シリーズ『実践の糧』vol.55

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第252号,2020年10月.

実践の糧」vol. 55

室田信一(むろた しんいち)

このようなことを書いたら誤解を招くかもしれないが、私は政府をあまり信用していない。もう少し厳密な表現に変えると、無条件に政府を信用することはしない。この価値観がどこから来ているのかわからないが、比較的幼い頃に身についたもののように思う。私の両親が自営業者で、(良くも悪くも)自立心が強かったからなのか、身近に公務員や政府関係者の大人がいなかったからなのか、中学生くらいから教師に対して不信感を募らせていたからなのか。いずれにしろ、政府を信頼して、手放しに行政を任せるという感覚はもっていなかった。

根底にそのような価値観があったからかもしれないが、20歳の頃、留学先のアメリカでヘンリー・デイヴィッド・ソローの著書を読んだときに、とてもしっくり来た。ソローは当時アメリカとメキシコの間で起こっていたメキシコ戦争に反対するため、税金の支払いを拒否して投獄されている。納税とは市民の責務であるが、その収めた税金が自分の望まない目的のために利用されるのであれば、納税を拒否することこそが市民の義務である、というのがソローの主張である。ソローがそうした考えをまとめた『市民的不服従』という書籍や、社会と断絶し森の中に入り、彼の自給自足生活について書かれた『ウォールデン』は有名である。その中に、「政府とは小さければ小さい方が良い」という記述があり、そこからは無政府状態を信奉している彼の思想が読み取れる。こうした彼の思想は、現在のアメリカの保守系の思想にも通ずるところがあるが、一方で、ソローの書籍はキング牧師やガンジーによる市民的不服従の実践に影響を与えたといわれている。

なぜ、ソローを取り上げたのかというと、今から約1年前に参加したある自治体の地域福祉計画推進会議での一人の委員の発言が頭に残っているからである。その委員は地元の企業を代表して委員会に参加している民間企業の社員である。中央政府が推進する地域共生社会について説明を受けたとき、今後は地域共生社会づくりにかかる費用を住民や企業が拠出することも念頭に入れる、というような表記があったところに引っかかり、費用は政府が出すべきだとその委員は声を荒げていた。確かに、政府が推進する政策の費用を地域で拠出しろ、というのはあまりにも虫が良すぎる。しかし、私は政府にお任せの地域づくりがうまくいくはずがないと思っているので、地域づくりに政府が口とお金を出している状態よりも、地域が自主的に取り組んでいる状態の方が良いと思い、こうした政府の「放任」を歓迎していた。その委員が勤める企業の社風も影響しているのかもしれないが、民間企業がそこまで政府依存の思考をもっていることに、驚いたと同時に、少し残念に感じた。

大きな政府が時代に合わないことは明白に思えるが、「大きな社会」や「大きな地域」をつくっていくことは可能であると思う。地域の中で資源が循環し、民主的な意思決定により地域の中でものごとが動いている。そんな社会がすでに始まっているように思う。

ちなみにアメリカでは中学生くらいで必ずソローの文章を読むらしい。そこに国民性の差が生まれるのかもしれないが、たとえば宮本常一の『忘れられた日本人』のような書籍にはソローの思想に通ずるものがあるように思う。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.54

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第251号,2020年8月.

実践の糧」vol. 54

室田信一(むろた しんいち)

新しい生活様式の中で、私の生活に最もインパクトを与えたことは、ビデオ会議システムの導入だと思う。私は大学の教育に携わっているため、無論、全ての授業はオンライン化したし、個別の論文指導や、新入生のオリエンテーションさえオンラインのビデオ会議システムを使用するようになった。当初、オンラインで授業を実施することに抵抗はあったが、やってみると便利な面が多く、特に移動時間を削減できたことが最大のメリットのように思う。かつてはあり得なかったようなスケジュール設定が可能で、授業終了の30分後に外部の会議に参加したり、というように仕事を効率化してくれた。他にも、遠方の人に集まっていただく研究会などの日程調整も楽になったし、週末に開催されるセミナーなどに、家族の時間を犠牲にすることなく、1時間とか2時間だけセミナーに参加するということもできるようになった。

