いられている。

 この小説を読み進めると、読み手によっては成瀬がいわゆる「発達障害」の傾向があるということに気が付くかもしれない。「空気を読まない」成瀬の行動に周囲はひき、少し距離を置く。実際に小説の中では小学校5年生の時にクラスのみんなから無視されていたという記述がある。それでも当の成瀬は気にも止めず、まさに自分の信じた道をいくのである。

 確かに成瀬は感情を表現することが苦手で、行動パターンの中に他者性が欠落しているという特性があり、いわゆる「発達障害」というカテゴリーで見られる(もしくはそうした診断が下る)ことはあるだろう。しかし私がそれ以上に感じたことは、成瀬を通して見えてくる日本社会の特徴である。小説を読み進めるうちに、周囲の空気を読まずに行動する成瀬の姿が、アメリカ人のようにも見えてきた。アメリカ人は、感情表現が豊かという点においては成瀬とは全く異なるものの、周囲の空気を読むことを是としない点において成瀬っぽいと思った。「アメリカ人」として一括りにすることはいささか乱暴ではあるものの、少なくとも私がアメリカから帰国した当初の自分に「成瀬っぽさ」があったのではないかと思う節が多々あり、成瀬の行動原理に共感すらした。

 よく考えると、私がアメリカに留学した背景には、空気を読まなければならない日本社会の雰囲気があまりにも重く、そうした空気に敏感であり、過度に配慮してしまいそうになる自分をなんとか解放してあげたいという気持ちがあったことを思い出した。アメリカに住むと、知り合いがいないということ以上に、周囲の空気を読むことに執着しない関係性にすっかり心地良くなった。成瀬がアメリカに行くと、きっと普通に馴染むに違いない。小説を通して自分が日本社会の空気にまた押しつぶされそうになっていることに気がつくことができた。

 この小説がよく売れている背景には、成瀬が空気を読まずに行動することへの爽快感があり、多くの読者が日本社会の閉塞感を感じていることを反映しているのではないだろうか。もしそうだとしたら、自分もまた「アメリカ人」に戻ってもいいのかもしれない。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.74

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第273号,2024年4月.

実践の糧」vol. 74

室田信一(むろた しんいち) 

 今から10年〜20年後に日本の市民社会の変化を振り返るとき、2023年は象徴的な年として語られるかもしれない。この1年の間に、旧ジャニーズ事務所に所属していた元タレントによる性的虐待被害の告発があり、女性自衛官による自衛隊内における性被害に対する告発があった。前者は芸能界という閉ざされた世界に、後者は自衛隊という同じく外部の目が入りにくい世界に風穴を開けたという点で大きなインパクトを与えた。これらの告発は連日メディアで報じられ、世間の関心を集めた。

 以前は告発というと、攻撃的で怖いイメージや惨めで痛々しいイメージが伴う行為として認識されていたように思う。そのため、告発する人は世間からの注目に耐えることができる強い人間か負のイメージを背負って生き続けざるを得ないほど追い込まれた人間と見られる傾向があった。

 しかし、この1年でそうした負のイメージが変わったように思う。

 まず、告発した人を称える報道や世間の声が増えたように思う。上記であげた事例はどちらも性被害に関わる問題であり、加害者には弁明の余地がないという意見が大半であり、そのような報道を後押ししたのはSNSなどに集められた世間の声だったように思う。

 告発とは、大抵は権力に対してなされるものであり(なぜなら、当事者がその組織の中で変化を起こせる立場にあれば、告発という手段を取る必要がないため)、したがって主要なメディアは権力側の立場を守るようなスタンスを取ることがある。その結果、世間の見方も保守的なものになり、勇気ある告発者を惨めな立場に追い込んでしまうということがこれまでの告発事例から私が感じていた構図であった。しかし、上記の2事例を皮切りに、告発者が惨めな存在として語られることが減ったように思う。

 このことは、単に告発することのハードルが下がったということ以上に、権力に楯突くことや、権力に対して自分の不満を発言することが文化的に認められやすくなったという点で、日本の市民社会の潮目が変わったといえるのではないだろうか。

 今考えると、私の抵抗は、高校時代のバスケットボール部顧問だった暴力教師に対する発言から始まった。練習後のミーティングで「俺のやり方に反対する奴は手を挙げろ」と言われ、不満を抱えていたはずの仲間が誰1人手を挙げず、唯一手を挙げた私はその後、体育教官室に呼び出されて百発以上殴られたことがあった。私はその後ラグビー部に移るわけだが、その時手を挙げなかった仲間の多くはその後結局退部した。

 2023年を皮切りに、同じようなことが起こった時に勇気をもって声をあげる若者が増えるようになってほしい。自ら離脱するのではなく。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.73

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第271号,2023年12月.

実践の糧」vol. 73

室田信一(むろた しんいち)

 私の父は常に物事をナナメから見る人だった。学校のテストで100点を取ると「あまり勉強ばかりするな」と言ったり、世間から批判を浴びている人がいれば「お父さんは悪い人じゃないと思う」と言ったり、世の中のあたりまえや常識を疑うタイプの人だった。そんな父の影響からか、物心ついた頃から私も物事をナナメから見るようになっていた。アメリカでコミュニティ・オーガナイザーの人たちと出会った時、物事を批判的に捉え、行動を起こす姿に親近感を覚えたのはそのような父の影響もあっただろう。

 研究者という存在も常識を疑い物事をナナメから見る態度が求められる。そのため、ものすごく素直な学生から「研究者を目指したい」という相談を受けると、あまり向かないのではないかと思ってしまう。しかし、研究者の中にも王道を行くタイプの人もいる。さまざまな議論を肯定的に受け止め、総括的な見解を示す研究スタイルは、物事をナナメから見る私からすると面白みがないと感じるが、同時に、自分には持つことができない大局的な視点に圧倒される。

 以前、あるラジオ番組で巨人・ヤンキースで活躍した元プロ野球選手の松井秀喜さんについてお笑い芸人が語っていた話を聞いて、王道に対する私の捉え方が少し変わった。私は松井さんのことをすごい選手だとは思っていたが、あまり面白みがない人と思っていた。松井さんは高校時代からスター選手で、その後もスター選手としての道を歩み、メディアに対しては常に優等生の受け答えをしてきた。そうした松井さんのことを、そのラジオでは「国民のお兄さん」を引き受けた人として称賛していた。高校時代の5打席連続敬遠を経て、ドラフトでは長嶋監督から一位を引き当てられ、巨人の4番打者として大成し、さらにメジャーリーグに挑戦してヤンキースでも4番を打った。そのように国民の期待を受けると、人はプレッシャーに押しつぶされてしまうものだが、松井さんは文句一つ言わずにそれを全て引き受けてきた。挙句には、長嶋元監督と共に国民栄誉賞を受賞した。先輩のイチローさんが二度(その後を加えると合計三度)も辞退していることを考えると、松井さんも辞退することが頭によぎったに違いないが、ファンや国民の期待を引き受け、受賞したのである。

 そのような王道の生き方というものは、誰かが引き受けることでそれが時代の物語となり、語り継がれ、多くの人にとって納得感が生み出される。地域の活動では、会長や委員長に担ぎ上げられて、その立場に甘んじていることに違和感を感じず、御意見番のようになっている人がいる。そのような人がいると地域の風通しが悪くなるため、私は批判的に見ていたが、松井さんの例を引き合いに考えると、そのような人が地域の人々の期待を引き受けることで納得感が生み出され、地域の人間関係のバランスが保たれるという側面があると考えると、必ずしも批判されることではないのかもしれない。それでも私はナナメから見てしまうが。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。