半強制とon-demand

ずいぶんとブログから遠ざかっていましたが、年末だし、大掃除もひと段落したし、ちょっといろいろ思索にふけってみます。。。というよりも、今までため込んでいて書けていなかったものの年末大売出しというところでしょうか。
先日、数年ぶりに東京ボランティア・市民活動センターへ行ってきました。というのも、今度の2月8日から10日にかけて行われるボランタリーフォーラムTOKYO2008の企画に携わっているからです。このフォーラムの企画には2年前から携わって、昨年はノータッチでしたが、今年は関西から特別参加させていただいています。このブログでも以前触れたかもしれないけど、市民フォーラムという形態は今日のCOを推進するうえでの一つのツールとなったと思う。まぁ、ある意味ソクラテスが古代アテナイの道端で道行く人たちと対話を行っていたことと実質は変わらないと思う。形態が変わったわけだね。どういう形態になったかというと「市民活動」を推進している人たちがファシリテーターやコーディネーターとなり、議論の「お題」を提供する。そこに参加している「市民」がああだこうだと乗っかっていく。最終的に何か具体的なアクションの話につながることもあれば、お互いの意思の疎通を図ることになるかもしれないし、知識の共有化や情報交換としての機能を果たすことも多々ある。まぁ、それが俗にいう今日の「市民フォーラム」の形で、その代表的なものはブラジルのポルトアレグレで始まったWorld Social Forumだろう。ちなみに来年1月26日には、東京でも行われるみたいだ!これは参加しなくては!!
とまぁ、話がずれましたが、東ボラにフォーラムの打ち合わせで立ち寄った際に、来年1・2月号の「ネットワーク」に記事を寄稿させてもらったこともあり、担当の職員さんといろいろ座談していました。どんな話かというと、地域の拠点を考える上での「半強制」について。「半強制」というと、ちょっと抑圧的だけど、半強制の仕組みというものを改めて考え直してみたらいいのではないかということ。
たとえば、ニューヨークの僕の友人が住む高層マンションではマンションの住民のためのホームページがあるらしい。そのホームページ上では、住民のためのお知らせ(水道工事とかエレベーターの整備など)や、管理人へのメッセージなど、住民の生活にとって必要な情報&コミュニケーションツールとなっているらしい。それに加えて、住民はブログの書き込みや自己紹介ができたり、いらない物の売り買いやベビーシッター募集の告知を出したりと住民同士の交流や相互扶助を促進する役割もはたしている。でもまぁ、そういった情報を掲載するホームページはいくらでもあるけど、ここでポイントなのは、マンションの住民のみが見ることができるというある種の「排他性」と、マンションの住民にとって重要な情報が掲載されていて、定期的に確認する必要がある「半強制性」にあると思う。半強制的にホームページを確認することで、そのサイトが人が立ち寄る場所となる。まぁ、Yahoo!Googleのトップページのようなものだね。でも、最近ではGoogleのトップページもカスタマイズできるようになり、公共性よりも個別性が強くなってきていると思う。同様に、最近、巷では「オン・デマンド」が大流行していて、何かにつけて自分の趣向に合わせてカスタマイズされ、自分の好きな時に好きなものが得られるようになってきている。つまり、他社と共存・共有するという制約がなくなってきているわけだ。でも、人が何かを共にしようと思ったら、そこに時間や場所、趣向の制約は必ず出てくる。例えば先日、年末年始を実家で過ごすために帰省した。そこで、夜に家族の時間を過ごすのに、DVDでも借りてきて観ようといってもなかなか乗ってこない。でも、テレビで映画をやっていると、お風呂の時間などを遅らせながらも一緒にその映画を観る。ある程度の制約があることで、家族3人が一つになり、その映画を観ることになった。
不思議なものだ。
コミュニティを考えると、そこは制約の宝庫なわけだ。まず空間を共有することで、自分の好き勝手なことができなくなる。自分の家の中はどうなっていても、地域住民と共有している道路や公園では好き勝手はできない。さらに、コミュニティは様々なインフラを共有している。水道やガスや電気、それが都市となると、交通機関などのインフラも共有することになる。それだけではない。その場所で一緒に住むとなるとInternal Landscapeも共有する。どういうことかというと、頭の中にある自分の生活のイメージの中に、地域のイメージというものが形成される。周りに人間が住んでいるのに、無人島に生きているというイメージを持っている人はいない。それは、地域の人々と交流しているかいないかにかかわらずそういうイメージを持っているものだ。だから、何かのきっかけで近所の人との交流が始まると、すぐに仲良くなったりする。それは、頭の中ですでに空間を共有するメンバーとしてとらえていたからだ。人は社会的な生き物だというけれど、それは結局頭の中に「他者」のイメージを常に持っているからだ。動物に育てられた子供や、何十年間監禁されていた人は、他者のイメージを持っていないために、人間社会に溶け込むまでに時間がかかるという。
ここで考えるべきことは、僕らは皆、そうした「他者」のイメージを持ち「コミュニティ」に住んでいるけれども、世の中が「オン・デマンド」化され、個別主義になると、実際に交流するきっかけが減ってしまうことにある。
日本では住民の連帯を高めるために自治会を組織し、「半強制的」にコミュニティを形成してきた背景があると思う。ちょっとお節介の自治会長さんとか民生委員さんがいることで、地域のつながりが「半強制的」に生まれたり、持続されている。しかし、こうした半強制は今の時代になかなか合わなくなってきていることは、そうしたお節介の自治会長さんたちが一番よく分かっていると思う。今の時代には、今の時代の「半強制」が必要なのではないだろうか。その中で、自治会長さんや民生委員さんの活動が活かされるような工夫が必要になってくると思う。
そういった意味では、上にあげた、ニューヨークの友人のマンションの話は興味深い。
人が交流するきっかけを半強制的に作り出す。その「半強制」のやり方に工夫が必要となる。
コミュニティ・オーガナイザーはちょっと図々しかったり、お節介だったりして、半強制を上手に使いこなすものだ。遠慮とオン・デマンドばっかりだと、みんななかなか仲良くなれないものだからね。これから考えていきたいテーマです。

CO道

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