学習効果はというと、実は学生はかつてないほどよく勉強し、対面の授業よりも学習効果が高いように感じている。部活動やアルバイトの時間が減少したこともその背景にはあると思うが、ビデオ会議とオンライン上のシステムを組み合わせることで、授業外学習に真剣に取り組む学生が増えた印象を受ける。遠隔授業のためのオンラインツールはこれまでも存在していたにもかかわらず、しかもそれらを利用することが効果的な学習効果を発揮する可能性があるのに、従来の教育方法に囚われて活用できていなかったことに自分の保守的な部分を発見した。オンライン化が進んだことは、物事の無駄と思われる部分を削ぎ落とし、本質的な部分を浮かび上がらせることを助けてくれた。それは教育現場に限らず、普段の仕事のあり方や、生活のあり方においても同様の効果を発揮してくれた。

そのように新しい生活様式に移行することを好意的に受け止め始めていたある日、取材のために横浜市内のコミュニティ・カフェを訪問することになった。緊急事態宣言が解除されてからまだ間もない頃、その日はコミュニティ・カフェにとって店内の飲食を再開する初日だった。私の家からそのカフェまで片道1時間半ほどかかる。取材の時間は1〜2時間程度であるため、往復の移動時間の方が長くなる。以前は、長い移動時間が伴うことも、そういうものだと受け入れていたが、遠隔に慣れてしまった私の体は、1時間半の移動を面倒だと感じていた。しかし、数ヶ月ぶりにコミュニティの「現場」に足を踏み入れ、地域活動に対して思いのある活動者の人たちと対話をすることは、オンライン会議では得られることができないたくさんの感覚を与えてくれるものだということに気づかせてくれた。複数の人たちが出入りするその空間で、手作りのおいしい食事をいただきながら会話をすることは、脳に入ってくる情報量としてはオンライン会議の比にならないほど多い。にもかかわらず、オンライン会議のような疲労感は全く感じない。むしろ、帰宅中に頭の中にいろいろとポジティブな考えが浮かんできて、帰宅後すぐに別のオンライン会議に参加したが、いつもとは異なり、エネルギーに満ち溢れている自分がそこにいた。

オンライン化によって無駄が省かれて本質が浮かび上がると思ったが、実は無駄の中にある本質までもが削ぎ落とされてしまう危険性が高いことに気づかされた。オンラインのツールを導入する際に、いかにその点に自覚的であるかが、今後の活動を左右するように思う。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.53

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第250号,2020年6月.

実践の糧」vol. 53

室田信一(むろた しんいち)

私が留学していたアメリカの大学院の授業で、集団の意思決定について議論したことを覚えている。コミュニティ・オーガナイジングの授業であるため、学生も教員も民主的な手続きの重要性や一人ひとりの参加に基づく合意形成の重要性について議論していたが、そこで教員が次のような問いかけをしてきた。「総意(コンセンサス)がみんなにとって望ましい意思決定方法であることには間違いないでしょう。しかし、火事場の前で消防隊員が時間をかけて全員が納得のいく結論を出すことをみなさんは望みますか。時と場合に応じて、特に緊急事態においては、総意が必ずしも全員が望む結果へ導くとは限らないのです。」

世界中が新型コロナウイルスの対策に追われる中、各国のリーダーによる強いリーダーシップを求める風潮が高まった。確かに緊急事態の時に、その国のリーダーが対策に迷って方針を示すことができなかったり、実行力が乏しかったりすると、さらなる惨事を招きかねない。しかし、緊急事態に便乗して、政府の権限を著しく強化する法案が可決されてしまったり、個人の自由を制限する政策が推進されるということが各国で実際に起こっていることを見過ごすことはできない。特に首相の権限を拡大し、非常事態宣言の無期限延長を可能にする非常事態法を可決したハンガリーの政策には、世界から批判的な目が集まっている。

