シリーズ『実践の糧』vol.69

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第267号,2023年4月.

実践の糧」vol. 69

室田信一(むろた しんいち)

 前回は、誰も望んでいないのに、勘違いや失敗、意思疎通の不備などにより、ニーズと資源が結びつかない状況が生み出されてしまうことがあり(それをここでは「人災」と呼ぶ)、そのような状況に対する二つの対応方法について整理した。

 一つは、そのような「人災」が生み出されないような、すなわち、人が勘違いや失敗をしないような環境を整える方法である。モノや仕組みのデザインによって、人と人が協力し、結果として望ましい環境が生み出されるように促すアプローチである。この対応方法の特徴は人の無意識に働きかけることである。人が自ら望んで「人災」を招くことはない。意図せざる結果として「人災」が起こるのであれば、そのような「人災」が起こらないような「防災」の環境を整えればよいわけである。

 もう一つは、自らが起こしてしまう失敗や勘違いに意識的になることで、「人災」を起こさないようにする方法である。この対応方法と前者の大きな違いは、前者が人の無意識に働きかけるとしたら、こちらは意識に働きかけることである。心理学では人の行動の大部分が無意識によって支配されていると説明されるが(そのため、望まない勘違いや失敗、意思疎通の不備などが起こる)、その無意識の領域を少しでも意識によって取り戻そうとするのが後者のアプローチである。

 前者の方法により「人災」が起こりにくい環境が整ったとしても、全ての「人災」が未然に防がれるわけではなく、また後者の方法によって「人災」を起こさないように意識しても、やはり「人災」は起こってしまうものであり、いずれの方法でも「人災」がなくなることはない。では、あなたはどちらのアプローチを取るのか。

 両方のアプローチを組み合わせることが最善策であるが、近年はナッジなど、前者のアプローチに注目が集まっているように思う。しかし、人々がパワーを獲得するという観点から比較するとき、私は後者のアプローチが重要であると考える。

 たとえば、人が生活を営むことで特定の人が不利を被るような環境があるとする。そうであれば、そのような不利な状況が生み出されないように人々を誘導すれば良いというのが前者のアプローチであるが、当事者であるその社会の構成員は不利な状況が生み出されていたことも、それが改善されたことも意識しないうちに「人災」が防がれていることになる。このアプローチの問題は、何が不利な状況なのか、そしてどのよう状況が改善された状況なのか、社会を設計する立場の一握りの人間がコントロールしていることである。当事者である社会の構成員の大多数はそのことを意識することもなく、環境が変わっていることになる。それは自転車置き場のような物理的な環境かもしれないし、難病申請の手続きや地域住民同士が知り合う機会のような仕組みかもしれない。そもそもその設計に携わっている一握りの人間が「人災」に対してどこまで意識的なのかも怪しいものである。

 そう考えると、(自らが「人災」の原因の一部かもしれない)当事者が、自分が置かれた環境に意識的になり、その環境でとる自分の行動や言動、社会への関わり方、他者への関わり方、そしてその背景にある自分の価値観に対して意識的になる過程が大事であり、その過程を通して人々がその環境を少しでもコントロールできると感じることがパワーになるのではないだろうか。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.68

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第265号,2022年12月.

実践の糧」vol. 68

室田信一(むろた しんいち)

コミュニティに第三者が介入することの意味について考える際に、次のようなたとえ話を示すことがある。

あるカップルが映画館で映画を観ようと建物に入ろうとしたところ、まだ前の回の上映が終わっていなかったので建物の前で待つことにした。二人は立ち話をしながら順番を待った。その後、映画館に到着した別の客はカップルの後ろに並び、映画館の前には列ができた。前の回の上映が終わったが、客は別の出口から出たため、中の状況に気づかない構造になっていた。先頭のカップルは話に夢中になり、中に入ろうとしない。列の後ろの人たちは、映画の上映時間が近づいているにも関わらず列が進まないことにそわそわしている、という状況が作られたとしよう。

