シリーズ『実践の糧』vol.42

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第240号,2018年10月.

実践の糧」vol. 43

室田信一(むろた しんいち)

 前回は、住民活動をコーディネートする人を地域の中で雇用するための財源について書いた。1つの事例では、自治会加入率100%の大型団地で、1世帯あたり会費を毎月500円集めてコーディネーターを雇用していた。別の事例では、ある区画の高層マンションのすべての世帯から月額300円の会費を集めて、その地域の住民活動をコーディネートするNPOの職員を雇用していた。どちらの事例も、その地域に居住する住民は、半強制的に会費を徴収される仕組みになっている。

今回は、その半強制という考え方について考えを巡らせてみたい。皆さんの周りにはどのような半強制の仕組みがあるだろうか。半強制の定義は難しいが、ここでは生活する上でその仕組みを利用する、ないしは受け入れなければならないものとしよう。おそらく最も身近でわかりやすい例はNHKの受信料ではないだろうか。テレビを所有するすべての世帯はNHKの受信料を支払う必要がある。NHKを視聴してもしなくても、半強制的に一律に受信料を徴収される。これに対して異議を唱える人はいるが、国民の圧倒的多数はこの仕組みを受け入れて、サービスを利用している。

半強制はサービスの利用に限らない。PTA活動は任意の取り組みと言われながら、児童を学校に通わせている保護者は半強制的に参加を強いられている。そのことに異を唱えて、任意団体としての性格を重視すべきだという指摘もある。そのような議論が生まれるのは、半強制の仕組みは規制と自由の間のグレーゾーンに位置づけられ、義務ではないものの、ほぼ全員が参加することにより、参加しないという選択肢が奪われているからである。

そのように書くと、半強制は悪いもののように聞こえてしまうかもしれないが、半強制の仕組みを維持するために、その仕組みを提供する側は様々な努力をしていることを忘れてはならない。NHKは受信料をとり、公共放送と位置付けることで、視聴者(≒国民)にとって満足のいくコンテンツを提供することを強く意識している。さらに、視聴者の満足度だけでなく、公共性を意識して公平性や教育的効果、文化継承、政治的参加も踏まえたコンテンツ制作をしている(少なくともその努力をする立場が求められている)。PTAに関しても、半強制的な仕組みになっているが故に、役員になった人たちはその仕組みを形骸化させないように工夫を凝らしている。ただし、そのことが過度な負担となり、不満の原因にもなっている。

前回紹介させていただいた高層マンションの住民全員が加入するNPOに関しては、近隣に新たに建設された高層マンションを会員に含めるべきか真剣に議論をしたという。結果的には、新たに建設されたマンションの立地が、現在会員に入っているマンションと電車の線路を挟んで分断されており、コミュニティとしての一体感を生み出すことが難しいという判断になり、拡大することをやめたという。この事例からも、半強制の仕組みによって作り出されるコミュニティとしての一体感を意識することの重要性がわかる。

私たちの暮らす社会は、規制(ルール)さえ守ればあとは個人の自由、と考えられがちだが、実は身の回りに半強制的な仕組みが溢れていることに気がつく。それは他者と共に社会を構成し、社会の中のサービス(諸活動)の利益を享受し、生活を共にする際に、必然性に基づいて作られた仕組みといえる。しかし、その仕組みがいつしか形骸化してしまうと、仕組みとしての求心力が失われてしまう。半強制という考え方に意識的になることで息を吹き返すコミュニティが出てくるかもしれない。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.42

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第239号,2018年8月.

実践の糧」vol. 42

室田信一(むろた しんいち)

今回は、コミュニティで人を雇用するということについて考えたい。前回書いたように、かつての村落共同体ではそのリーダーがコミュニティのメンバーの考えをまとめ、活動をコーディネートする役割を担っていた。社会の分業化が進んだことにより、コミュニティを取りまとめたり、コーディネートする存在が雇用され、配置されるという方法が採られるようになった。では、そのコーディネーターの財源はどのように準備するものだろうか。

