We speak the same language

さて、このブログもすっかり御無沙汰になってしまいました。というのも、最近は福祉の現場からずいぶん遠ざかってしまってるからなんだよね。NYでの仕事を辞めて、ちょうど8ヶ月くらい経ったかな。
日本に帰ってきてから、福祉のフィールド、NPO、市民活動、行政、研究などの現場を見てきて、いろいろ勉強させてもらっているけど、やっぱり自分がフィールドにいないと何で福祉について考え、学ぶ必要があるのかがわからなくなってきてしまうような気がする。でも、日本に帰ってきてから友人などサラリーマンの生活の現状を見てきて思ったのは、夢も希望もない雇用状況だけど、今はとりあえず働くしかないといった悲壮感に満ちた生活状況を何とかしたいなということです。(僕の勝手な理解なのかもしれないけどね。)そんなこと言っても、今の日本の経済状況からして、贅沢は言ってられないとか、そういった議論ではなく、選択肢と機会のある社会になればいいとおもう。選択肢が無くて、不満を抱えた現状を維持することしかできないという状況が一番苦しいとおもう。
まぁ、そういった気持ちを持ちながらいろいろ考えているけど、結局何もできていないから、内側と外側のバランスが崩れてきつつあります。その結果が、「言語」の問題なのかなとおもう。
ここでいう「言語」とは人と人が繋がるための思考回路といったことだけど、もっと平たく言えば、相手の気持ちになって話ができるかということだとおもう。これって、オーガナイザーにとってはすごく大切な資質なんだよね。英語の表現で”We speak the same language”という言い回しがあるけど、これは「英語」をという言語を話しているということではなくて、例えば、初めて誰かと出会って話をしていると、同じ思考でものを考えていることにお互い気づいて、すっかり一致団結したときにこういう言い回しをよくします。
福祉のフィールドに限らず、人と何かを協力して行うということは、お互いの意思の疎通がとても大切で、ましてや福祉となると、とかく慈善活動と受け止められがちなだけに、当事者とソーシャルワーカーの間の関係でどこまで感覚を共有できるかというのはひとつの課題であると思う。ソーシャルワーカーの立場としてセツルメント・ワーカーのように現場に住み込んで(昔の話だけど)当事者の立場に立って物を考えるというアプローチもあれば、ケース・ワーカーのように自分の担当するケースから一線を引いた立場を重要とする考えもある。
しかし、オーガナイザーにとって、多くの人と感覚を共有できることって、大切な資質だと思う。オーガナイザーの役割とはコミュニティの声や隠れたニーズを読み取り、ひとつの声としてまとめることで、個人では解決不可能な問題に対して働きかけるための触媒のようなものだと思っている。しかし、その触媒がさまざまな要素と反比例していたのではいつまでたってもコミュニティはひとつにまとまらない。だからこそパートタイムのオーガナイザーなんていうのはありえないわけである。
そういう理由からか、現在自分がフィールドを持っていない状態がどうもしっくりこない。誰のためにどういった活動をして、自分がどのように成長するべきなのか見えてこない。ちょっと脱線するけど、中学や高校で受験勉強をしろといわれてもまったくその気になれなかったのは、誰のための勉強かと言うのがわからなかったからだと思う。想像力の欠如なのかもしれないけど、自分の能力が誰かの生活向上に役立つというつながりが見えないと、何のために勉強するのかが見えてこなくなる。それもLanguageにつながると思うんだよね。
いくら高度な社会福祉政策などを学んでも、いざ現場にそれをもって行く際に全く違ったLanguageに変えないと当事者には全く通用しない。当事者が理解できない限り、参加型のまちづくり・民主主義なんてものは成り立たない。だからこそ、オーガナイザーの触媒としての役割って言うのは大切なんだな。
最近現場から離れて、勉強ばっかりだから、だんだん現場のLanguageを話せなくなってきている。早く現場に着かないとな。

CO道

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