映画を観たいという思いとその気持ちを満たすための資源(映画)が結びつかないために不幸な結果に陥っているという状況が作られてしまう。このような状況を「人災」と呼ぶと、実はこの社会はそうした人災だらけである。

ここでのポイントは、誰もこのような状況を望んでいないにも関わらず、結果的にこのような不幸が生み出されたという点である。声をかけなかった映画館のスタッフや先頭のカップルが非難されるべきかもしれない。もしくは出口と入口を分けた映画館のわかりにくい構造が非難されるべきかもしれないが、誰一人このような結果は望んでいなかったので、非難しても問題は解決されない。

そこで、こうした問題に第三者が介入するとき、いくつかのアプローチが可能になる。一つはこのような人災が起こりがちな仕組みに目を向けてそのデザインの改善を図ることである。アフォーダンスという考え方がある。モノに備わっている特徴が、その利用のされ方を決定するような仕立てになっていることを指して用いられる。例えば、椅子を見た時に、それは人が座るための特徴を有しているので、教えられなくても人はそれに座るだろう。そうした特徴を備えることで、人は自然に利用する。そうしたアフォーダンスの高いデザインが施されることによって人は「人災」を回避しやすくなる。最近では行動経済学によるナッジという考え方が同様の観点から用いられることがある。ナッジとはリベラル・パターナリズムと説明されるように、モノの仕組みやデザインによって人をある特定の行動に導く考え方である。こうした考え方は、第三者によるデザインがコミュニティの人災を減少させ、協力的な関係性を形成することにも寄与すると期待されている。

一方で、教育的なアプローチも可能だろう。デザインが当事者の無意識にはたらきかけるアプローチであることに対して、教育的なアプローチは、意識に働きかけるアプローチである。本来は避けたい人災を自分たちが起こしてしまいかねないことに自覚的になることで、それを未然に防ぐことや、仮に人災が起こった時にそこから立ち直るために行動することができるようになるだろう。

さて、皆さんは人災を減らすためにはどちらのアプローチが効果的と考えるだろうか。この点については次回引き続き考えたい。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.67

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第264号,2022年10月.

実践の糧」vol. 67

室田信一(むろた しんいち)

今後AIが進化したときに、人間にあってAIに欠けているものとして「好奇心」が挙げられることがある。AIに好奇心を抱かせる研究も進んでおり、必ずしもこの説が正しいとはいえないが、個人的に好奇心は人間にとっても(そして優れたAIにとっても)重要な資質であると思う。オクスフォード大学のオズボーン准教授らがAIの進化と普及に伴い消える仕事をリストアップした研究は有名であるが、ソーシャルワーカーはこのリストには入っていない。しかし、厳しい言い方をすると、日本の福祉の仕事の大半はAIにとって代わられても問題ないように思う。実際にAIにとって代わられるかどうかは別として、日本の社会福祉の仕事の多くは(単純な)AIでもこなせるような仕事になってしまっていると私は感じる。特に、法律や制度に基づいた一辺倒な支援を提供している限りは、人がやってもAIがやってもパフォーマンスはそれほど変わらないのではないかと思う。

誤解がないように補足すると、私はAIの普及に反対ではないし、人間の能力を越えるようなAIが誕生することを期待している。それと同時に、人間の存在がAIには代わることができないものとして存続することにも期待している。

好奇心というものは現状維持を指向する人たちにとっては厄介なものだと思う。なぜなら、好奇心があると、なんでこの仕組みはうまく機能しないのか、であるとか、そもそもなんでこの仕組みになっているのか、とか、現状を批判的に検討することになるからだ。福祉の現場に限らず、共に事業を推進する部署にそのような人がいると(特に管理職にとっては)面倒なことになるので、なるべく好奇心をもたず、既存の仕組みに疑問をもたずに、与えられた仕事を粛々とこなしてほしいと思う現場の方が多いのではないだろうか。

