シリーズ『実践の糧』vol.51

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第248号,2020年2月.

実践の糧」vol. 51

室田信一(むろた しんいち)

職場の長期研究休暇制度を利用して、久しぶりにニューヨークに来ている。ここでの生活からはたくさんの刺激を受ける。日本の当たり前が当たり前でないということに気づかされるのは海外旅行の醍醐味であるが、そのこと以上に、日本では変えられないと思ってしまっていることを変えている現場を見ると、希望を抱くことができる。同時に、自分が「変えられない」という思考に陥ってしまっていたことに気づけたことも大きな財産である。

小さな変化かもしれないが、たとえば、地元の公園の設備や保全状況に不満を感じた住民が改善点をリストアップして市の公園事務所にそのリストを提出したところ、8割以上の提案が受け入れられ、改善されたという事例を耳にした。その一連の活動をコーディネートしたのがコミュニティ・オーガナイザーだったという話を聞くと、日本でも同様のことができるだろうと思う。一方で、日本の公園はアメリカの公園のように改善する余地はあまりないかもしれないとも思う。アメリカ(特にニューヨーク)で散見される社会問題や表面化した格差や差別の問題が日本でも同様に存在するとは限らない。そのような指摘は部分的に該当するかもしれないが、むしろ問題が表面化していないことの問題にこそ光を当てなければならない。

問題が表面化しない社会というと、マトリックスという映画の世界が彷彿される。マトリックスの舞台では、人は催眠状態で機械の中に閉じ込められ、経済的に潤っていると考えられた1990年代のバーチャルリアリティを脳内に直接投影されている。主人公のネオやその仲間は、その幻影から脱出し、ロボットが支配する厳しい現実世界の中に身を置き、人類を救うために闘う道を選ぶ。映画の中に、厳しい現実世界に疲れてしまった登場人物の一人が、幻影でもいいのでバーチャルリアリティの世界に戻ることを希望するシーンがある。彼は現実世界の辛い記憶を全て消し去って、幻影の世界に戻ることを求めるのである。

この映画は、何の問題もなくみんなが幸せな世界とは、実は問題が表面化していない世界なのかもしれないということを示唆している。そして、そのことに無意識であり続けることの恐ろしさを警告している。アメリカは、社会問題を多く抱えている国で、福祉の水準が低い国として語られることが少なくない。それは裏を返せば、社会問題が表面化していて、その表面化した社会問題に意識的な国だということでもある。そしてその国には社会問題を改善しようと活動している市民が多く存在する。

以前、私が日本で子ども食堂の普及活動に関わっていた時、地域によっては住民から「うちの地域に子どもの貧困なんて存在しない」というリアクションを受けることがあると聞いた。貧困の定義や捉え方にもよるが、子どもの7人に1人が貧困状態にあるといわれる今日、子どもの貧困が存在しないという認識は、現実問題の表面化を滞らせる。

子どもの貧困に限らず、外国人やセクシャル・マイノリティが直面する問題、沖縄の基地問題、男女の社会的格差など、日本社会のどこかにそうした問題の表面化を押さえつける風潮がある。「そうは言っても、日本はそこまで悪い国ではないから」という考えがどこかにあって、必死になって変えなくてもいいと思い込んでしまっている。久しぶりにニューヨークに来たことで、自分がそんな心地いい幻影の中であぐらをかいていたことに気づかされた。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

実践の糧