掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第258号,2021年10月.
「実践の糧」vol. 61
室田信一(むろた しんいち)
今や日本のプロスポーツリーグとしてすっかり定着したJリーグだが、1993年のリーグ発足にあたっては、多くの人や組織が関わり、サッカーが文化として日本に根付くための戦略が練られ、それを実現するために多くの資源が投入されていた。私は当時中学生だったが、発足時の盛り上がりを今でも鮮明に覚えている。海外から、キャリア晩年期であったものの、スタープレイヤーたちが招聘されて、リーグを盛り上げていたことも印象的だった。
Jリーグ発足以前も日本にサッカーリーグはあった。プロリーグではなかったが、サッカー文化は少なからず根付いていた。しかし、おそらくJリーグを発足しなければ、日本のサッカー文化が今日のように盛り上がることはなかっただろう。
ある活動を地道に継続することが、その活動に関わっている一部の人たちにとって基盤を形成することは疑いないが、その活動がより広範な人々の関心にまで及ぶ可能性は低い。その活動を支えている考えや文化が、活動の中核にいる人たちから世間一般に浸透するためには、普段の活動の継続だけで達成することは難しい。そこには戦略が必要であり、資源の投入が必要である。
地域の活動においても同じことが当てはまる。ある地域に住民主体の地道な活動があるとする。活動している本人たちはその活動に満足していて、地域の住民もその活動を支えているし、その活動から恩恵を受けているとしよう。しかし、隣の地域では同様の活動は存在しない。住民は同様の活動を望んでいるが、誰かが声を上げて、イニシアチブをとって行動を起こさない限り、その地域で同様の活動が生まれることはない。そのような時に、地域住民ではなく、コミュニティ・オーガナイザーなどの第三者が関与することがある。地域で集会を開いて、住民の声を集めたり、活動の中心になり得る人たちと会議を繰り返すことから活動が生み出される契機を模索する。そのように第三者が意図的に働きかけない限り、その地域では地域活動が生み出されなかったかもしれない。少なくとも近いうちには。
私はそのような地域への「介入」をドーピングと呼んでいる。ドーピングによって導かれる結果は本来の力ではない。ドーピングに依存し続ける地域は、むしろ本来の力を削ぎ取られてしまうだろう。かつて国際協力の現場では、パラシュート部隊のように資源を投入する一方的な介入が行われていて、そのような介入は地域の力を奪うことになっていた。スポーツ界におけるドーピングという行為を肯定するつもりはないが、地域への一時的で意図的な介入が効果を発揮することは珍しくない。しかし、その介入は第三者による人工的なものなので、戒めも含めてドーピングと呼ぶことにしている。
Jリーグは一夜にして完成したわけではない。すでに下地として実業団チームがあり、サッカー文化の下地ができていた。そのサッカーという文化圏を一層広げるためにはドーピングが必要だった。地域活動も一部の人にとっての活動にとどまっているが、サッカーがこれだけメジャーになったことを考えれば、地域住民の3割、いや5割が地域活動に参加するような社会を夢見てもおかしくないだろう。そうそう、「キャプテン翼」がサッカーブームの引き金になったことを考えると、まずは地域活動をテーマにしたアニメ制作から着手しようか。
※掲載原稿と若干変更する場合があります。