今日は、島根県松江市における実践の話。
僕は、自分が師事している先生の関係で、島根県松江市の地域福祉活動に少しずつ関わり始めている。松江市は人口20万弱(合併以前は約15万)の中国地方を代表する都市で、空襲や震災にあわなかった市内は、きれいな城下町がのこっている。 旧松江市内は21の小学校区に分かれていて、各校区には地区公民館が一つ存在する。今年、ミネルヴァ書房から出版された「松江市の地域福祉計画」という本を読めば詳しい内容が書いてあるが、松江市の地域福祉の基本はその公民館における地域活動にある。日本でコミュニティを語る上で、公民館の存在は無視できないと思う。そもそも公民館は「教育」の一環として位置づけられていて、文部科学省の管轄下にある。つまり、地方自治体レベルでは教育委員会が管理している。日本に限らず、行政とはタテ割りのもので、教育委員会と市の福祉課が協働するということがあまりない。それを当たり前と思い、教科書どおりの勉強をしていると、公民館は「生涯教育」という教育の一環としてしか理解しないで、地域全体のダイナミズムを無視してしまいがちなんだな。住民としてみれば、公民館の管轄が教育委員会であれ、福祉課であれ、市民活動推進課であれ関係ない。地元の施設であり、立ち寄りどころであり、身近にある公の施設なわけだ。
この「身近な公」と言うのが結構大切で、「公」となると、急に遠い存在になってしまいがちだけど、公民館の場合「身近」なわけだ。その身近さが親近感を持つことに役立つし、参加する上での敷居が低くなるし、主体性を持って地域住民が管理することにつながりやすい。
そんな、地域の活動の拠点であるはずの公民館は日本全国津々浦々に存在しているが、地域によってそれを有効利用しているところもあれば、全く機能させていないところもあると思う。地域福祉が盛んな自治体は公民館をうまく利用しているところが多いように思う。いや、公民館を利用して、地域住民がつながっている自治体こそ、地域福祉を推進することができていると言えると思う。
例えば、松江市の公民館の場合、自主運営方式をとっていて、住民が会員となって一年間会員費を支払うことで利用できるようになっている。会員費といっても一世帯につき年間700円程度の話である。しかし、その700円を支払うと言う行為が、住民の帰属意識を高め、自分たちの施設であると言うownershipをつくりだすことに役立っている。また、松江市の公民館を訪ねて驚いたことは、どれもきれいに整備されていることである。バリアフリーへの取り組みや、男性のトイレに赤ちゃんのオムツ交換のための台が取り付けられていたり、冷暖房は無駄をなくすために、コイン式だったりと、そうした細かいソフト面での気配りが、ハード面としても現れている。今回のタイトルでも書いているとおり、人間が何かの活動を行うときに、そこには共通の理念のようなものが存在し、共通の価値観を生み出し、共通の感情や感覚を持つことでひとつの組織化された活動となるわけだ。それが、福祉団体やNPOなど、その理念が中心で活動していると、理念(ソフト)ばかりが先行してしまい、ハード面に目が行かなくなってしまいがちである。例えば、障害者が働けるレストランを開くときに、確かに営利にはつながらないかもしれないが、障害者の雇用機会の平等や促進と言う理念と同じくらいに、当事者やレストランのお客さんにとって心地よい空間を提供することが大切になる。レストランだからと言うわけではなく、NPOなどの事務所を含めて、人の活動拠点となる場所には、ハード面でのそれなりの配慮が必要だと思う。そして、そのハード面での気配りが、利用する人や訪問する人の心に通じて、ソフト面として帰ってくる。そうしたプラスの循環をつくりだすと思う。それが、ソフト面にだけこだわっていて、ハード面をなおざりにしていては、不の循環がうまれ、いずれソフト面にまで影響が生まれてしまう。
松江市の公民館に行ったときの、あのなんともいえない居心地のよさと、その施設を使えることの喜びみたいな感覚は大切だと思う。それが「公」の施設だと言うことが、重要。ニューヨークのセントラルパークのようなものでもあるし、札幌のモエレ沼公園のようでもある。コミュニティ・オーガナイザーはそうした、人間の微妙な感覚を大切にしないとね。そういった意味では、建築家や都市計画に携わる人と、コミュニティ・オーガナイザーとはいろいろな面で共通する部分があるのではないだろうか。