Conservatism and Progressivism

先日、アメリカのテキサス州サンアントニオで開催されたCSWE(Council for Social Work Education)の年次大会に参加してきた。アメリカのソーシャルワーク関係の学会としては最大規模の学会で、基本的には教育者のための学会なんだけど、この大会に便乗してその他の小さな学会が年次大会を共同で開催するので、例えば僕が会員のACOSA(Association for Community Organization and Social Administration)もこの時に一緒に大会を開催している。今回、本当は自分の研究の報告をしようともくろんでたんだけど、ちょっと今年はいろいろと余裕がなかったのでとりあえず参加してきただけでした。
これまで、日本やその他の国際学会に参加して発表してきたけど、今回は初めてアメリカの学会に参加してみて、いろいろと考えることがあった。あまりコミュニティ・オーガナイジングに関係ない内容になってしまうかもしれないけど、ちょっと思ったことを書き連ねたいと思う。
大会ではコミュニティ関係の報告を中心にいろいろな報告を聞いてきたんだけど、報告の内容が日本のものと全然違うことに驚いた。この言葉がぴったりくるかわからないけど、全体的に報告内容が「革新的」だった。英語でいうところのprogressiveというかんじ。日本の学会に慣れているからそう感じたのかもしれないけど、それにしても報告の内容も、参加者から出る質問やコメントも含めて、全体的に革新的な気風が充満していた。ここでいう革新的とはどういうことかというと、平たくいうと、細かいことにこだわらずに、ビジョンを提示するようなものが多かった。もしくはプロジェクトとか新しい実践なんかに取り組んでいることについての報告的なものが多かった。それに対しての質問やコメントも、欠点を突くものや、細かい定義や先行研究について問いただすものではなくて、そうしたビジョンを共有したい、その報告から何かを学びたい、一緒に何ができるのか考えたい、というようなものが多かった。つまり、報告の場が、何か新たな方向性をみんなで模索する場になっていたと思う。もっといってしまうと、知識の海に溺れて自己満足的な研究よりも、何か具体的な行動が伴うような内容が多かった。
これに対して日本の学会報告は、あくまでも僕の私見だけど、知識の海の中に溺れているものが多いように感じる。同じくらいの時間で、同じように報告してるんだけど、それは情報を並べているだけにすぎなくて、特に方向性を生み出すような内容ではない。「だから何がいいたいの?」みたいな。まさに自己満足の世界。いろんなことを緻密に整理して、盲点がないように先行研究をしっかり調べて、正しいことを正しい言葉で伝えることに一生懸命というのかな。まぁ、ちょっといいすぎかもしれないけど、そういう風潮があることは間違いないし、そういう性格を満たしている研究ほどいい研究として取り上げられがちだと思う。「研究」=「正しいことを正しい形で表す」というかんじ。だから、全体的に研究の世界が保守的になってしまう。
でも、そんな日本の研究のいいところは、地に足がついた研究が多いところだと思う。妥協していないというのかな。最低限のクオリティが担保されているというか。最低限のマナーを守ることが重要視されるというか。その分、大風呂敷を広げることが難しいし、大風呂敷を広げる研究が少ないと思う。
一方、アメリカの研究は、なんだか「軽い」と感じてしまう内容が多かった。根拠が薄いというのかな。基礎研究を怠っているものが多いように感じた。(ただし、CSWEは教育関係の学会だから、研究よりも教育にフォーカスがあるということも影響していると思う。)
ということで、そうした日本とアメリカの研究を概念図に示してみた。