確かに火事場の前で消防隊員が時間をかけて意思決定することを誰も望まないだろう。しかし、緊急事態においては、人は視野が狭くなり、誤った選択をする確率が高まる。だからこそ、一度決めた判断に対して臨機応変に必要な修正を加える機転と勇気が必要になる。消防隊のリーダーが誤った判断をしたために、全隊員が火事の犠牲になるようなことは避けなければならない。誤った選択をした後に、「ほら、だから言ったでしょ」とか「今更どうするんだ」「リーダー失格だ」というような批判は何も生み出さない。むしろ、次に何ができるかを考えて、リーダーがリーダーシップを発揮して、状況に応じたより良い判断ができるように促すことが周囲の人間ができることである。

緊急事態宣言は解除されたものの、地域の中ではいまだに三密を回避するような配慮が求められている。地域の活動においても、良かれと思う行動が、ソーシャル・ディスタンスを守らないということで「自粛警察」の警備対象になることもあり得る。事実、地域からは活動再開に対する慎重論が出ている。活動を再開することも、活動を自粛することもどちらも地域住民のことを思った故の判断であるにも関わらず、その両者で意見が対立することは悲しいことだ。リスクを犯す必要はないが、まずは何ができるかを考え、それをやってみて、修正を施すという作業が今は求められているのだろう。

アベノマスクは小さくて使い勝手が悪いので、評判は良くない。安倍首相も、やっぱりこれは使いにくいから別のマスクに変えますと言えればいいのだろうが、そのような発言をしたら集中砲火を浴びることになるのだろう。ちなみに我が家ではステイホーム中に藍染めキットを購入してアベノマスクを絞り染めにしてみた。今では小学生の息子のお気に入りのマスクになった。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.52

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第249号,2020年4月.

実践の糧」vol. 52

室田信一(むろた しんいち)

昨年の11月からアメリカに3ヶ月間滞在した。短期滞在ということもあり、滞在中にシェアリング・エコノミーを体験する機会に恵まれた。たとえば短距離の移動であればUberを頻繁に利用した。携帯のアプリで行き先を入力して車を呼べば、見ず知らずの人が運転する自家用車が到着し、目的地まで運転してくれる。まるでご近所さんが車を出してくれたような気分になる。AirBnBを利用して民泊も多く活用した。家主さんとオンライン上で、「戸棚にあるお酒は自由に飲んでいいですよ」とか「ベッドルームの引き出しは薬が入ってるので開けないでください」などというやりとりをして、他人の家にお邪魔する体験は興味深かった。

そして、ソフトバンクが出資したことで有名になったWeWorkのシェアオフィスを利用する機会もあった。オフィスの訪問者は受付で身分証明書を求められるため、最初は招かれざる客のように感じるが、ひとたび中に入るとコミュニティ・スペースと呼ばれる開かれた空間があり、無料のコーヒーやビールまで用意されている。利用者はあたかもそのコミュニティの住人のようにくつろぎながら打ち合わせをしたり、自分のペースで仕事をしたりしている。部外者の私がそこにいても誰も気にしない。入り口のセキュリティを通過することでコミュニティのメンバーとして承認されているということだろう。

WeWorkが運営する宿泊施設のWeLiveにも滞在した。WeLiveに立派な受付エリアはない。代わりにコミュニティ・アソシエイトと呼ばれる担当者がノートパソコンで仕事をしながら対応してくれる。WeLiveでは従業員のことをコミュニティ・チームと呼んでいる。何かあればコミュニティ・チームに相談してくださいと言われる。

そのWeLiveに宿泊した時のことである。チェックアクトした後に部屋に忘れ物をしたことに気がつき、コミュニティ・アソシエイトにメールをした。1日待っても返事がなかったので電話をしたら、そのような忘れ物はない、という返事だった。なんとも心細い気持ちになった。コミュニティは人を包摂する温かいものであると同時に、人を排除する冷たいものにもなる。チェックアウトしてお金を払い終わった私はもうコミュニティのメンバーではなくなったという事実を強く感じた。

