Border-less Society

先日、日本社会福祉学会が開催した第2回政策理論フォーラムに参加してきた。第一回目についても、このブログで書いたけど、今回は、地方分権化の政策形成に社会福祉は寄与できるかと言うテーマでシンポジウムが行われた。札幌で行われたと言うこともあり、100人ちょっとの参加であったが、 その内容はとても濃いものであった。
政策の視点、財政の視点での発表、そして、実践を行ってきた元鷹巣町町長を含めた実践論者の発表と、後戻り無しのシンポジウムであった。学者は、比較的自分の立場を守るためにも、あそこまで幅広い視点を盛り込んだシンポジウムにはなかなか参加しないものだと思うが、それぞれが、それぞれの経験と専門性から、主義主張を行い、最終的には「研究者がいかに政策形成に寄与できるか」や「社会福祉がいかに政策形成に関与できるか」といった部分にまで到達した。本来は、そういった議論から始まってもいいと思う。
さて、今回は、フォーラムの内容ではなくて、別のことについて書きたいと思う。今回の旅行中、札幌市内を観光する時間が多少あったので、有名な赤レンガ庁舎(旧北海道庁)へ行ってきた。なかなか立派なこの建物の中には、北方領土に関する資料館もあった。ここで学んだことは、終戦後、当時のソビエト軍が北方領土を占領したわけだけど、占領下においても、多くの日本人がそこに暮らしていたと言うことだった。ある意味、誰が国を占領しようと、奴隷のように強制労働を強いられたり、何かしらの自由が剥奪されない限りは、健全な経済活動を行うことで、基本的には生活は変わらないと思う。しかし、ソビエトが北方領土占領後に行ったことは、ロシア語を公用語とし、日本の貨幣の使用を禁止した。つまり、文化的な抑圧を行ったと言うことだ。これは大きい。
今回のコラムで僕が伝えたいことは、「北方領土返還!」といった政治的なメッセージではない。大切なことは、個人の視点から北方領土の占領を考えることだと思う。個人に対しての直接の影響力を考えたとき、マクロレベルでどの国が戦争に勝ったとか、負けたと言うことは、そこまで大きくはないと思う。もちろん、国の代表を精神的な支えとしてきたものにとって、その代表者を失うことは精神的なダメージとなることは理解できる。しかし、例え敗戦であったとしても、戦時中より、終戦後のほうが平穏な暮らしを得たというケースがほとんどの戦争に当てはまるのではないだろうか。だとしたら、何故ゆえに生死をかけて戦争を行う必要があるのか。それは、文化や習慣という、自己を形成している重要な要素を奪うという暴力的な行為に対しての反発から来るものと思われる。人間の全体性を考えたときに、言語や、習慣、信仰、風習などの生活のバックボーンを失うということは、自己を否定されるも同然であり、例え衣食住といった生活の保障があっても、自己の存在理由という面での存在否定になるだろう。
そうした、自己の存在を否定するような環境は、戦争や植民地化に限らず、60年以上戦争を経験していない日本においても多く見られるのではないだろうか。例えば、会社が倒産したため、自己破産申請を行い、離婚を余儀なくされ、家族と離れてホームレスとなった人や、受験戦争について行くことができず、学校を中退し、引きこもりとして暮らしている若者たち、または、社会のレールから飛び出す勇気を持てずに、自己の価値観と社会の価値観の違いに葛藤を持ちながら、自殺という選択肢を選んだ人たち、さらに付け加えると、自殺という選択肢を選ぶ事はしないものの、自分の存在理由を肯定することができずに、葛藤を抱え、精神疾患を患うもの。戦争や、暴力的侵略の被害者ではないものの、社会的・精神的な被害者である、こうした人々は、社会の難民であり、心の難民である。
近年ヨーロッパでは、こうした状況にある人々に対して、Social Exclusion(社会的排除)という言葉を用いて状況を説明し、Social Inclusion(社会的包含)という政策目標を掲げている。若年失業者などもその対象である。こうした政策的な言葉を用いることで、問題の社会化は可能であるが、逆に、問題の脱人間化が進んでしまうと思う。個人の責任を問わない脱個人化とは違い、脱人間化は、一人ひとりのポテンシャルを引き伸ばすことで問題に対峙するというスタンスが失われることにある。つまり、社会的排除などという言葉を用い、社会的な問題を明確にすることで、逆に個人個人がそれぞれに抱えている問題をぼやかしてしまう。
コミュニティ・オーガナイザーの対象は社会であり、コミュニティであり、集団である。しかし、それは、その社会や、コミュニティや、集団における「個人」に目を向けないということではない。個人の集合体として成り立っている、社会、コミュニティ、集団を変えるのは、マクロな政策だけでは無く、個人の考えや、気持ち、態度、モラル、規範、習慣、信条、信仰などであり、有機的な個人の変化をマクロの変化に結びつけることがコミュニティ・オーガナイザーの役割である。本当に、それだけの話。それが、難しい。
戦争や、侵攻による力の植民地化・奴隷化と同じ、いやそれ以上に、社会の仕組みや政策によって引き起こされる社会的・精神的植民地化・奴隷化は人々の人生に影響を与える。そして、社会を根っこから腐敗させる。オーガナイザーはそうした土壌に鍬を入れて、耕し、社会にとって最善の土壌を用意することをやっていかなくてはならない。この、鍬を入れるのが大変なんだけどね。

CO道

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