シリーズ『実践の糧』vol.59

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第256号,2021年6月.

実践の糧」vol. 59

室田信一(むろた しんいち)

東京オリンピックの開幕まで2ヶ月を切り、世間の反対の声とは裏腹に、その準備は粛々と進んでいるように見える。コロナ禍のオリンピック開催についてはさまざまな意見があると思うが、私は問題を単純化して社会を分断する報道のあり方に最も違和感を感じている。

誤解を恐れずに書くと、私自身はオリンピックの開催を楽しみにしている。しかし、現実問題として、感染症対策の観点からして開催することが適切かどうかその判断はつかない。判断するだけの情報が手元にないので、不安に感じてしまい、開催反対の意見に飲まれてしまっている。

なぜ私がオリンピックの開催を望むかというと、私は単純にスポーツ観戦が好きで、コロナ禍であってもテレビやインターネットで大好きな野球やラグビーを観戦して、興奮と熱狂を得てきた。むしろ、コロナ禍になって初めて、スポーツという文化が生活を豊かにすること実感した。オリンピックを観戦することも従来から好きだ。

しかし、東京オリンピックの招致に関してはそこまで前向きではなかった。そもそもロサンゼルス・オリンピック以降の商業化されたオリンピックに関しては違和感をもっており、「経済効果」という幻想に一喜一憂する社会のあり様についていけなくなっている。単純にスポーツ観戦を楽しむことの延長線上にオリンピックがあってほしいが、残念ながらそうなっていない状況を憂いている。しかし、コロナ以前からオリンピック・バブルの神話は崩れつつあり、ホストとして手を上げる都市がなくなってきている状況の中で新型コロナウイルスの感染拡大が起こったわけだ。

そこで思うことは、このような状況になって初めて、商業主義的ではなく、お祭り騒ぎでもなく、真にスポーツマンシップに則ったアスリートのための大会を開催できるのではないかという期待である。しかし、大会の開催がホスト国のコロナ対策に悪影響を与えることは賛成できない。そうなってくると、オリンピックを開催してほしいという純粋な気持ちを表明することが、自己中心的で楽天的で、人の命を軽んじている発言のように聞こえてしまい、自分の気持ちを隠さなければならなくなることが残念である。

オリンピック開催賛成か反対かという二元論は社会を分断するばかりで対話を招かない。そもそもオリンピック観戦に興味がある人とない人がいていいと思うし、開催に賛成の人と反対の人がいていいはずだ。それを踏まえて、政治の役割は、いつのどの時点でどれくらいの感染状況であれば開催する・しないという判断を下すための条件を提示することで、あとはそれに対して社会全体がどこまで対策できるかに委ねてはどうかと思う。単純に賛成か反対かではなく、与えられた条件の中で、ある程度の合意が形成できる中で、何ができるかということを具体的かつ戦略的に進めていくことができないものだろうか。

実はこうした分断は身近な地域の中にもある。施設建設やイベントの開催など、社会的な合意を形成する際に賛成か反対かの二元論になってしまいがちである。ある人にとって合理的に思われる求めは他の人にとって不合理に映ることは少なくない。そうした意見の不一致を賛成多数によって押し切るのではなく、対話と行動を軸に議論を組みなおしてはどうだろうか。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

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