掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第280号,2025年6月.
「実践の糧」vol. 80
室田信一(むろた しんいち)
ある子どもが積み木を巾着袋に入れようとしている。しかし、どう見ても積み木の方が大きいので巾着袋には収まりそうにない。あなたがそれを見守る親だとしたらどうするだろうか。袋が小さすぎるからいくら頑張っても積み木は袋に収まらない、という事実を口頭で伝えて諦めさせるだろうか。それとも子どもから積み木と袋を取り上げて、積み木が袋に入らないことを目の前で実証するだろうか。あなたが「良い教師」であれば、積み木と袋の口のサイズを計測する方法を教えて、積み木が袋に入らない事実を一緒に確認するかもしれない。もしくは、あなたが本人の主体性を重んじる人なら、傍で見守り続け、積み木が袋に入らないことに子どもが気づくまで辛抱強く待つかもしれない。
教師が生徒に一方的に知識を詰め込む教育のことをパウロ・フレイレは銀行型教育と呼ぶ。フレイレを知る以前から受験勉強を前提とした日本の教育が銀行型教育であることに違和感を感じていたが、フレイレを読むことで、そうした違和感を言語化して理解することができた。驚いたことに、30年以上の時を経て、今もなお日本の学校では詰め込み型の教育がなされている。ゆとり教育を導入したり、「考える力」を育むことを重視したり、教育を改革する試みは施されてきたが、国語、英語、社会などの人文社会系の学問領域では暗記力で点数が決まる教育がいまだにおこなわれている。
人文学や社会科学は「一つの正解」がない学問領域で、どのように物事を捉えるべきか、そのための複眼的な視点を身につけることが求められる学問領域である。したがって教師には、生徒がそうした複眼的な視点に気づくために問いかける力が求められるだろう。問いかける際、ある決まった答えを想定して問いかけるのではなく、教師が想像もしなかったようなものの捉え方や考え方が示されることを想定し、問いかけによって教師側も新たな視点を身につけることができる、そのようにお互いが気づきと学びを深めることができる関係がフレイレのいう人間化された関係である。
私が所属する大学でもそうした教育を意識して実践している。特に卒業論文を執筆する過程においては、学生自身が問いを研ぎ澄ましていくことを大切に、対話を繰り返す。しかし、そうした対話に慣れていない学生が少なくない。
冒頭の積み木のたとえでいうと、積み木と袋のサイズの測り方を自分で模索することなく、教師に教えを求めようとすることがある。もしくは、教師が目の前で実証してくれることを待っていたり、中には教師が答えを教えてくれることを待っていたりする。私はどうするかというと、なぜ巾着袋の中に積み木を入れようとしているのか、その理由を尋ね続ける。生徒が「積み木が袋に入っている状態が理想的な状態だから」と答えたら、なぜその状態が理想的と捉えられているのか、さらに問いかける。そこに一つの正解はないが、積み木が袋に収まっている状態を自明のものとするのではなく、そのように自分が捉えている視点に気づいた上で、それでもなお積み木を袋に入れようとするのであれば、どのように入れることが可能なのか考える。もし、積み木が袋に入らないとしたら、他にどのような選択肢があるのか(大きな袋を探すのか、積み木を小さく加工するのか、など)、そうした選択が何を意味するのか、について問い続ける。
そうすると、私も想像しなかったような結論に辿り着くことがある。誰も試したことがないような方法で解に辿り着こうとすることがある。自分の思考の巾着袋の口が広がる瞬間である。教師と生徒に限らず、人と人としてお互いに歩みを進める。共にこの社会を構成するとはそういう関係を築くことなのだと思う。
※掲載原稿と若干変更する場合があります。