シリーズ『実践の糧』vol.63

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第260号,2022年2月.

実践の糧」vol. 63

室田信一(むろた しんいち)

最近、社会福祉の領域でアセットという言葉をよく耳にするようになったが、私はこの概念の使用について慎重にするようにしているので、今回はその理由について書きたいと思う。

アセットとは資産の意味で、社会福祉でよく用いられる資源と類似の概念であるが、資源には含まれていないニュアンスが伴う。アセットという概念は、私の理解では、経済的な自立を支援するという文脈において用いられるようになった。生活扶助のように日常的な収入(フロー)を支援する政策に対して、資産形成のように自立に必要な貯蓄(ストック)を支援する政策の重要性が指摘されるようになり、アセットに注目が集まった。たとえば、ヨーロッパの福祉国家では、若者が自立した生活を始めるための資産形成を支援するような政策が推進されるようになった。そうした最低限必要な資産のことをベーシック・アセットと呼ぶ。

上記のような経済的な基盤としての資産への注目とは少し異なる意味で、アセット・ベーストという概念も最近よく耳にする。アセット・ベースト、すなわち資産の視点に基づくという意味であるが、これは不足の視点に基づく考え方へのアンチテーゼとして登場した。不足の視点とは、いわゆるサービス提供型の福祉のことで、ニーズに基づいて資源を提供するという考え方である。それに対してアセット・ベーストの考え方では、当事者やコミュニティが保持する資産に注目し、その資産が活用されるように働きかけるという発想である。例えば、介護サービスが必要な人がいたら、そこにサービスを提供するのではなく、コミュニティの資産を活用することで、すなわち地域住民の積極的な参加を促すことにより、コミュニティの中でニーズを満たす仕組みを作るという発想である。昨今の日本における地域包括ケアや地域共生社会と近い考え方といえる。当事者やコミュニティは資源を有しているという発想は賛同できるが、サービス利用ではなく地域の相互扶助を求めるという発想は、公的な支援の後退を後押しするものであり危うさを感じる。

アセットに対する私の違和感はこれだけではない。アセット・ベーストの考え方は、コミュニティの中の資産が大きくなること、いわゆるプラスサムな状態を目指すものである。これに対して、たとえば、限られた公的予算を求めてパイを奪い合うような働きかけはゼロサムな発想に基づいており、批判されることがあるが、私はこのゼロサムを否定する発想が最も危険だと思っている。なぜなら、支援の対象から除外されてきたような厳しい状況に置かれた当事者にとって、たとえゼロサムになったとしても、自分達の利益になるのであれば、パイを勝ち取ることは意味があることだからだ。ゼロサムを否定して、プラスサムを求める発想自体が、既得権を有する立場の人間の発想であり、だからこそ制度を維持するためにもプラスサムという考えが生まれてくるのだと思う。

このように考えると、アセットという概念にはどこか既存の価値観やモノサシを前提としている点があり、それ故のきな臭さが伴う。流行りの概念だからと安易に使用することには気をつけなければならない。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

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