シェアリング・エコノミーはコミュニティという言葉を頻繁に使用する。シェアリング・エコノミーは、情報技術を駆使したシステムを導入することで、半公共の空間を作り出し、従来のビジネスに存在した過剰な接客によるコストを削減するというビジネスモデルを採用している。すなわち、コミュニティの入り口で、ある程度のセキュリティチェックを受けるが、ひとたびシステムの利用者になると、コミュニティのメンバーとして半公共の空間を他者とシェアすることになる。当然、利用者にはコミュニティの規範を守ることが期待される。一方、経営者はコミュニティの概念を持ち込むことで、サービスの質を利用者に委ねることができる。

シェアリング・エコノミーで成り立つ経済は、このようにしてコミュニティを商品化していくのだろう。この流れは商品化されていない既存のコミュニティを侵食し始めるに違いない。事実、日本でも社会起業家と呼ばれる人たちが既存のコミュニティの商品化を試みている。改めてコミュニティを再社会化することの重要性を強く感じた。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.51

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第248号,2020年2月.

実践の糧」vol. 51

室田信一(むろた しんいち)

職場の長期研究休暇制度を利用して、久しぶりにニューヨークに来ている。ここでの生活からはたくさんの刺激を受ける。日本の当たり前が当たり前でないということに気づかされるのは海外旅行の醍醐味であるが、そのこと以上に、日本では変えられないと思ってしまっていることを変えている現場を見ると、希望を抱くことができる。同時に、自分が「変えられない」という思考に陥ってしまっていたことに気づけたことも大きな財産である。

小さな変化かもしれないが、たとえば、地元の公園の設備や保全状態に不満を感じた住民が改善点をリストアップして市の公園事務所にそのリストを提出したところ、8割以上の提案が受け入れられ、改善されたという事例を耳にした。その一連の活動をコーディネートしたのがコミュニティ・オーガナイザーだったという話を聞くと、日本でも同様のことができるだろうと思う。一方で、日本の公園はアメリカの公園のように改善する余地はあまりないかもしれないとも思う。アメリカ(特にニューヨーク)で散見される社会問題や表面化した格差や差別の問題が日本でも同様に存在するとは限らない。そのような指摘は部分的に該当するかもしれないが、むしろ問題が表面化していないことの問題にこそ光を当てなければならない。

問題が表面化しない社会というと、マトリックスという映画の世界が彷彿される。マトリックスの舞台では、人は催眠状態で機械の中に閉じ込められ、経済的に潤っていると考えられた1990年代のバーチャルリアリティを脳内に直接投影されている。主人公のネオやその仲間は、その幻影から脱出し、ロボットが支配する厳しい現実世界の中に身を置き、人類を救うために闘う道を選ぶ。映画の中に、厳しい現実世界に疲れてしまった登場人物の一人が、幻影でもいいのでバーチャルリアリティの世界に戻ることを希望するシーンがある。彼は現実世界の辛い記憶を全て消し去って、幻影の世界に戻ることを求めるのである。

この映画は、何の問題もなくみんなが幸せな世界とは、実は問題が表面化していない世界なのかもしれないということを示唆している。そして、そのことに無意識であり続けることの恐ろしさを警告している。アメリカは、社会問題を多く抱えている国で、福祉の水準が低い国として語られることが少なくない。それは裏を返せば、社会問題が表面化していて、その表面化した社会問題に意識的な国だということでもある。そしてその国には社会問題を改善しようと活動している市民が多く存在する。

以前、私が日本で子ども食堂の普及活動に関わっていた時、地域によっては住民から「うちの地域に子どもの貧困なんて存在しない」というリアクションを受けることがあると聞いた。貧困の定義や捉え方にもよるが、子どもの7人に1人が貧困状態にあるといわれる今日、子どもの貧困が存在しないという認識は、現実問題の表面化を滞らせる。

子どもの貧困に限らず、外国人やセクシャル・マイノリティが直面する問題、沖縄の基地問題、男女の社会的格差など、日本社会のどこかにそうした問題の表面化を押さえつける風潮がある。「そうは言っても、日本はそこまで悪い国ではないから」という考えがどこかにあって、必死になって変えなくてもいいと思い込んでしまっている。久しぶりにニューヨークに来たことで、自分がそんな心地いい幻影の中であぐらをかいていたことに気づかされた。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.50

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第247号,2019年12月.