ただし、批判的であればいいということでもない。批判的な態度には(単純な)AIでもできるような批判が少なくないと思う。特に属性に基づく批判はその際たるもので、政府や行政が発信するものを何も考えずに批判するような態度をもつ人がいたり、営利企業の営みを端から批判的に捉えたり、批判というよりも思考停止状態による否定のような態度も少なくない。同じような批判は「福祉的なもの」や「非営利活動」にも返ってくる。それらの批判は既存のイデオロギーや立場などの対立軸によって作られた反発でしかない。

好奇心に基づく批判はそうした属性や対立軸から自由なものである。対立構造や立場性を意識しないが故に「空気が読めない」ような批判が浮かび上がることがある。そうした「空気が読めない」批判を頭ごなしに否定してしまったり、たしなめてしまったりすると、その現場からは好奇心の芽が育たなくなってしまう。

好奇心に従って実践をすると、現状維持を求める圧力によって息苦しくなることがあるし、新たな取り組みや提案がうまくいかないことが多々あるので、心がもたなくなることがある。そのような状況に立たされた職員と同じ目線に立って一緒に悩んでくれる上司や同僚がいる職場では好奇心の芽が育つように思う。

好事例といわれる現場に行く時、私はこのような視点から質問をして、その現場が何をしているかではなくどのような人がどのように実践しているのかを確認する。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.66

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第263号,2022年8月.

実践の糧」vol. 66

室田信一(むろた しんいち)

教育の分野には「隠れたカリキュラム」という考え方がある。これは学校などの教育機関やそこに所属する教育者が、授業などを通して教えている内容とは別に、その授業などの形式や伝え方、使用する言語、慣習、振る舞いといった要素によって「教えている」ことを指す。たとえば、授業では民主主義の理念を教えているにもかかわらず、その教え方が封建的で閉鎖的な環境の中で教えられているとしたら、生徒は民主主義的ではない考えや価値観をその授業から学ぶことになる。したがって、表向きのカリキュラムは民主主義の理念かもしれないが、隠れたカリキュラムでは非民主主義的な理念が教えられていることがあるということである。

そうした隠れたカリキュラムというものは、通常は、意図せざる結果として生み出されてしまう教育効果のことを指す。したがって、民主主義の理念を教える教師が、必死に頑張って教えようとすればするほど、生徒に対して権威主義的になり、教師の意に反して、民主主義とは異なる理念を示すことになる。(ただし、反面教師という言葉が表すように、そのような教師の振る舞いから真の民主主義を希求する生徒が生み出される可能性は否定できない。)

この隠れたカリキュラムが生み出す状態、言い換えるならば、言ってることとやってることが違う状態、はさまざまな場面に存在する。たとえば、昨今の社会福祉領域でよく耳にする地域共生社会の政策では、住民が地域の問題に対して主体的に行動を起こすことを期待してそれを制度化している。人が主体的に何かに取り組むことと、制度化してそれを推進することは明らかに矛盾しており、政府が法に基づいて推進しようと頑張れば頑張るほど、住民は客体化されてしまうという意味で、隠れたカリキュラムが抱えている問題と構造は同じである。

そこで思うことは、市民活動団体の中には、本来、誰にとっても生きやすい社会を目指しているにも関わらず、競争を制することで自分達の組織が生き残ることを重視している(ように見える)組織が少なくないことである。メリトクラシーといわれる能力至上主義社会では競争の原理が社会の至る所に埋め込まれている。そうした競争が多くの生きづらさを生み出しているにも関わらず、その生きづらさを解消することを理念に掲げて設立されたNPO同士が資金の獲得のために競争しあうことは、仮にその結果として質の高いサービスが提供されたとしても、生きづらさを生み出す競争の原理を肯定してしまっている点で、それはマッチポンプ(偽善的な自作自演)なのではないかと思う。

近年、大小さまざまな助成事業の審査委員を務める機会が増えたため、全国津々浦々の市民活動団体のホームページや事業報告に目を通す機会が増えたが、そこには隠れたカリキュラムがたくさん埋め込まれている。どこかのタイミングで、人々がその隠れたカリキュラムを暴くことに成功した時、それらの組織に対する世の中の評価は一変するだろう。そのことを自覚していない組織は、爆弾を抱えて、その爆弾を宣伝しながら活動しているようなものである。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.65

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第262号,2022年6月.

