掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第223号,2015年12月.
「実践の糧」vol. 26
室田信一(むろた しんいち)
『黒子読本』という社協コミュニティワーカーのためのブックレットがある。栃木県社協の有志が中心になって作成しているものだ。コミュニティワーカーにとっての実践の「ツボ」をわかりやすく整理しており、とてもよく出来ている。『黒子読本2』まで発行されていたが、新たに『黒子読本3』ができたということで、楽しみだ。
しかし、その社協のコミュニティワーカーを「黒子」と位置付ける考え方に違和感を感じるのは私だけだろうか。社協には住民主体の原則という考え方がある。そのため「社協ワーカーは黒子たれ」と言われてきた。しかし、近年、社協のコミュニティワーカーも個別支援をすることが求められ、「個」を見て、その「個」とワーカーが向き合うことが求められてきている。そのことが、戦後、日本で展開されてきた「コミュニティワーク」を次の段階に移行させたのではないかと私は見ている。
戦後のコミュニティワークでは、「住民主体」の掛け声のもと、住民組織が自分たちで活動の目標を定めて、その目標に向かって取り組むことをサポートしてきた。そこで見える住民像は、通常、強い「住民」である。地域という独特な政治力学の中で、潰されることなく、「住民」の声として表に出てきた声に、社協ワーカーは耳を傾けることを期待される。
しかし、本来、社協ワーカーが耳を傾けなければならない声は、地域の中で埋没してしまう声なのではないだろうか。その埋没してしまう声を尊重することは、「住民主体」によって導かれた「住民」の意思と相容れないかもしれない。地域で仕事をすると、必ずと言っていいほどこのようなジレンマに陥ることになる。
その時、黒子には何ができるのか。見て見ぬ振りして主役である「住民」の活動をサポートするのか。黒子らしく、裏で画策して、「住民」の目の届かないところで地域の中で排除された存在をサポートするのか。それとも、黒子の頭巾を外して、対等な存在(一人の人間)として「住民」に向き合うのか。
いま、現場で求められているのは、最後のような選択をするコミュニティワーカーなのではないだろうか。そのような意味では、日本のコミュニティワークは「ポスト黒子」の時代に突入している、というのが私の考えだ。さて、『黒子読本3』がどれくらいそうした新しい黒子像を示してくれているのか、今から読むのが楽しみである。
『黒子読本』(栃木県社会福祉協議会)
『黒子読本2』(栃木県社会福祉協議会)
『黒子読本3』(栃木県社会福祉協議会)
※掲載原稿と若干変更する場合があります。