実践の糧」vol. 50

室田信一(むろた しんいち)

事務所に戻るなり、地域解放コーディネーターの池田はこう言った。「なんで役所の人間はわからないのかなぁ。外国人だけを支援しちゃうと地域の中の差別を助長するし、逆差別っていうナンセンスをぶつけてくる人が増えることは目に見えてるのに・・・。」

地域解放コーディネーターとは、急増する外国籍住民への対策を強化することを目的に、2030年に成立した「移民・難民救済措置法」の一環として厚生労働省が全国に配置したコーディネーターである。十数年前、地域共生社会を推進する政策として相談支援包括化推進員が全国に配置された。当初は「断らない相談支援」という理念を掲げ、タテ割りの制度を横でつなぎ、制度の狭間を埋める施策として期待されたが、その理念が空虚に思えるほど、国内で増加した外国籍住民に対する支援には無力であった。

国内で高まる外国籍住民への差別意識や増加するヘイトクライムへの対策という表向きの顔を備えつつ、実質的には移民管理を強化することが目的の「移民・難民救済措置法」を政府が成立させた。翌年にはその大綱が発表され、厚生労働省が地域解放コーディネーターの配置を推進した構図だ。政権肝いりの政策なだけに政府は積極的に予算をつけた。

地域解放コーディネーターの多くはNPOや社協に配置された。しかし、事業を統括するのは行政の担当部署である。措置法が成立するまで外国籍住民の管轄は市民部や生活文化部といった部署が担当してきたため、福祉関連の部署には情報やネットワーク、ノウハウなど全てにおいて蓄積が乏しかった。また、従来の福祉における「支援」の考え方が、外国籍住民への支援に適切ではないことも明白であった。

池田浩二はA市社協のベテランワーカーである。池田の経歴は少し変わっている。大学卒業後、民間の旅行会社で営業の仕事をしていた池田は、30歳手前で退職し、バックパックで世界を1年間旅したのち、日本の救護施設で福祉の仕事のキャリアをスタートした。その後、生活困窮者自立支援の取り組みが各地で始まったことをきっかけに、A市社協の相談員となった。社協で働くことにプライドをもっているが、一方で、社協の体質に呆れている面もある。そんな池田の口癖は「国が子どもの貧困対策にお金をつけるまで社協は子どもを支援対象として見てこなかった」である。そんな性格の持ち主だから、政府が外国人支援を政策化してからようやく外国人支援に取り組む社協の体質に不満が募っていた。その上、行政は外国人支援を結局タテ割りの施策にしてしまうため、冒頭の池田の発言のように、差別の助長や逆差別という意識を生み出すことにつながりかねない。「地域解放コーディネーターという呼称に込められた意味をわかってない」と珍しく国の政策を持ち上げて、行政への不満をぶつけたりもしている。

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記念すべき連載50回目の今回は小説風で書くことに挑戦してみた。それも近未来の物語である。説明がやや多くなってしまったことはご愛嬌として、皆さんはどのように読まれただろうか。私はSFが好きである。なぜならSFは未来を描くことで、現実社会を相対化し、そこに潜んでいる矛盾や欠点を指摘してくれるからである。私たちは過去から学ぶこともできるし、未来を想像することからも学ぶことができる。そして想像した未来を回避することもできるのである。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.49

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第246号,2019年10月.