現在、日本の各地には生活支援コーディネーターという職員が雇用され配置されている。主として地域における高齢者の生活支援の仕組みづくりを担当する生活支援コーディネーターを雇用するその財源は介護保険から拠出されている。地域の支え合いの仕組みをつくることが被保険者の利益につながるという論理が、生活支援コーディネーターの人件費の根拠となっている。つまり、住民が費用を直接負担するものではない。

これに対して、住民が資金を直接拠出することでコーディネーターを雇用しているケースがある。都内のある大型団地にはおよそ1700世帯が居住している。この団地は自治会加入率が100%でかつ1世帯あたりの自治会費が月500円ということだ。自治会費は地域によって様々だが、年間2000円から3000円程度(月額200円〜300円)が一般的で、この団地のように1世帯あたり年間6000円も徴収する自治会は稀である。しかも加入率が100%ということだ。単純に計算すると、月額85万円、年間1020万円の会費収入があることになる。団地の集会所にはこの自治会の事務所が併設されていて、そこにはパートタイムのスタッフが2名雇用されている。支援が必要な住民への対応など、気になった住民が事務所に連絡すると職員が対応する体制が維持されている。

一方、神奈川県某所にある高層マンション群では、周辺9棟のマンションが会員となり、自治会に代わり住民活動を取りまとめるNPO法人が設置されている。9棟の会員マンションの住民は1世帯あたり月300円の会費を支払っている。9棟のマンション合計で約5000人の住民が居住しているため、単純に計算すると、月額150万円、年間1800万円の会費収入がある。入居者には会費の支払いが義務となるため、100%の会費徴収率となっている。会員マンションの一角にNPOの事務所があり、そこにはフルタイムのスタッフ1名とパートタイムのスタッフ数名が雇用されている。このNPOが主催する地域のハロウィンイベントや盆踊り大会は地域内外から数万人が参加する名物イベントとなっている。

上記2つの事例は、その内容こそ異なるが、会費収入によって地域の中にコーディネーターの配置を可能にしているという点では共通する。住民が会費を収め、コーディネーターを雇用することで、住民にとって必要なケアを提供し、コミュニティを一つにまとめるためのイベントを開催している。同様の仕組みが他の地域でも実現可能なことを示唆してくれる。

昨今、政府は、住民の互助活動を強化するためにコーディネーターを配置する政策を推進している。そうした政府の財源は、うまく活用することで地域の住民活動の起爆剤となるだろう。しかし政府が予算を削減し、コーディネーターを雇用できなくなった時に地域の取り組みが停滞するかもしれない。その時に、住民が自分たちで資金を拠出してコーディネーターを雇用するという発想になれるだろうか。地域におけるお金の流れを改めて考える時期に来ている。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.41

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第238号,2018年6月.

実践の糧」vol. 41

室田信一(むろた しんいち)

地域の中で人々が生活空間を共有し、お互いの安全を守り、場合によっては生産活動をともにして、地域にかかわる事項の意思決定をする。人類が集団で生活するようになってから集団としてともに生活するための方法が培われ、それが進化・発展しながら今日まで続いてきた。村落コミュニティのような共同体社会では、第一次産業が主たる産業であり、生産と生活が共同体内で成立する。そのような意味では運命共同体でもある。そのようなコミュニティでは、各地の代表などが集まり、政(まつりごと)をとおして住民の意見を反映させながら共同体が運営されてきた。

一方、産業化・工業化が進行したことにより、かつての村落共同体とは異なる生産と生活が分離されたコミュニティが誕生した。日本の場合、1960年代以降、人口の都市化に伴い生活の場としてのコミュニティが各地に誕生した。生活の場のコミュニティを取りまとめる役割は多くの場合専業主婦が担ってきた。現在でもその傾向は残るが、共働き世帯が増加した結果、主婦層だけで生活のコミュニティを維持することが困難になってきている。

今日の地域コミュニティの主たる推進役は高齢者である。かつて専業主婦として生活のコミュニティを支えてきた人たちや、仕事を退職したのちに生活のコミュニティの一員として参加するようになった人たちがその中心となっている。そのような意味では、高齢者は地域コミュニティとの結びつきが強いが、稼働年齢層となると、共働き世帯の場合では特に地域コミュニティとの結びつきが希薄になる傾向がある。そのような中で、地域住民がボランタリーにコミュニティを形成し維持することがより難しい状況になってきている。

