シリーズ『実践の糧』vol.37

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第234号,2017年10月.

実践の糧」vol. 37

室田信一(むろた しんいち)

私は大学で社会福祉の導入の授業を担当している。人文・社会という広い関心を抱いて入学し、1年間教養を学んだ2年生が、社会福祉学を専攻として選び最初に必ず受講する専門科目が私の授業になっている。その初回の授業で私は学生に次の課題を与える。

社会福祉にかかわる「なぜ」や「どうして」について思いつく限り書いてください。

社会福祉学を専門的に学んだことのない学生がどのような認識や印象を抱いて社会福祉学を受講するのか、この質問にはそれを確認する意図がある。面白いことは、社会福祉を学んでしまうと出てこないような根源的な問いが出てくることだ。「なぜ、社会福祉が必要なのか」「なぜ、虐待は起こってしまうのか」「なぜ、生活保護受給者が生まれるのか」「なぜ、保険制度や手続きをもっと簡単なものにできないのか」といった質問である。

こうして出された質問に対して、授業一回を使って、学生に議論してもらうことにしている。受験勉強で一つの正解を導き出すことに慣れてきた学生に、人の生活や社会の現象、またそのあり方に対して一つの正解があるわけではないということを、一緒に考えてもらうことにしている。

毎年、それらの問いに答えてもらう前に、次のような例を示す。「なぜ、砂糖は辛いのか。」

この問いに対して、学生からは「砂糖は辛くない」という答えが返ってくる。地球の何処かには辛い砂糖があるかもしれないが、多くの場合砂糖は辛くない。したがって、この問いは間違った認識に基づく問いである、ということを確認する。

というのも、学生が挙げる問いの中には間違った認識に基づく問いが少なくないからである。「なぜ、野宿者は生活保護を受けることができないのか」「なぜ、日本は低福祉低負担を選択しているのか」「なぜ、社会福祉の仕事に従事する人は忙しいのか」といった問いである。これらの問いは、該当する側面があるかもしれないが、前提としている認識について問い直すことが求められる。

実は、学生に限らず、行政や現場の専門家がこうした間違った認識に基づいて問題意識を抱くことは少なくないのではないだろうか。「経済が停滞すると生活が悪化する」「高齢化で地域活動の担い手が不足する」「予算をつけなければ地域の取り組みは安定しない」などの認識を前提に施策や取り組みを考えていることが少なくないように思う。そのような前提は、現象レベルでは当てはまるように見えるかもしれないが、社会構造としては普遍的なものではないはずである。もしくは良い・悪い、成功・失敗のものさしがその狭い構造に限定されたものになっている可能性が高い。

このような思考は浮世離れしているという指摘があるかもしれない。それでも、現場がこのような根源的な問いをもった時に社会は大きく変わってきたのではないだろうか。

砂糖は甘いという認識を身につけた上で、改めて辛い砂糖の存在について探求することが求められる。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

実践の糧