実践の糧」vol. 49

室田信一(むろた しんいち)

「現代コミュニティ・オーガナイジングの父」とも言われるソウル・アリンスキーがその著書の中で、世界恐慌後にルーズベルト大統領が語ったことを引用している。世界恐慌は1929年のアメリカの株価暴落を発端に始まった世界的な経済不況のことである。ルーズベルト大統領は、経済危機への対策として世界で初めて社会保障法を制定し、失業保険や退職金制度、年金制度などを整備した。

当時も今も、アメリカは自由主義的な政策志向が強く、国家が社会保障に積極的になることに対して風当たりが強かった。そこでルーズベルト大統領はこのように言ったのだ。「私にもっと圧力をかけなさい。そうすれば私は社会保障にもっと積極的になれる」と。政府に対して民衆がデモなどによって圧力をかけることがある。その現象は政府による政策の問題を民衆が糾弾しているように表象される。しかし、そのようにして政府が圧力をかけられている状況は複雑な力動の中に成立していることを理解しなければならない。

私の恩師でニューヨーク市立大学ハンター校で長年コミュニティ・オーガナイジングを教えていたミズラヒ教授は、コミュニティ・オーガナイジングの基本原則という論文の中で、次のようなことを書いている。「あなたが影響を与えたいと思っている対象が、統制された一枚岩の構造であると思い込んではいけない。内部にある圧力や分裂、脆弱さをさぐり、その内部で仲間や協力者を見つけることが重要だ。」

人がある判断をするとき、その人の価値観から判断しているのか、立場上そのような判断を下しているのか、定かではない。両者が一致するときもあれば、対立するときもある。ソーシャルワーカーなどの専門職が個人と組織の価値観の間でジレンマを抱えることはよく知られたことである。

コミュニティ・オーガナイザーにとって、組織内の力関係や、組織の担当者の本心をアセスメントすることは重要である。世界恐慌後のルーズベルト大統領のように、外部からの圧力があってはじめて本当に推進したい政策に着手できるという政治的状況もあり得る。もしくはルーズベルト大統領の本心は、社会保障に対して消極的なものだったのかもしれない。民衆による圧力があって初めて積極的に考えるようになったのかもしれない。人の本心とは、時に自分さえもわからなくなるものである。そうであればなおさら、現実社会をつくりだすのは具体的な行動であり、その行動に影響力を与える人の力である。

私も含めて、政府の政策に対して不平不満を述べることがある。しかし、上記のような力動を前提とするならば、政府の無策や至らなさとは、裏を返せば、その無策や至らなさを容認してきた市民の問題でもある。政府の内部に協力者を見つけ出し、その協力者が内部で力を発揮できるように外部から働きかけることが、結果として責任を果たす政府を生み出すことになる。

哲学者の鷲田清一は自著『しんがりの思想』の中でそうしたアクションを「押し返し」と呼んでいる。政府に丸投げの無責任な市民ではなく、押し返すことで市民としての責任を果たすということである。毎週金曜日に学校をボイコットして押し返し続けてきたスウェーデン人のグレタ・トゥンベリさんが注目を集めているが、世界に注目されない身近な押し返しが街なかに溢れた時に責任ある市民と政府の関係ができあがるのだろう。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.48

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第245号,2019年8月.

実践の糧」vol. 48

室田信一(むろた しんいち)

なんでボランティア活動に取り組むのか、という質問に対して、「楽しいから」という答えを耳にすることがよくある。同様に、市民活動やボランティア活動にとって重要なことは何か、という質問に対して、「まずは楽しむこと」という回答もよく耳にする。

確かに、楽しいことは大事だと思う。楽しくなさそうな活動には誰も参加したいと思わないから、楽しいという要素が必然だという主張に反対はしない。しかし、ボランティア活動にとっての「楽しさ」には少なくとも二つの異なる「楽しさ」があると思うので、それを整理しておかないと、二つを混同して使ってしまう可能性があるし、実際に混同していることが少なくないと思う。

二つの異なる「楽しさ」のうちの一つ目は、その行為自体の楽しさである。なかなか結論が出ない会議に参加することや、過酷な条件の下で退屈な作業を続けることのように、その行為自体に魅力を感じることがなく、「やりたい」と思えない場合、そこに第一の「楽しさ」は存在しないだろう。その点、美味しいご飯をみんなで食べる子ども食堂の活動や、たくさんの人で賑わう地域のお祭など、その催し自体に楽しい要素が含まれている場合、この第一の「楽しさ」が該当する。(ただし、子ども食堂やお祭を楽しいと感じるかどうかは個人の主観による。)