と、ここまで書いたことは教科書や新聞などでもよく目にする話である。私がコミュニティに関わるようになった頃から、いまでも変わらない関心事は、コミュニティの構成メンバーが自発的につながりを構築することが難しい状況の中で、コミュニティを取りまとめ、人のつながりを作り、意見を聞き、様々な活動を生み出す役割が生み出され、配置されてきており、多くの場合、そうした役割を担う人が雇用されているということである。つまり、構成メンバーの中でボランタリーにおこなわれてきたコミュニティの中を調整する役割が、専門分化され、雇用されたスタッフによって担われるようになってきているのである。アメリカではそれがコミュニティ・オーガナイザーと呼ばれたり、日本ではコミュニティワーカーやコーディネーターなどと呼ばれてきている。

では、そうしたワーカーを雇用するための財源を、現代社会ではどのように根拠づけてきているのだろうか。昨今の社会福祉法の改正では、地域の中で住民同士が支え合うコミュニティを構築する必要性が示され、それが地方自治体がコーディネーターを雇用するための財源の根拠となる可能性はある。

住民自身の手によってコミュニティを取りまとめることが難しくなり、専門家の配置が進められてきたが、そうした専門家を雇用する財源を用意できないのであれば、再び住民のボランタリーな取り組みに戻るのか、もしくは地域がコミュニティとしてまとまることを諦めるという選択を迫られるだろう。

そうした中、地域の中で自主財源を確保し、職員を雇用している事例もある。次回はそうした事例を参考に、コミュニティで人を雇用するということについて引き続き考えてみたい。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.40

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第237号,2018年4月.

実践の糧」vol. 40

室田信一(むろた しんいち)

落語家の立川談志が、落語とは人間の業の肯定だとかつて述べた。業とはすなわち、欲や怠け心など、人間の醜い部分や弱い部分として卑下され、通常は他人に知られないように隠される部分のことである。親孝行や勤勉といった世の中で是とされる価値観ではなく、落語は、人間のそうした醜い部分や弱い部分に光を当て、それらを認め、肯定すると談志は述べたのである。

社会福祉というのは本来、落語同様に業を肯定する価値観を備えていると私は思っている。欲や怠け心はもちろん、人間の心の奥底にあるドロドロとした感情を肯定するところから社会福祉の実践が始まると思っている。しかし、一般的には異なる印象が抱かれることが多い。社会福祉に従事する人やそれを目指す人は清い心の持ち主であり、高い志をもち、正しい判断力をもって人の生活の乱れを正す人という印象である。確かに、そのような意識をもってソーシャルワーカーを目指す人や福祉の仕事に従事する人がいることも事実だし、そうした姿勢を否定するつもりはない。いろいろな人がいていい。ここで言いたいことは、人には誰にでも醜い部分や弱い部分があり、それを取り繕わなくても良いのではないかということだ。

同様の考え方が、最近では市民活動や地域の活動にまで拡散しているような気がする。国の政策などで地域の活動に対する期待が高まっていることも追い風となり、まちを良くするための活動をする立派な市民像のようなものが蔓延していて、たまに恐ろしくなる。そこには、市民とは善いおこないをする存在という前提があり、その市民像に該当するようにみんなが努力するという構図ができているように感じる。コミュニティソーシャルワーカーなどの専門家にはそうした善き市民を生み出すためのコーディネートが期待されている。繰り返すが、善き市民を否定するつもりは毛頭ない。善くない市民よりは善い市民の方がいいのかもしれないが、善くなくてもいいじゃないかと思う。社会から期待されるような役割を果たさなくてもいいし、社会に貢献したいと思わなくてもいい。人と付き合うのは面倒だなとか、自分のことが一番大事だと思っていていい。実際、みんなどこかでそういう気持ちになることはあるだろう。そういう市民像を肯定するところから市民活動は始まるのではないかと思う。

晩年、談志はさらに踏み込み、人間の奥底にあるワケのわからないものを「イリュージョン」と呼び、落語はそうした人間の不完全なものにまで踏み込んで演じる必要があると述べた。人間は不合理な生き物である。さっきまでやりたいと思っていたことをやりたくなくなったり、食べたいと思っていたものを食べたくなくなったりする。そんな不合理な人間同士のやり取りが落語では描かれている。人が生きるということはそうした不合理の繰り返しである。

