掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第252号,2020年10月.
「実践の糧」vol. 55
室田信一(むろた しんいち)
このようなことを書いたら誤解を招くかもしれないが、私は政府をあまり信用していない。もう少し厳密な表現に変えると、無条件に政府を信用することはしない。この価値観がどこから来ているのかわからないが、比較的幼い頃に身についたもののように思う。私の両親が自営業者で、(良くも悪くも)自立心が強かったからなのか、身近に公務員や政府関係者の大人がいなかったからなのか、中学生くらいから教師に対して不信感を募らせていたからなのか。いずれにしろ、政府を信頼して、手放しに行政を任せるという感覚はもっていなかった。
根底にそのような価値観があったからかもしれないが、20歳の頃、留学先のアメリカでヘンリー・デイヴィッド・ソローの著書を読んだときに、とてもしっくり来た。ソローは当時アメリカとメキシコの間で起こっていたメキシコ戦争に反対するため、税金の支払いを拒否して投獄されている。納税とは市民の責務であるが、その収めた税金が自分の望まない目的のために利用されるのであれば、納税を拒否することこそが市民の義務である、というのがソローの主張である。ソローがそうした考えをまとめた『市民的不服従』という書籍や、社会と断絶し森の中に入り、彼の自給自足生活について書かれた『ウォールデン』は有名である。その中に、「政府とは小さければ小さい方が良い」という記述があり、そこからは無政府状態を信奉している彼の思想が読み取れる。こうした彼の思想は、現在のアメリカの保守系の思想にも通ずるところがあるが、一方で、ソローの書籍はキング牧師やガンジーによる市民的不服従の実践に影響を与えたといわれている。
なぜ、ソローを取り上げたのかというと、今から約1年前に参加したある自治体の地域福祉計画推進会議での一人の委員の発言が頭に残っているからである。その委員は地元の企業を代表して委員会に参加している民間企業の社員である。中央政府が推進する地域共生社会について説明を受けたとき、今後は地域共生社会づくりにかかる費用を住民や企業が拠出することも念頭に入れる、というような表記があったところに引っかかり、費用は政府が出すべきだとその委員は声を荒げていた。確かに、政府が推進する政策の費用を地域で拠出しろ、というのはあまりにも虫が良すぎる。しかし、私は政府にお任せの地域づくりがうまくいくはずがないと思っているので、地域づくりに政府が口とお金を出している状態よりも、地域が自主的に取り組んでいる状態の方が良いと思い、こうした政府の「放任」を歓迎していた。その委員が勤める企業の社風も影響しているのかもしれないが、民間企業がそこまで政府依存の思考をもっていることに、驚いたと同時に、少し残念に感じた。
大きな政府が時代に合わないことは明白に思えるが、「大きな社会」や「大きな地域」をつくっていくことは可能であると思う。地域の中で資源が循環し、民主的な意思決定により地域の中でものごとが動いている。そんな社会がすでに始まっているように思う。
ちなみにアメリカでは中学生くらいで必ずソローの文章を読むらしい。そこに国民性の差が生まれるのかもしれないが、たとえば宮本常一の『忘れられた日本人』のような書籍にはソローの思想に通ずるものがあるように思う。
※掲載原稿と若干変更する場合があります。