実践の糧」vol. 65

室田信一(むろた しんいち)

先日、アメリカのブロードウェイミュージカル「レント」の来日公演を観劇してきた。演技の途中に急に歌を歌い出すミュージカルというものに、以前は馴染むことができず、関心がなかったが、「レント」が映画化された時に観てからミュージカルに興味をもつようになった。

「レント」は1990年代のニューヨークが舞台の物語である。低所得者が多く居住し、治安が悪いイースト・ヴィレッジというエリアのアパートに不法占拠して暮らす若者たちが登場する。彼らは貧困やエイズの問題に直面して、毎日を過ごすことに精一杯だけど、その一日一日を大切に生きる姿に胸が熱くなってくる。

私は高校卒業後に単身ニューヨークに留学した。当時はその動機についてうまく言語化することができなかったが、今振り返ってみると、大学進学や就職というレールがあらかじめ敷かれていて、そのレールに乗ることを強要される日本社会に違和感を感じていたのだと思う。自分の人生を生きているというよりも、社会によって生かされているという感覚が強く、何のために人生を生きているのかわからなくなっていた。

ところが、ニューヨークに行くと、そこには多種多様な人が生活していて、あらかじめ決められた人生のレールのようなものはなく、一人ひとりが自分の人生と向き合って精一杯生きているという雰囲気があった。私も、なぜニューヨークに来たのか、人生で何を達成しようとしているのか、何のために生きているのか、という問いを常に周囲から突きつけられるような感覚を得た。

しかし、人は弱い生き物で、そのように感覚を常に研ぎ澄まして生きていると徐々に疲れてしまう。疲れてきた時には休息が必要であるが、身体的な疲れよりも心の疲れの方が深刻だったりする。では、心の栄養をどこから得るかというと、同じように自分の人生と向き合っている仲間からである。人生にもがき苦しみ、だからこそ一日一日を大切に生きている仲間と出会い、彼らと想いを共有したり、苦しみを共有したり、希望を共有することで心が満たされていく。また、自分が辛くなった時に、仲間も同様にもがいているという事実が力を与えてくれる。

「レント」のストーリーの根幹はまさにそこにある。このミュージカルに登場する人物は皆「福祉的」な課題を抱えている。しかし自分の人生にオーナーシップをもって生きている。それに比べて、「福祉的」な課題は抱えていないものの、レールに乗っかって、社会の中で生かされている人生では、どちらが幸せなのだろうか。もちろん比較はできないし、人によってどちらを求めるのか分かれるだろう。

福祉の支援に携わると、どうしても「福祉的」なニーズを満たすことを重視してしまうが、「福祉的」な支援では満たすことができない側面にも光を当てることが重要だと、「レント」を観劇して改めて思った。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.64

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第261号,2022年4月.

実践の糧」vol. 64

室田信一(むろた しんいち)

新年度が始まり、新たなことに取り組む人や組織も多いだろう。新たなことに取り組む際、マニュアルがあると便利である。便利ではあるが、職種や業務の内容にもよる。たとえば、業務報告のための様式の保管場所やその提出方法について示したマニュアルは便利であり必要だと思う。しかしそうした事務手続きに関するマニュアルも、あまりに詳細に説明されているものになると、情報量が膨大すぎて、詳しい人に質問する方が早くて分かりやすかったりする。