自由な市民の活動であるはずの市民活動こそ、理想の形や常識にとらわれずに取り組んでいいのではないだろうか。自己満足で取り組んだっていいだろうし、空回りしたっていい。そういう市民活動を歓迎する態度が問われていると思う。人間の業を肯定する落語のような少し力の抜けた態度が。

結果として思ったような活動にならなくても、「うまくいかなかったね」と一緒に笑い話にして、いい失敗をしたねと肯定するということだ。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.39

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第236号,2018年2月.

実践の糧」vol. 39

室田信一(むろた しんいち)

話題の書『サピエンス全史』を読んでみた。人類という大きなテーマをわかりやすく整理し明快に分析する筆者の論調にすっかり虜になった。人類がなぜ他のあらゆる生物を凌駕するほどに発展したのか。筆者は、人類が「虚構」(フィクションや物語)について語る力を身につけたことに由来するとそれを説明する。「虚構」とはすなわち現実に存在しないもののことである。私たちの生活は「虚構」で満ち溢れている。「日本」という国や貨幣経済、NPO法人など実際には存在しないがその社会を構成する人がその「虚構」を信じることで社会が成り立っている。

人類学者のダンバーは、個人が知り合いとして関係性を維持できる規模は150人程度であることを示した。人間にとって、この規模を超える人たちと関係性を保持することはむずかしいと考えられている。しかし、その数をはるかに超える集団が人間社会の中では行動を共にしている。人類は国家や貨幣といった「虚構」を操る能力を身につけることで、身近な人間関係を超えて、社会的な集団を維持することを可能にしてきたのである。長い歴史の中で神話や宗教がその役割を果たしてきたことはいうまでもない。

人類の進歩は「虚構」を更新することによって達成されてきた。近代においても、人権という概念や、友愛の思想、自由や民主主義を基調とする社会の構築は「虚構」を語ることで成立している。人類にとってこの「虚構」をいかに操るかが重要な意味をもつことになる。コミュニティの活動にとっても同様である。団体のビジョンやミッションを丁寧に定めることは、その活動に賛同し協力する人たちと「虚構」を共有し足並みをそろえるためである。

残念ながら人がつくりだす「虚構」は人を不幸にもする。身分制度や偏見などはその典型例だろう。私は大学の講義でそれらを「人災」と呼び、あらゆる社会問題を「人災」と整理している。人が共に生活する限り(つまり「虚構」を共有し続ける限り)そうした「人災」はなくならないだろう。私たちができることは、「人災」の少ない社会をつくるために人々にはたらきかけ、減災を試みることである。ところが減災ばかり意識していると、自分がその「人災」の虜になっていることにすら気がつかなくなる。

「虚構」とは想像によって育まれる。コミュニティの実践には、減災を試みるだけではなく、新しい社会のビジョンを創り出すことも求められる。地域の中で孤立死する人がいなくなるように関係者に集まってもらい、連携してセーフティネットを築くことは大切である。その一方で、まだ見たことがない規模で地域の人たちがつながり、孤立という概念が過去のものとなるような状態をつくりだすことを想像し、そのことをお互いに語りあい、より多くの他者とアイデアを共有することで、新しい仕組みを地域の中に生み出すことができるということを疑ってはいけない。

現代日本の市民社会は人口のおよそ1%がアクティブに活動することで成り立っている。その規模を2%に増やすことは大事だが、20%〜30%の人がアクティブに活動する社会を想像しそれを実現するための戦略を練ることもまた重要である。そのためにはまず目の前の山積みの仕事を片付けて、頭をスッキリさせなければ・・・。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.38

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第235号,2017年12月.