一方、第二の楽しさとは、その行為自体に「楽しい」要素は付随しないかもしれないが、その行為が何か大きな目的に向かって蓄積するものであり、たとえ地道な活動だとしても、そこに携わっていることに誇りを感じたり、社会的な意義を感じたりするような行為である。たとえば、なかなか結論が出ない会議に参加したとしても、その会議を開催することによって、参加者の意思の疎通を図ることができ、重要な情報が共有され、次なる活動の道筋が明らかになるのであれば、会議に参加することにやりがいを感じるに違いない。また、退屈な作業に取り組んだとしても、それが何か大きな目的のために必要な行為であれば、その時間は充実したものになるだろう。

余談だが、私はイベントを企画する時、その前日ギリギリまで居残りして準備をすることが好きである。印刷室にこもってひたすら資料を印刷しているときに、明日この資料が参加者の手に配られる、というなんともいえない高揚感を感じる。作業自体は退屈かもしれないが、前日までドタバタ作業している方がイベントを作っているという感覚を得ることができ、自分の行為が良いイベントにつながり、そのイベントを通して社会が少しでも変わると感じることができたとき、「楽しい」と感じる。

このように整理してみると、ボランティア活動や市民活動にとって、第一の「楽しさ」があるに越したことはないが、どちらかというと第二の「楽しさ」こそが重要なのではないかと思う。第一の「楽しさ」だけでボランティアを募ってしまうと、「楽しくない」と感じた時にその人は離れていくだろう。一方、第二の「楽しさ」にハマった人は、そう簡単に活動から離れることはないだろう。

「楽しさ」を売りにボランティアを募集することは、第一の「楽しさ」ばかりが強調されてしまい、結果として本当に参加してほしい人材と出会う機会を逸してしまう可能性がある。では、「楽しくないかもしれないけど、社会的な意義があって、充実感を得られるよ」という誘い文句が効果的かどうかは、その活動の中身次第である。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.47

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第244号,2019年6月.

実践の糧」vol. 47

室田信一(むろた しんいち)

アメリカではコミュニティ・オーガナイザーやソーシャルワーカーが弁護士と一緒に仕事をすることが少なくない。たとえば、劣悪で違法な住宅に居住している住民が、家主に対して訴訟を起こすと同時に、そうした劣悪な環境を改善するために、そのアパートの借家人組合を結成して家主に改善を求めるというような活動がある。その場合、弁護士が訴訟を担当し、オーガナイザーが住民組合の組織化を担当する、というような役割分担がなされる。

オーガナイザーと法律家には異なる専門性が求められる。専門性の違いの顕著な例が使う言語である。法律家は使う言語に厳密である。なぜなら、言葉の使用一つで、法廷では異なる解釈や異なる判決を招くことがあるからだ。したがって、法律家は曖昧な言語を使用しない。一方、オーガナイザーは曖昧な言語を多用する。といっても適当に仕事をしているわけではない。オーガナイザーは、自分が正しい決断や正しい答えを提供することが、最善の結果を生み出すとは限らないことを知っている。そのため、複数で結論を出すような場面では、余白を含むあいまいな言葉をあえて使用して、自身の決断を未確定のものとして提示する。(なお、こうした整理はあくまでもステレオタイプであり、以下ではこのステレオタイプを前提に議論を進めることをご承知おきいただきたい。)

たとえば、グループの中で意思決定しなければならない事項があるとする。それが、新たにグループに加わるメンバーに関する意思決定だとしよう。法律家は、グループ加入のルールや手続きについて、メンバーに正確に説明することを重視するだろう。その上で、最も妥当な選択について自身の判断を伝えることもあるかもしれない。

一方でオーガナイザーは新たなメンバーが加入することに対するメンバーの感覚を確認することを優先する。人は、他人の意見に流されやすい。そのため、法律家が一方に偏った意見を述べると、他のメンバーもその決断に流される可能性が高い。しかし、そのような意思決定は、メンバーの本当の気持ちを反映しているとは限らないため、よからぬ結果を招く危険性がある。たとえば、実は自分は当初から反対だった、というような発言があとから出てくるかもしれない。結局は、主体的な意思決定の手続きが取られていないことが問題なのである。