ちなみにこのブログは「文字のみ」を売りにしてきたんだけど、今回は禁断の図を使うことにしました。

この図は「知識」の発展を示しています。研究っていうのは「知識」を扱っているわけだけど、その「知識」は人類がこれまで培ってきたもので、研究者のみならず、現在生きている人間が知識の海を少しずつ少しずつ広げていくことで発展していっているわけで、その海を人類にとって有意義な方向に少しでも広げることが研究者とか思想家とか、学者の使命だと思う。もちろん、知識を扱うことを専門にしていない人たちが知識の海を広げることも少なくない。ただし、海を広げるためにはその海をよく理解することが求められるから、いつのまにか知識を扱うのは限られた人の仕事になっているようにも思う。
そこで、これまでに培われてきた知識を図のX、それが有意義な方向に発展したものをYとする。そうした知識を取り扱う研究者たちを青い円だとすると日本の研究者たちはそのXに向かって研究をするものが多いと思う。つまり、Xをしっかり理解することが重要視される。これまでに培われてきた知識を理解することやより緻密に理解することが重要になる。でも、その研究は、結局Xの中の話で、どこにも向かっていかない。
アメリカの研究はというと、オレンジの円のようにXから飛び出したところを目指す研究が多いと思った。新しいビジョンを提示するようなものが多い。その代わり、その方向性は多岐にわたるため、全く正反対のことをいう人たちもいる。でも、それでいいんだよね。お互い、そういう異なる考えを尊重して、ひょっとしたらその研究の延長線上に目指すべきYがあるかもしれないという可能性を残している。だから、その研究の上げ足をとることよりも、そのビジョンを理解しようという態度で臨む。でも、なんだか軽薄だなぁと感じるのは、お互い、それぞれのビジョン(オレンジの円)がどこにも発展しない可能性を知っているから、あまりこだわらなくなっている。いつかは淘汰されるものだというような気風がある。悪くいってしまえば、結構みんな無責任に好き勝手言ってる感じ。ただし、そのビジョンが、結局知識の総体に対して大した影響を与えず消え去るとしたら、それはそれでむなしい。
つまり、日本の研究であっても、アメリカの研究であっても、どちらも、人類の発展にとってさほど有意義ではない知識の大量生産大量消費という風潮はあるのかもしれない。その形態が違うだけなのかもしれないね。
ただし、そうした研究の中でも知識の発展に貢献する研究が必ずある。それが図の緑の円のあたりだと思う。XをYに導くような研究。日本の研究者であっても、アメリカの研究者であっても、世界中の誰であっても緑の円のような研究(知識への貢献)をすることはできる。ただし、日本の研究者とアメリカの研究者ではアプローチが異なるんだろうね。
日本の研究者が緑の研究をする場合は、青い円の中に閉じこもる保守的な気風の中にいながらも、それを超える想像力をもち、殻を破ってビジョンを掲げることが求められる。アメリカの研究者の場合は、知識の海をしっかり把握し、地に足の着いた研究をして、その基盤に基づいてビジョンを示した時に、その他の研究を淘汰して最も有意義な方向性を示すことができるのだと思う。つまり、いずれのアプローチにしても目指しているところは同じなんだよね。あとは、自分を取り囲む環境を理解して、どのように人類に貢献するかということだと思う。
今回のブログは「知識の発展」について書いたけど、同じ考え方を一定の方向に「社会を動かす」ということにあてはめることもできるんじゃないかな。アカデミックの世界は、図のような関係が顕著に見えるけど、日本の社会全体を見ても、こうした保守的な風潮は共通すると思う。しかし、保守的な社会であっても、革新的な社会であっても、物事が変わるときには変わるわけであって、日米ではそのアプローチが異なるものなんだと思う。コミュニティ・オーガナイザーは、このように文化にあったアプローチをうまく使いこなさなくてはいけないだろう。つまり、アメリカにはアメリカの文化にあった進歩のアプローチがあり、日本には日本の文化にあった進歩のアプローチがある。でも、結局はどちらも大変なことだし、どちらも似たような道を歩むかもしれないよね。
余談だけど、博士論文ではアメリカのアプローチについて書いてるので、今後は今回のブログのような枠組みも参考にして、文化とコミュニティ・オーガナイザーの関係について考えていきたいと思います。

CO道

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