実践の糧」vol. 38

室田信一(むろた しんいち)

私が、8年間のアメリカ滞在を経て、日本に帰国してから今年で12年目になる。帰国当初は慣れない日本文化の中で生活することに苦労した。渡米前の私は19歳だったため、大人としての経験が乏しかった。帰国した時は27歳だった。大人の日本人としての素養を全く身につけていないにも関わらず、周囲は大人としての振る舞いを私に期待した。

実はこの「振る舞いを期待する」ということは時に暴力的になる。

昨今、多様性への配慮であったり、ポリティカル・コレクトネス(政治的に正しい言葉づかいや振る舞い)を重視したりということが話題に上がることが多くなったと思う。それは、政治家の失言に代表されるように、配慮のない考え方や一方的な価値観を他者に押し付けてしまったり、社会の認識とのズレに気づくことのないままに自身の振る舞いを示してしまったりすることに端を発する。

しかし、その「配慮」や「ズレ」という捉え方自体が、顔のない集合体である「社会」や「世間」を意識したものである。結局は「世間」の価値観を前提に、その価値観が時代とともに変化したことから、各自が自身の価値観をその「世間」に合わせる必要がある、ということを求めていて、本質的には何も変わっていないのではないかと思う。

多様性に配慮することの重要性を指摘する人が、一方で礼節を強く求めるということもある。地域の現場ではそうした側面が顕著に現れる。そのため、ワーカーにはどのような態度で人に関わるべきかが問われることになる。表面では「福祉」の仕事をしていますという顔をしながら、そのワーカーが目の前の相談者に求める態度は偏った価値観で判断しているということがある。

人には誰しも価値観があり、その価値観をぬぐい去り、真っ白な状態になることはできない。政治学者のロールズが「正義論」の中で「無知のベール」という考え方を示している。それはまさに真っ白な状態になったと仮定して物事を判断することを意味している。政策論争をする際に真っ白な状態を想定して、検討することはできるかもしれないが、それが日々のワーカーの業務(特に面接業務)となると、その都度、真っ白な状態に切り替えるということをしていては追いつかない。そこでワーカーには自分の価値観に意識的になるという「自己覚知」が求められる。社会福祉の実践に身を置いている人にとっては当然のことだろう。

私が思っていることは、その自己覚知の結果が「世間」に近づくことになっている場合があり、そのことが最も恐ろしいということである。アメリカの公民権運動指導者のデュボイスは二重意識という考え方を示したことで知られている。アフリカ系アメリカ人であることで、アメリカ人としての意識とアフリカ系としての意識を持つことができ、その二つの視点からアメリカ社会や人間関係を見ることができると考えた。この二重意識はマイノリティのみに与えられる視点と考えられがちであるが、人種などの属性にかかわらず、自身の「ズレ」を通して世間を見ることの重要性を指摘していると捉えていいだろう。

そう考えると、みんなどこかズレているもので、私たちはそのズレた世界で生きていることに気づかされる。無論、ワーカーも含めて。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.37

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第234号,2017年10月.

実践の糧」vol. 37

室田信一(むろた しんいち)

私は大学で社会福祉の導入の授業を担当している。人文・社会という広い関心を抱いて入学し、1年間教養を学んだ2年生が、社会福祉学を専攻として選び最初に必ず受講する専門科目が私の授業になっている。その初回の授業で私は学生に次の課題を与える。

社会福祉にかかわる「なぜ」や「どうして」について思いつく限り書いてください。

社会福祉学を専門的に学んだことのない学生がどのような認識や印象を抱いて社会福祉学を受講するのか、この質問にはそれを確認する意図がある。面白いことは、社会福祉を学んでしまうと出てこないような根源的な問いが出てくることだ。「なぜ、社会福祉が必要なのか」「なぜ、虐待は起こってしまうのか」「なぜ、生活保護受給者が生まれるのか」「なぜ、保険制度や手続きをもっと簡単なものにできないのか」といった質問である。

こうして出された質問に対して、授業一回を使って、学生に議論してもらうことにしている。受験勉強で一つの正解を導き出すことに慣れてきた学生に、人の生活や社会の現象、またそのあり方に対して一つの正解があるわけではないということを、一緒に考えてもらうことにしている。

毎年、それらの問いに答えてもらう前に、次のような例を示す。「なぜ、砂糖は辛いのか。」

この問いに対して、学生からは「砂糖は辛くない」という答えが返ってくる。地球の何処かには辛い砂糖があるかもしれないが、多くの場合砂糖は辛くない。したがって、この問いは間違った認識に基づく問いである、ということを確認する。

