シリーズ『実践の糧』vol.64

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第261号,2022年4月.

実践の糧」vol. 64

室田信一(むろた しんいち)

新年度が始まり、新たなことに取り組む人や組織も多いだろう。新たなことに取り組む際、マニュアルがあると便利である。便利ではあるが、職種や業務の内容にもよる。たとえば、業務報告のための様式の保管場所やその提出方法について示したマニュアルは便利であり必要だと思う。しかしそうした事務手続きに関するマニュアルも、あまりに詳細に説明されているものになると、情報量が膨大すぎて、詳しい人に質問する方が早くて分かりやすかったりする。

一方、コミュニティの実践においてマニュアルはどれくらい有効なものだろうか。私はマニュアル否定派である。なぜならコミュニティが100あれば、100通りのアプローチ方法があり、さらにそこで関わる実践者によってアプローチ方法も変わってくる。マニュアルを作るには変数が多すぎるため、マニュアルを作る労力が無駄であるし、せっかく作ったマニュアルが参考にならない可能性の方が高いと思う。マニュアルをみる前に、まずはコミュニティを出歩いて、人と出会って、生の声を聞くことから始める方が良いと考えてしまう。しかし、人によってはコミュニティの出歩き方や人との出会い方、生の声の聞き方のマニュアルが必要と考えるだろう。

アメリカ人はマニュアルを作るのが得意だと思う。それがコミュニティの実践のような普遍化することが難しい内容であっても、一連の行為や活動に含まれるエッセンスを抜き出し、それを言語化することに長けている。なぜアメリカ人がマニュアル作りに長けているかと考えると、それは社会の中に共通理解の基盤が欠如しているからだと思う。移民によってつくられてきた多文化社会であるがゆえに、社会の中で共有されている「常識」があまりに少ない。したがって、ある程度の共通基盤を作らなければ、他者と共同して何かを達成することが困難なのである。共通理解が乏しい他者と共に仕事をする経験を経て、マニュアルの必要性が浮き彫りになり、それを言語化することで多くの人にとって使いやすいマニュアルが完成するのである。

それに加えて、アメリカ人はマニュアルに従うという意識が基本的に低い。そもそも共通理解がないという前提に立っているため、型通りのことをやろうと思わず、マニュアルは参考にしつつ、自分なりにアレンジしたり、自分の文化や様式に合わせてカスタマイズするということがマニュアルの使い方として浸透している。

こうしたマニュアルの捉え方は日本のそれとは大きく異なると思う。日本は「常識」を重んじ、マニュアル通りに実践することを美徳とする風潮がある。したがって、アメリカ由来のマニュアルをそのまま日本に導入しても、その受け取り方が違うため、お手本通りの実践が過度に浸透してしまうというきらいがある。ある日本の官僚が、全国的な事業を推進する際に、各地の独自性を促したいためにガイドラインをあえて作らないことがあると話していた。

そう考えると、日本人の気質を考慮して、草の根のスキルアップと実践の言語化の方策を模索することが必要なのかもしれない。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

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