一方、コミュニティの実践においてマニュアルはどれくらい有効なものだろうか。私はマニュアル否定派である。なぜならコミュニティが100あれば、100通りのアプローチ方法があり、さらにそこで関わる実践者によってアプローチ方法も変わってくる。マニュアルを作るには変数が多すぎるため、マニュアルを作る労力が無駄であるし、せっかく作ったマニュアルが参考にならない可能性の方が高いと思う。マニュアルをみる前に、まずはコミュニティを出歩いて、人と出会って、生の声を聞くことから始める方が良いと考えてしまう。しかし、人によってはコミュニティの出歩き方や人との出会い方、生の声の聞き方のマニュアルが必要と考えるだろう。

アメリカ人はマニュアルを作るのが得意だと思う。それがコミュニティの実践のような普遍化することが難しい内容であっても、一連の行為や活動に含まれるエッセンスを抜き出し、それを言語化することに長けている。なぜアメリカ人がマニュアル作りに長けているかと考えると、それは社会の中に共通理解の基盤が欠如しているからだと思う。移民によってつくられてきた多文化社会であるがゆえに、社会の中で共有されている「常識」があまりに少ない。したがって、ある程度の共通基盤を作らなければ、他者と共同して何かを達成することが困難なのである。共通理解が乏しい他者と共に仕事をする経験を経て、マニュアルの必要性が浮き彫りになり、それを言語化することで多くの人にとって使いやすいマニュアルが完成するのである。

それに加えて、アメリカ人はマニュアルに従うという意識が基本的に低い。そもそも共通理解がないという前提に立っているため、型通りのことをやろうと思わず、マニュアルは参考にしつつ、自分なりにアレンジしたり、自分の文化や様式に合わせてカスタマイズするということがマニュアルの使い方として浸透している。

こうしたマニュアルの捉え方は日本のそれとは大きく異なると思う。日本は「常識」を重んじ、マニュアル通りに実践することを美徳とする風潮がある。したがって、アメリカ由来のマニュアルをそのまま日本に導入しても、その受け取り方が違うため、お手本通りの実践が過度に浸透してしまうというきらいがある。ある日本の官僚が、全国的な事業を推進する際に、各地の独自性を促したいためにガイドラインをあえて作らないことがあると話していた。

そう考えると、日本人の気質を考慮して、草の根のスキルアップと実践の言語化の方策を模索することが必要なのかもしれない。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.63

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第260号,2022年2月.

実践の糧」vol. 63

室田信一(むろた しんいち)

最近、社会福祉の領域でアセットという言葉をよく耳にするようになったが、私はこの概念の使用について慎重にするようにしているので、今回はその理由について書きたいと思う。

アセットとは資産の意味で、社会福祉でよく用いられる資源と類似の概念であるが、資源には含まれていないニュアンスが伴う。アセットという概念は、私の理解では、経済的な自立を支援するという文脈において用いられるようになった。生活扶助のように日常的な収入(フロー)を支援する政策に対して、資産形成のように自立に必要な貯蓄(ストック)を支援する政策の重要性が指摘されるようになり、アセットに注目が集まった。たとえば、ヨーロッパの福祉国家では、若者が自立した生活を始めるための資産形成を支援するような政策が推進されるようになった。そうした最低限必要な資産のことをベーシック・アセットと呼ぶ。

上記のような経済的な基盤としての資産への注目とは少し異なる意味で、アセット・ベーストという概念も最近よく耳にする。アセット・ベースト、すなわち資産の視点に基づくという意味であるが、これは不足の視点に基づく考え方へのアンチテーゼとして登場した。不足の視点とは、いわゆるサービス提供型の福祉のことで、ニーズに基づいて資源を提供するという考え方である。それに対してアセット・ベーストの考え方では、当事者やコミュニティが保持する資産に注目し、その資産が活用されるように働きかけるという発想である。例えば、介護サービスが必要な人がいたら、そこにサービスを提供するのではなく、コミュニティの資産を活用することで、すなわち地域住民の積極的な参加を促すことにより、コミュニティの中でニーズを満たす仕組みを作るという発想である。昨今の日本における地域包括ケアや地域共生社会と近い考え方といえる。当事者やコミュニティは資源を有しているという発想は賛同できるが、サービス利用ではなく地域の相互扶助を求めるという発想は、公的な支援の後退を後押しするものであり危うさを感じる。