というのも、学生が挙げる問いの中には間違った認識に基づく問いが少なくないからである。「なぜ、野宿者は生活保護を受けることができないのか」「なぜ、日本は低福祉低負担を選択しているのか」「なぜ、社会福祉の仕事に従事する人は忙しいのか」といった問いである。これらの問いは、該当する側面があるかもしれないが、前提としている認識について問い直すことが求められる。

実は、学生に限らず、行政や現場の専門家がこうした間違った認識に基づいて問題意識を抱くことは少なくないのではないだろうか。「経済が停滞すると生活が悪化する」「高齢化で地域活動の担い手が不足する」「予算をつけなければ地域の取り組みは安定しない」などの認識を前提に施策や取り組みを考えていることが少なくないように思う。そのような前提は、現象レベルでは当てはまるように見えるかもしれないが、社会構造としては普遍的なものではないはずである。もしくは良い・悪い、成功・失敗のものさしがその狭い構造に限定されたものになっている可能性が高い。

このような思考は浮世離れしているという指摘があるかもしれない。それでも、現場がこのような根源的な問いをもった時に社会は大きく変わってきたのではないだろうか。

砂糖は甘いという認識を身につけた上で、改めて辛い砂糖の存在について探求することが求められる。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.36

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第233号,2017年8月.

実践の糧」vol. 36

室田信一(むろた しんいち)

サービス提供とコミュニティ・オーガナイジングは違う、という考え方があるが、それは100年ほど前から続く、ソーシャルワークにおけるミクロとマクロの対立と似ている。メアリー・リッチモンドの言葉を借りれば「小売り」と「卸売り」の違いである。

コミュニティ・オーガナイジングはマクロのアプローチに該当する。ある問題の根源的な原因を探り、その原因に対してはたらきかけることを指す。たとえば、人種差別の構造が根底にある(具体例として、差別が原因で良い仕事に就くことができない)にもかかわらず、その問題の解決はあまりに大きな問題ということで棚上げして、人種差別が原因で起こる日々の問題(低所得となり、食費が不足していること)を解決するためにサービスを提供する(フードバンクの無料の食料を提供する)ことは、コミュニティ・オーガナイジングの実践とは異なると考える。

コミュニティ・オーガナイジングにとっての関心事は、個別の課題の根底にある構造上の問題(具体例で言うところの人種差別)である。また、その構造上の課題を解決した時に、課題に直面する当事者が力を得るという視点が重要になる。そのため、課題の根源的な解決から目を背け、当事者が構造的に不利な立場に置かれている状態を持続する結果になるにもかかわらず、サービスを提供し続けることに対して否定的な態度をもつ傾向にある。

しかしサービスを提供する側の立場は、すぐに解決しない構造上の問題に対してはたらきかけていても、その間、日々の生活が営めないほどに当事者が困窮しているとしたらそれは看過できない、という主張をする。これがソーシャルワークの黎明期から今日まで続くミクロ・マクロの対立である。

この対立にはある視点が欠けていると私は考える。それは「サービスは政治的」という視点である。この視点は生活が政治的という主張ともつながるが、サービスは生活以上に政治的である。なぜなら、サービスは財源が投入されて成り立つからである。その財源は税や社会保険によるものもあれば、民間の寄付(現金、現物)の場合もあるが、ポスト工業化と言われる今日の先進資本主義国家では、多くのサービスは政府の公的な財源によって成り立っている。その公的な財源の拠出を決定するのは政治である。したがって、サービスを利用するということは政治的な関係の中に成立する行為だといえる。

サービスを利用することは、自身の生活を政治と強いつながりで結ぶことになる。政府がそのサービスを充実させるという決断や、取りやめるという決断がサービス利用者の生活に直接的な影響を与えるのである。そのため、ソーシャルワーカーによるサービスの利用につなぐというミクロの実践は、サービス利用者という政治的な集団を作り上げるマクロな実践と連続しているのである。

私がニューヨークでコミュニティ・オーガナイザーとして働いていた時、私は外国人コミュニティとともにオーガナイジングの実践をしていた。その中でも無料の英語サービスを受講しているサービス利用者が主たる対象であった。毎年のように彼(女)らと一緒に政治家の事務所を訪問して、そのサービスが彼(女)らの生活に欠かせないものであることを伝えていた。

しかしそのことと、サービスで解消できない構造的な課題に対してはたらきかけることは別である。つまり、サービス提供とコミュニティ・オーガナイジングは深く関わっているし、サービス提供とはまた別にコミュニティ・オーガナイジングのはたらきかけが必要だということである。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.35

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第232号,2017年6月.

