シリーズ『実践の糧』vol.58

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第255号,2021年4月.

実践の糧」vol. 58

室田信一(むろた しんいち)

2020年12月に開催された漫才の日本一を決める大会M-1グランプリにて、漫才師のマヂカルラブリーが見事チャンピオンになった。マヂカルラブリーが決勝戦で披露した漫才は、コンビの一人野田クリスタルさんが電車の吊り革に捕まらずにどう耐えるかを演技で表現したネタで、それに対して相方の村上さんがツッコミを入れ続けるという、従来の漫才からするとやや異色な漫才であったため、大会終了後にマヂカルラブリーのネタは果たして漫才なのかという議論が巻き起こったことでも知られている。

漫才に定義があるわけではなく、大会で決められたルールの中でネタを披露する限り、多くの笑いをとった漫才が最も優れた漫才であり、マヂカルラブリーのネタは漫才だという見方で議論は落ち着いたようである。もしくはそのような定義をめぐる議論自体あまり意味がないという結論が支持されたようである。

漫才にはいくつかの型があり、関西特有の面白い会話の掛け合いを売りにするしゃべくり漫才や、漫才の中でコントのように役割を演じて笑いを生み出すコント漫才など、これまでの漫才の歴史の中で様々な型が生み出されてきている。ナイツの塙さんは著書の中で、中川家のようなしゃべくり漫才は関東の漫才師にはなかなか真似できない。だからこそ、ナイツの売りとなる漫才の型を生み出さなければならなかったと述べている。

このような議論を聞いていて感じたことは、コミュニティ・オーガナイジングなどの地域の実践においても同様のことがいえるということである。コミュニティ・オーガナイジングを学んだ人の中に、〇〇の実践はコミュニティ・オーガナイジングではないとか、この要素が欠けている、というような意見を抱く人がいる。それだけコミュニティ・オーガナイジングに真剣に向き合うことは素晴らしいが、この議論は上記の漫才の議論と似ていると思う。漫才にいろいろな型があるように、コミュニティ・オーガナイジングや地域の実践にも様々な型がある。一つの型からみると、別の型は違うもののように見えてしまうかもしれない。しかし、大事なことはコミュニティ・オーガナイジングを通して何を達成するかであって、そのアプローチは無限に存在するといっていいし、むしろ常に新たな可能性を模索することが大事であり、かつ時代とともに求められるアプローチが変化することに対して敏感であることが重要である。

M-1グランプリでは多くの笑いをとった漫才が高く評価されるが、コミュニティ・オーガナイジングの実践も、住民や当事者が社会の中に望む変化を確実に起こすことが支持につながる。では、変化を起こせばなんでもありかといったらそうとも限らない。漫才の場合、特定の人を蔑視することで大爆笑を生み出したとしても、その笑いにおける倫理観は問われるし、それを問うのは大会主催者ではなく視聴者であることが望ましい。すなわち、視聴者のお笑いリテラシーも質の高い漫才を生み出す際には重要な要素となる。

コミュニティ・オーガナイジングの実践も、変化という結果が重要であるが、その結果が民主主義を歪めることになってしまったり、特定の人を排除するような結果を招いたり、権力の偏りを生み出したりすることがあるかもしれない。そのような結果は支持しないという住民や当事者のリテラシーが質の高い実践を育てることになるだろう。ここでいうリテラシーとは特定の型を身につけることではなく、人と人がともに社会を築くということに向き合うことから得られるものである。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

実践の糧