アセットに対する私の違和感はこれだけではない。アセット・ベーストの考え方は、コミュニティの中の資産が大きくなること、いわゆるプラスサムな状態を目指すものである。これに対して、たとえば、限られた公的予算を求めてパイを奪い合うような働きかけはゼロサムな発想に基づいており、批判されることがあるが、私はこのゼロサムを否定する発想が最も危険だと思っている。なぜなら、支援の対象から除外されてきたような厳しい状況に置かれた当事者にとって、たとえゼロサムになったとしても、自分達の利益になるのであれば、パイを勝ち取ることは意味があることだからだ。ゼロサムを否定して、プラスサムを求める発想自体が、既得権を有する立場の人間の発想であり、だからこそ制度を維持するためにもプラスサムという考えが生まれてくるのだと思う。

このように考えると、アセットという概念にはどこか既存の価値観やモノサシを前提としている点があり、それ故のきな臭さが伴う。流行りの概念だからと安易に使用することには気をつけなければならない。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.62

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第259号,2021年12月.

実践の糧」vol. 62

室田信一(むろた しんいち)

自分の子どもが思ったように育たないというのはよく聞く話である。私の長男は小学校4年生になるが、外交的な子で、友人が多く、放課後に友達と遊ぶことが多い。コロナ禍で友達と遊ぶことが憚られる期間を経て、感染症対策の観点から家の中に友達を入れることがあまり望ましくない中、家の外であれば遊んでもいいだろうということで、1年ほど前から我が家の庭先に息子の友達が出入りするようになった。私の家は奥まった路地にあり、近所の住民以外はほとんど出入りがないので、道路で子どもが遊んでいても危険があまりないということも息子たちにとっては好都合であった。

しかし、小学校4年生の男の子たちには「他人の迷惑」という視点が著しく欠如しているため、自転車がバラバラに放置されたり、お菓子のゴミが落っこちていたり、大きな声で騒いだりといったいわゆる「迷惑行為」があとを絶たなくなった。息子を通して、時には直接、子どもたちを注意するが、あまり効果はない。庭先で遊ぶ際のルールのようなものを提示するが、すぐに忘れ去られてしまう。我が家の前で遊ぶことを禁止すれば話は早いと思うが、結局は「遊び場難民」の子どもたちが生み出されることになる。

そんな折、息子から、あまりに騒がしいのでご近所さんから注意されたという話を耳にした。それを聞いて私は嬉しかった。今のご時世、近隣の子どもを注意してくれる大人が減ってきている。いわゆる「孤育て」が当たり前になり、地域で子どもを育てるという風潮が減ってきているからだ。近隣の迷惑になるという理由もあって、家に子どもを閉じ込めてしまいがちで、テレビゲームをしてくれている方が親にとっては楽という現実がある。

私は普段から人の主体性を大切にするということをよく口にしていて、子育てに関しても子どもの主体性を大切にしたいと考えている。したがって、子どもに大人のルールを強要するのではなく、子どもたちの考え(自由)が大人の考え(規範)に抵触することがある場合、そのこと自体に子どもたちに向き合ってほしいと思っている。過保護に子どもたちを守ることでもなく、頭ごなしに否定することでもなく、他者とともに生きる時にはそれぞれの自由が干渉することがあるということを知ってほしいし、そのような衝突との向き合い方や付き合い方を経験してほしいと思っている。そのためには当然、一人の人格として子どもたちに向き合う態度が大人たちにも求められる。ご近所さんが子どもを注意したという話を聞いて、この地域にはそのような価値観が根付いているのではないかという期待があった。

