Critical Thinking 1

本質を見なくてはいけない。今回のブログで書ききることはできないと思うし、まだまだ自分の考えがまとまっていないから、中途半端になってしまうと思うけど、とりあえず言葉にしていくプロセスは大切だし、そのためのブログでもあるから、お聞き苦しい文章になってしまうかもしれません。
日本の大学にはcritical thinkingの授業はあるのだろうか。って、一応僕も日本の大学に所属している身なので、それくらい知っておくべきだろうけど。ちなみに僕がNYで通っていたLaGuardia Community Collegeでは主に一般教養の授業を受けていたけど、critical thinkingの授業がプログラムとして組まれていました。よく日本では「批判的思考」と呼んだりするみたいだけど、どちらかと言うと「本質の見方」みたいなものだよね。人が言っているからとか、メディアが放送しているからとか、先生や上司が言っているからとか、先祖代々繰り返してきたからとか、そんな理由で自分の価値観や考え方を決めず、そういった周囲の意見や考え方、歴史の変遷、現在の状況などを理解したうえで、自分が物事を判断する。グッチのかばんが流行っているから、みんなグッチのかばんを使うとか、ヨガが流行ったらみんなヨガを始めたり、人気モデルのような容姿にみんなであこがれたり、きっとそうして世間一般が認めるということは、その中に本質的な要素が含まれていることは確かだと思う。確かにグッチのかばんはいいものだし、ヨガは健康にいいし、モデルの人たちの容姿は「肥満=不健康」というロジックで見ると理想的かもしれないし、エロスを内包しているかもしれない。以上で挙げたようなものは、消費者としての選択肢がある中で、世間一般やメディアの影響を多分に受けたうえでの自己決定になると思うけど、それが消費者ではなく、社会の役割となったときにどうだろうか。例えば行政職員とか、建築士とか、医者とか、教師とか社会の基盤をまかない、その仕事の内容が公共性を内包している役割を持つときに、その人たちが取る行動や下す決定が不特定多数の人々に影響を及ぼすことになる。そしてソーシャルワーカーもまさにその一端を担うわけだけど、ソーシャルワーカー、特にその中のコミュニティ・オーガナイザーに至っては、そうした他の専門職が下した決定や判断に対してクリティカルであることが求められる。つまり、公共性watch dogなわけだ。公共に対して影響を与える立場の機関や職員が進める事業や提供するサービス、法律などを「平等性」「公平性」「権利」などのフィルターを通してクリティカルに見なくてはいけない。その中で、「平等」というものは非常に複雑な要素が絡むものであるということを理解しておく必要があるし、権利を主張することが最終的に全体にとってプラスになるかどうかを考えなくてはいけないし、プラスにならないかもしれないけど(三歩進んで二歩下がることは前進である!)、リスクを負うことを恐れずに「物事の本質」に忠実に判断を下さなくてはいけない。これは政治や、学校教師、消防士、ごみ収集職員にに対しても同じことが言えるだろう。ソーシャルワーカーはそうした公共性に対するゲートキーパーなわけだ。だから、コミュニティのニーズを把握し、現在のシステムによって被害を被っている人たちの立場に立って、社会全体にとっての触媒にならなくてはいけない。これって、結構難しいことだね。そんでもって、ソーシャルワーカーでなくてもそうしたことをコミュニティで行っている人は多く存在する。 市民が協力してゲートキーパーになることが望ましいだろう。そのためには、ある程度の組織化が必要だし、いずかれのタイミングでコミュニティ・オーガナイザーが必要になってくる。卵が先か鶏が先かということだ。
なんだか、長くだらだらと書いてしまったけど、結局は物事の本質を見抜く文化を広げることが大切だろうね。そのために、コミュニティ・オーガナイザーが胸を張って目を見開いて見本となることが大切。

CO道

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