掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第282号,2025年10月.
「実践の糧」vol. 82
室田信一(むろた しんいち)
2025年9月、アメリカ保守派のインフルエンサーであるチャーリー・カーク氏が殺害された。このニュースは日本でも報道されたが、アメリカでの報道は相当加熱していたらしい。私は、この報道が出るまでカーク氏のことはあまり知らなかった。保守派の中では熱狂的に支持されていたカーク氏だったが、その渦の外には彼の情報がそれほど流れてこなかった。そこがSNS時代のメディアの特徴である。
改めて彼の動画を見直すと、反DEIであったり、大学からリベラルを追い出す動きだったり、排外主義だったり、LGBTQに対する保守的な態度だったり、トランプ政権が掲げる政策の震源地なのではないかと思ってしまうほどである。カーク氏のような言論がSNSを中心に大量に流布され、そこに陰謀論も加わり、今日的なアメリカの保守的な言論が生み出されているという、遅ればせながら、そんな様相が確認できた。
今までこの連載で政治的な話はしてこなかったが、私のようなものでも、政治的な立場を問われることがたまにある。政治的な立場を表面することはアメリカでは珍しくないが、日本ではあまり一般的ではない。私自身は自分の政治的なスタンスを隠しているわけではなく、リベラルであると自認している。しかし、イデオロギーを強く示すというよりも、私が19歳から27歳まで過ごしたアメリカでの生活が、あまりにもリベラルな空気の中で成り立っていたため、呼吸をするようにリベラルな思考に染まっていると思う。
私が住んでいたニューヨーク市は、自由な言論に溢れていて、毎週のように市内のどこかで大小様々なデモが開催されていた。ニューヨーク市は人種の坩堝であるが、その中でも私が住んでいた地域は住民の過半数が移民であり、多国籍な人たちで構成されていた。私がソーシャルワークを学んだ大学院や私が働いていた現場ではセクシャルマイノリティの人が多く、私のルームメイトもゲイだった。
そのような環境で20代の大半を過ごしたため、リベラルな価値観が当たり前になっているが、イデオロギーとしてリベラルを支持するというよりも、自分の身近な生活の中にリベラルな振る舞いが溶け込んでいるという感覚のほうが近いと思う。なので、保守派の人たちがリベラルを批判しても、うーん、なかなか理解できないのかもしれないなぁ、と思ってしまう。
反対に、私は保守王国であるテキサス州に何度か行ったことがあるが、そこでの経験は貴重なものだった。軍事産業が主力の街に行った時、夜の市営グラウンドに足を運んだ。美しく整備され、電気が灯された芝生の野球場で、何組かの家族が集まって野球を楽しんでいた。数十ドルでそのグラウンドを貸し切れるという。ニューヨークでは考えられない光景である。テキサスの住民の立場に立ってみると、真面目に働いて、家族を養って、そこそこの給料をもらって暮らしている。そうした生活を守ってくれる保守的な政治家を支持することは当たり前だと思った。彼らからすると、ドラッグや売春が日常茶飯事の街で、不法滞在者を含む移民の支援や権利擁護をしていた私は非国民として映ったかもしれない(そもそもアメリカ国民ではないのだが)。
近年、日本でも保守とリベラルの分断が取り沙汰されることがある。地域の実践に関わる者は、そうした分断から目を背けてはいけないと思う。むしろ、自分の立場をしっかり表明し、なぜその立場を支持するのか、その背景となる体験や価値観を含めて相手に伝えることが重要になるだろう。イデオロギーではなく、どのような生活を大切にしたいのかを伝えることが、相互理解へのカギとなるだろう。
※掲載原稿と若干変更する場合があります。