そこで、私の提案で、ある日曜日に、いつも集まっている子どもたちに集まってもらい、子どもたちが準備をして焼きそばを作り、普段迷惑をかけていることのお詫びをしつつ、焼きそばを配るという企画を実行した。私の意図としては子どもたちと近隣の大人たちとの対話の場を作るということであった。集まった大人たちから、子どもたちへ注意してほしいことなどを伝えてもらえることを望んでいた。息子の手書きの手紙(招待状)を近隣に投函したところ、「子どもは騒がしいものだから、気にしなくていい」と温かく言ってくれる住民が何人か顔を出してくれた一方で、息子に注意をしてくれた住民からは親宛ての手厳しい手紙が届いた。これ以上子どもたちを路地で遊ばせないでほしいというメッセージであった。厳しいが、それが現実である。

地域共生社会の議論もそうであるが、地域の中で住民が共に生活するということは、そこに当然衝突も生まれてくる。その衝突と向き合い、対話することで市民としてのリテラシーが高まると私は信じている。子どもの主体性を重んじるということは、子どもたちにそうした経験を積んでもらうことであり、大人の役割はそうした環境を整えることなのではないかと思っている。近隣から怒られることは辛いが。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.61

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第258号,2021年10月.

実践の糧」vol. 61

室田信一(むろた しんいち)

今や日本のプロスポーツリーグとしてすっかり定着したJリーグだが、1993年のリーグ発足にあたっては、多くの人や組織が関わり、サッカーが文化として日本に根付くための戦略が練られ、それを実現するために多くの資源が投入されていた。私は当時中学生だったが、発足時の盛り上がりを今でも鮮明に覚えている。海外から、キャリア晩年期であったものの、スタープレイヤーたちが招聘されて、リーグを盛り上げていたことも印象的だった。

Jリーグ発足以前も日本にサッカーリーグはあった。プロリーグではなかったが、サッカー文化は少なからず根付いていた。しかし、おそらくJリーグを発足しなければ、日本のサッカー文化が今日のように盛り上がることはなかっただろう。

ある活動を地道に継続することが、その活動に関わっている一部の人たちにとって基盤を形成することは疑いないが、その活動がより広範な人々の関心にまで及ぶ可能性は低い。その活動を支えている考えや文化が、活動の中核にいる人たちから世間一般に浸透するためには、普段の活動の継続だけで達成することは難しい。そこには戦略が必要であり、資源の投入が必要である。

地域の活動においても同じことが当てはまる。ある地域に住民主体の地道な活動があるとする。活動している本人たちはその活動に満足していて、地域の住民もその活動を支えているし、その活動から恩恵を受けているとしよう。しかし、隣の地域では同様の活動は存在しない。住民は同様の活動を望んでいるが、誰かが声を上げて、イニシアチブをとって行動を起こさない限り、その地域で同様の活動が生まれることはない。そのような時に、地域住民ではなく、コミュニティ・オーガナイザーなどの第三者が関与することがある。地域で集会を開いて、住民の声を集めたり、活動の中心になり得る人たちと会議を繰り返すことから活動が生み出される契機を模索する。そのように第三者が意図的に働きかけない限り、その地域では地域活動が生み出されなかったかもしれない。少なくとも近いうちには。

私はそのような地域への「介入」をドーピングと呼んでいる。ドーピングによって導かれる結果は本来の力ではない。ドーピングに依存し続ける地域は、むしろ本来の力を削ぎ取られてしまうだろう。かつて国際協力の現場では、パラシュート部隊のように資源を投入する一方的な介入が行われていて、そのような介入は地域の力を奪うことになっていた。スポーツ界におけるドーピングという行為を肯定するつもりはないが、地域への一時的で意図的な介入が効果を発揮することは珍しくない。しかし、その介入は第三者による人工的なものなので、戒めも含めてドーピングと呼ぶことにしている。