コミュニティ・オーガナイザーは、たとえば「みんなはどう思う」というような投げかけをするかもしれない。そこでいう「みんな」に誰が含まれているかがあいまいである。そのため、メンバーの中からは「みんな」とは誰のことを指すのか、質問が上がるかもしれない。もしそのような質問が上がったとしたら、それがコミュニケーションの始まりである。その意思決定事項に対して、そもそも誰が関与した方がいいのか、関与する人は全員同じ発言権を保持するのか、誰が議論を牽引するのか、といったことに対して合意を形成していく。

オーガナイザーの使用する言語は専門性に基づくものとして扱われにくい。専門性が欠如しているという評価が下されることも少なくない。しかし、オーガナイザー同士であれば使用している言語にすぐにピンとくる。あ、この人は人を信じているな。そして、人が力を蓄積して変化を起こすことに本気で取り組んでいるな、と。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.46

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第243号,2019年4月.

実践の糧」vol. 46

室田信一(むろた しんいち)

私は東京都の認知症対策推進会議の委員を務めている。就任の声がけがあった時に「なぜ、私が」と思い、適任ではないということでお断りしたが、地域の視点から認知症対策を考えて欲しいという説明を受け、お引き受けすることにした。会議のメンバーには医療関係者が多く、他には認知症ケアに関わっている専門家や家族会関係者、民生・児童委員などによって構成されている。

先日、その会議に出席した時のことである。その日の会議は、東京都の職員から次年度の認知症対策について提案をしてもらい、その提案に対して委員がコメントをするということが主な議題であった。その提案の中に認知症の検診を推進する事業があった。この事業は、都民が自身の認知症の症状を確認するセルフチェックのためのパンフレットを配布し、もし認知症に該当する項目が多くみられた場合、最寄りの医療機関で検診をすることを推進する事業で、この事業を年間1億4000万円の予算規模で推進するという提案であった。地域活動の観点から、このようなパンフレットをいくら配布したところであまり効果は期待できないとすぐに判断したが、その会議では私のような観点をもつ人は少数派で、おそらく医療関係者にとってはパンフレットを配布するアプローチが主流なのだろうと思い、多勢に無勢なので口をつぐんでいた。

ところが、都のこのような提案に対して医療関係者が率先して反対意見を投げかけた。そもそもパンフレットを各自治体で配布したところで、実際に認知症傾向のある人にパンフレットが行きわたるように届けることは難しいという意見や、仮にパンフレットが手元に届き、セルフチェックをした結果、認知症の傾向があることがわかった場合、その人は本当に医療機関で検診をするのかという意見、そして、そのような事業に年間1億4000万円も予算を費やすことは無駄ではないか、という意見などで会議は紛糾した。

私がここで述べたいことは、認知症早期発見に対する効果的なアプローチに関してではない。パンフレットはないよりはあったほうがいいと思う。年間1億4000万円という予算が妥当なのか、その判断はなんとも難しい。

私が述べたいことは、私の偏見が、有識者として東京都の会議に出席する私の役割を邪魔していたということである。私は、医療関係者はパンフレットを配布するだけの啓発に満足していると思っていたし、1億4000万円という予算に対するコスト意識をもちあわせていないと思っていた。そして、その会議で私だけが東京都の提案に違和感を感じていると思っていたし、その違和感を表明したところで誰も共感してくれないと思っていた。その結果、会議に出席しても、消極的にただ座っているだけの存在になっていた。そんな自分のことを恥じた。

偏見は誰にでもあるし、偏見をなくすことはできないと思っている。大事なことは、行動を起こす時に、自分の偏見にどれほど意識的になれるかということである。今回の私の場合、偏見によって行動を起こさないことが、私の委員としての役割を大幅に制限してしまっていた。そのことに気づかせてくれた委員の積極的な態度に感謝したい。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。