「作業仮説」とか訳されるのかな。とっても重要なことだし、COの最も得意とする部分だろう。
どういうことかというと、COは現実の複雑さにたいして働きかけるということ。
多くの政策はHypothesisの上に成り立っている。
Hypotheticalという言葉があるが、どういう時に使われるかというと、例えば「男女雇用機会均等法に従い当社では男女差別のない業務遂行を行っています」とある企業の人事部の人が言ったとすると、それに対して”What you are saying is hypothetically correct, but how realistic is that?”(あなたのいっていることは仮設的には成り立ちますが、どれくらい現実的な話でしょうか)というように使われる。
政策の話をする時に、多くの話は仮説の段階では成り立つものの、それを現実の世界で実行しようと思ったら、なかなか成り立たないだろう。例えば、日本の生活保護制度というのは、制度としては世界を代表するようなすばらしい制度であるという。国民すべての最低限度の生活を保障し、生活の状況に応じて、医療や介護、その他の社会サービス、児童に対する手厚い保護、教育支援と、制度そのものを見ると充実した政策のように見える。しかし、現実は、生活保護制度に対するスティグマや、受給したくてもできない現実、ケースワーカーは担当ケースが多く、きめ細かなケースワークができず、保護受給者の人で、さらに借金を抱えてしまっているケースも決して少なくない。しかし、それらの制度には収まりきらない問題に対しても細かな制度を作っていたらきりがない。ましてや、それが社会における人間関係の問題であったりしたらなおさらである。上で挙げた例のように、男女差別の問題や人種差別、文化の問題などどんなにすばらしい政策があっても、その中でどのように物事が機能するかを考えなくてはいけない。だからOperational Hypothesis(作業仮説)を考えることが大切なんだね。
社会には様々な影響(変数)が存在するため(無限といってもいいよね)、仮設がどのように作用されるのかを考えなくてはならない。
先日、Crashという映画を見た。アメリカの人種差別と良心の話。人の中に存在している良心とは裏腹に、又は表向きの顔やステレオタイプとは別に人種差別の構図が成り立っている。その中で、どのようにして仮説を立てることができるだろうか。単純にアフリカ系アメリカ人は白人系アメリカ人によって抑圧されている存在であるからとか、社会的な立場が違うからというようなことは、現象的にある一定の関係を実証することができたとしても、Crashの中で行われているような、様々な不確定変数を計算することは不可能といってもいいだろう。というか、計算すること自体、無意味である。
ここで大切なことは、こうした社会の力動の中で作業仮説を立てるということは、つまり自己分析をするということなんだな。難しい話かもしれないね。関係性の不確定変数を計算することよりも、一人一人が自己分析をすることを進めることのほうが、よっぽど意味があるということ。
誰がこう思っていて、彼の肌の色は何色で、彼女はこういう価値観をもっていて、その人の友人はどういう立場で・・・・なんてことを言っていたらきりがない。でも、そういう細かいことが社会の中ではとっても重要だったりする。生活保護という生存権を保障するはずの制度が、様々な個人的理由からすべての保護受給者の生存権を保障し切れていないことが何よりの証拠!
だとしたら、最も有効なアプローチは自己がどのように確立するか、自分が社会の中でどのような存在であるかをそれぞれが分析することが有効なのではないだろうか。人間は多様な存在である。多様性を認めて、多様性を生かすような、そんなアプローチが必要だよね。Real Freedom for All.
ご無沙汰しております。関西でのご活躍の様子が時折、伝わってきます。
ひさびさのコメントになりますが、現行のアメリカ政府のやっているイラクの占領政策はほんとうに民主化へのプロセスなのか?このあたりのことはよくよく検証していかなくてはなければならないと思います。一説によるとGHQの日本における占領政策をもとに進められているとの見解があります。もしそうだとすれば戦後日本の状況とイラクの状況では明らかに異なっているし、ベトナム戦争のときと同じような過ちを犯しているのではないか。そのようなことを感じます。ちなみに日本の社協の設置の経緯にはGHQがモデル案を提示していることにあるようです。
オーガナイザーが本来、果たすべき役割とはなにか?デモクラシィーとはなにか?考えさせられます。 (ヤマユウ)