Jリーグは一夜にして完成したわけではない。すでに下地として実業団チームがあり、サッカー文化の下地ができていた。そのサッカーという文化圏を一層広げるためにはドーピングが必要だった。地域活動も一部の人にとっての活動にとどまっているが、サッカーがこれだけメジャーになったことを考えれば、地域住民の3割、いや5割が地域活動に参加するような社会を夢見てもおかしくないだろう。そうそう、「キャプテン翼」がサッカーブームの引き金になったことを考えると、まずは地域活動をテーマにしたアニメ制作から着手しようか。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.60

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第257号,2021年8月.

実践の糧」vol. 60

室田信一(むろた しんいち)

先日、障害者にかかわる日本の制度改革や障害者の社会参加を促進することを目的に活動してきているDPI日本会議という団体の副議長の尾上浩二さんのお話を伺う機会があった。尾上さんがこれまでに関わられてきた様々な取り組みには、大阪の地下鉄のエレベーター設置を要求する活動や、自立生活センターの立ち上げ、障害者自立支援法制定反対行動などがある。それらの取り組みはどれも重要な活動で、活動の舞台裏も含めてお話を聞くことができたことは大変勉強になった。しかし、私が最も感動したことは、尾上さんがご自身の経験してきたことや、その当時の状況などを説明する際の語り方であった。

尾上さんは過去にご自身が取り組んできたことを大袈裟に話したりドラマチックに話したりすることはなく、それでいて事実だけを伝える冷たい話し方でもなく、内に秘めた情熱に支えられた真摯な実践を丁寧な言葉で表現してくださった。実践の現場では、厳しい現実について語ることで共感を得ようとすることや、希望的な観測を示すことで支持を得ようとすることが効果的な語り方として用いられることもあるが、そうした表面的な語りのテクニックは全く見られなかった。尾上さんの語り方からは、したたかな現状分析に基づく実直な実践を積み重ねてきたことがよくわかったし、だからこそ現実社会に確実に変化を与えてきたことが確認できた。その眼差しの先にさらなる変化を求めていることが伝わったが、かといって野心のようなものを感じることはなく、日々の実践の先に変化を生み出していくことへの覚悟のようなものを感じ取ることができた。

尾上さんの話を伺っていると、私がアメリカで出会ったコミュニティ・オーガナイザーたちの姿が思い出された。私がかつて住んでいたアメリカのニューヨーク市には、コミュニティが直面しているさまざまな生活上の課題や人権の問題など、個人では変化を起こすことができない状況に対して、コミュニティが連帯して働きかけられるように、そのコミュニティに関与するコミュニティ・オーガナイザーたちがたくさんいた。「社会を変える」というとマスメディアで取り上げられるような世間の注目を集める大きなキャンペーンが想像されるかもしれないが、実際は名もなきオーガナイザーたちが、コミュニティの中で住民と対話を繰り返し、作戦を練り、変化を求めて各方面に貪欲に働きかけている。

私もかつてはそうした姿勢を大切にしていたはずなのに、いつからか変わってしまったように思う。具体的な変化が日々生み出される実践の現場に対して、私が今いる場所は具体的には何の変化も生み出すことをしていない。現実を可視化して記述したり、分析して説明したり、もしくは批判的に検討したりすることが研究者としての役割であると自認しているが、具体的な変化とは程遠いところにいるように感じる。研究者には研究者の役割があると開き直ることもできるが、今書いているこの文章も含めて、虚構を生み出している行為にすぎないと感じている。

以前この連載で『サピエンス全史』を取り上げて述べたように、人間社会とは虚構によって成り立っているものだと、自分の行為を肯定することもできるが、やはり実践に裏付けられた言葉の重要性について、虚構と批判されたとしても、これからも悩み続けていきたいと覚悟を新たにした。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。