掲載:『社会貢献支援員文集』2009年3月.
「悩む事業」
室田信一(同志社大学大学院/日本学術振興会)
2008年のベストセラーに姜尚中さんの『悩む力』という本がありました。近年、うつ病や心の病のことがメディアなどを通して日常的に取り上げられるようになり、それらの言葉が持っていた「病人」や「負け組」といったニュアンスが薄れてきたように思います。しかし、「悩む」という行為に対するネガティブなイメージは未だに払しょくできていないように思います。そうしたなか、姜さんが『悩む力』のなかで「悩む行為」のポジティブな側面に光を当てたことは、多くの人に勇気を与えてくれたことと思います。
なんでこんなことを社会貢献事業の文集に書くのかというと、私は、社会貢献事業と悩むという行為は、切っても切り離せない関係にあると思うからです。社会貢献事業は、基金によって経済的な支援を提供することや、制度の狭間といわれる課題に対して積極的に働きかけることで注目されてきました。また、コミュニティソーシャルワークという言葉の新しさから多くの人の関心を集めました。しかし私は、社会貢献事業がこれまでの社会福祉事業と異なる最大の点は、その事業が悩みながら進められてきたことだと思うのです。
私たちの生活とはジレンマの連続で、悩みに満ち溢れています。ですから、ソーシャルワークとはそうしたジレンマの上に成り立つものだと思います。例えば、「あなたは、家族と友人、恋人、仕事、お金、名誉のなかで何を一番優先しますか」という質問をしたら、人によってその答えは様々でしょう。また、同じ人でも時と場合によって違った答えを選ぶかもしれません。人間の価値観とは多様なもので、また時間とともに変化するものです。
だからこそ、私たちの生活はそうしたジレンマに満ちていて、私たちは日々そうした悩みを抱えて生きているのです。そもそも、そうした選択肢の中で優先順位を決めること自体がナンセンスかもしれません。しかし、私たちの人生には、何かしらのアクシデントでそうした究極の選択を迫られることがあります。社会貢献事業が受けた相談の中には、クライエントが究極の選択を強いられ、にっちもさっちもいかなくなり、困った挙句、支援を求めて社会貢献事業に相談をしたというケースが多かったと思います。
私が社会貢献支援員として勤務させていただいたのは1年間と短い期間でしたが、その間にもたくさんのケースにかかわらせていただきました。要介護高齢者のケースや母子家庭、障がい者とその家族、疾病、虐待など、それらのケースが抱える主訴は様々でしたが、どのケースも多重債務や保険料未納、家賃未納といった経済的な困窮を同時に抱えていることが多かったように思います。そして、それらのケースの多くは、基金を用いて経済的な援助を提供すれば解決するようなケースではなく、常に複雑に絡み合った家族関係と向き合う必要がありました。
社会貢献事業は、社会保険制度や社会サービスなど既存の社会保障制度では対応できない、制度の狭間のケースに対する新しい事業と考えられていますが、既存の制度と大きく異なる点があると思います。それが、「悩む」という行為です。
既存の制度は、悩む必要がありません。なぜなら、線引きが比較的明確だからです。「このケースは生活保護制度の範疇である」とか、「このサービスには介護保険が適応する」など、既存の社会保障制度は線引きがなされます。日本全国どこに行ってもおなじ社会保障制度を受けることができるわけですから、この線引きは必要でしょう。その代わり、とても機械的になります。そして、その線引きから外れてしまった当事者は、機械的にその事実を伝えられて終わりです。
社会貢献事業に携わって最も感動したことは、ものごとが機械的に判断されないということです。それでは、社会貢献事業が何を判断材料にしていたかというと、それは専門性だったのだと思います。就職時の研修に加え、定期的に開催される会議と研修、さらには実践を通した知識と技術の伝達、スーパービジョンと、社会貢献事業の中には専門性を高める機会があふれていたように思います。
それでは、社会貢献事業にとっての専門性とは何でしょうか。どのようにすれば限られた資源を駆使して事業が掲げるミッションを遂行できるかを熟考し、完璧な答えではなく、最適な答えを導き出すこと、そうした努力の中にこそ社会貢献事業の専門性が蓄積されるのだと私は思います。その最適な答えを導き出すためには、多くの知識と技術、ネットワークが必要ですし、創造力やあきらめない心、正義感、優しさなどが必要でしょう。そして、何よりも悩むことが必要です。悩むという行為は、悩むことを共有できる環境、一緒に悩んでくれる仲間、そうした悩みを通して専門性を高めていこうという意志によって可能になります。
社会貢献事業は、そうした悩む行為を丁寧におこなっていた事業です。ですから、事業を推進してきたスタッフの悩む力抜きには、社会貢献事業の成功は考えることができないと思います。また、社会貢献事業の援助を享受した人々は、相談援助や経済的援助に加えて、ともに悩むという援助を受け、自身の悩む力を醸成することができたのではないかと思います。
短い期間でしたが、ともに悩む時間を共有してくれた同僚の皆様にこの場をお借りしてお礼を申し上げます。そして、社会貢献事業が、実践を通して示した5年間の悩みの蓄積は、日本の社会福祉にとってかけがえのない財産になったと思っています。これからも、皆さんとともに悩みながら日本の社会福祉を盛り上げていきたいと思いますし、悩む力をさらに広げていくことができるように尽力したいと思います。
ありがとうございました。
※上記の文章は文集の転載になります。