Curiosity

僕は、そもそも争いごとが好きではない。これは、なぜだろうか。
相手よりも優位な立場に立つことは、いやなものではないが、相手と一対一で勝つということに、快感を覚えない。どちらかと言うと、優劣の結果と言う「答え」が持つ可能性の限界のようなもの(というよりも、可能性の限界を設定するような感覚)に魅力を感じない。二人が協力することで、いろいろな可能性を秘めているはずなのに、二人のなかで優劣を決めること自体、たとえそれが将来的に逆転するにせよ、窮屈さのようなものを感じてしまう。何で、その窮屈さを感じるのかはわからない。確かに、切磋琢磨することでお互いが能力を引き出しあうことができると言う構造は理解するし、否定もしない。
おそらく僕が求めているものは、人間の脳をひたすら絞って生まれてくるエキスではないような気がする。つまりは、自分の外からの様々な刺激によって生まれる「新しいもの」に対して好奇心があるのだと思う。自分の脳をひたすら絞って、相手とぶつかり合ったって、そこから生まれるものには限界があるけど、地球や宇宙から受ける、たくさんの不確定要素を取り込むことで生まれてくる、未知の世界のようなものに惹かれているのだと思う。だから、競争社会よりも、多様性を受け入れる社会の方がずっと居心地がいいし、楽しい。
そんなことを、羽生善治さんと茂木健一郎さんの対談(「勝負する脳!」2007年2月発売)を読んでいて思った。それは、羽生さんが相手の先を読む将棋の限界を感じて、新たな可能性を秘めたうち方を試み始めたことに通じると思うし、茂木さんが言う、本来、得と思われない行動を取るときの人間の真理に隠された「長期的に見ると、そこに何かいいことがあるかもしれない」という感覚と同じだと思う。
そもそも、COとはそうした多様な考えの中に秘めた可能性を抽出するような活動だと思う。みんながお互い競争しあって、一番を決めて、その一番が決めるルールにのっとって生きていたって、全然発展性がないものね。それだったら、みんなでいろんな可能性があるということを探り合って生きていた方が発展性がある。でもまぁ、生産性という言葉になると、弱いかもしれないけどね。僕は、ここで生産性の議論をしたいのではなくて、人間の中に秘められた、好奇心と言う名の発展性の話だから、労働の商品化の話とかには言及したくないし、全く見当違いになってしまう。
コンピュータが確実に勝つ将棋の打ち方を計算しつくしたからって、競争による発展に限界が来たとは思わないし、コンピュータのめまぐるしい発展で計算による論理的な思考が一定のレベルに到達したなどとも思っていない。そもそも競争が好きではないので、論理的vs.創造的みないな構造自体、考えてもいない。
大切なことは、可能性を秘めた生命体同士が結びつくことによって生まれる可能性の相乗効果をどのようにつくりだせるかと言うことだと思う。みんなバカじゃないので、好奇心を求めながらもちゃんと生産的な生活をするわけだからさ。今必要なことは、どうやって創造的で発展的な思考の渦を作れるかということでしょ。そんでもって、それに向かって、どうやって行動するかってことでしょ。

CO道

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