実践の糧」vol. 35

室田信一(むろた しんいち)

地域包括ケア政策が各地で推進され、行政や社協などが中心となり、住民を地域のサービスの担い手として養成する事業に取り組んでいる。私もそうした事業の推進をアドバイスする立場でいくつかの自治体に関わっている。

そうした事業を推進するための会議に出席して思うことは、自分が理想と思う地域の助け合いのイメージと政府が模索している地域の助け合いのイメージがあまりにもかけ離れていることである。その結果、私が想定する助け合いのイメージを現場の担当者(主に行政の職員)と共有することが難しく、「政府のイメージさえなければ」というような被害妄想さえ抱いてしまう。

地域づくりをする上で実際に手を動かすのは私ではない。そのため、アドバイザーという立場であっても私の描く理想像を現場の担当者に押し付けることはしない。むしろ、担当者が頭の中で描いている絵を引き出すお手伝いをして、その絵が本当に理想の地域像なのか議論する中で、徐々に私の思い描いている絵と重なり合うようになればいいと思っている。

いや、正確には、思っていた。最近その考えが少し変化してきた。

というのも、昨今の政府の政策は、地域活動や住民活動に対して一方的に推進方法を押し付けてきていて、その負の影響力を軽視することができなくなったからだ。

ハバーマスという哲学者が「システムによる生活世界の植民地化」とかつて述べていたが、近年の地域包括ケア政策は草の根の住民活動を植民地化しようとしている。

そうした傾向は今に始まった事ではない。日本では1960年代からコミュニティ政策が推進されてきており、人工的にコミュニティが作られてきた。アメリカでは公民権運動を契機に連邦政府が貧困地域におけるコミュニティづくりに政策的に関与するようになり、コミュニティ・オーガナイザーの配置に予算を充てた。そこで重視されていたことは住民による自治である。そのため、住民がどのような活動に取り組むかということは住民側に委ねられていた。住民が考える課題やニーズに対して、オーガナイザーが中心となり、自分たちで取り組む課題を決めていた。

日本のコミュニティ政策にも同様の傾向はあったのではないだろうか。コミュニティの中に意思決定機関を設置して、住民が中心となってその機関を動かす。しかし、そうしてできた機関が時間の流れとともに機能しなくなることがある。地域に課題があっても特に何も行動を起こさないこともある。そこで、地域住民が取り組むべき課題を政府が地域包括ケア政策によって示し、各地の住民は、右へならえで地域の支え合い活動に取り組むようになっている。

そのような歴史的な背景があったので、地域包括ケア政策もある程度は必要と思っていたが、現在の現場の状況を見ると、早いうちに手を打たなければならないと思い始めている。それも私の夢想なのだろうか。この連載を通してもう少し考えていきたい。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。

シリーズ『実践の糧』vol.34

掲載:『つなぐ』寝屋川市民たすけあいの会,第231号,2017年4月.

実践の糧」vol. 34

室田信一(むろた しんいち)

先日、引越しをした。私は若い頃に引越し屋のアルバイトをしていたので引越しは得意で、業者にお願いしたことはかつて大阪から東京に引越した時くらいである。

今回の引越しは東京都内の引越しであったが、これまでとは勝手が違った。まず、5歳と1歳の子どもがいる中で引越しをしなければならないということである。二人が戦力になることは期待していないが、それ以前に、私と妻の作業をあの手この手で邪魔しようとする。本人たちに悪気はないので、やめてもらうのにも苦労する。さらに、年度末の超多忙な時期に引越すことになり、引越しの準備もままならないことは予測できた。

そこで、荷物の大半の搬送を引越し業者にお願いすることにした。繁忙期のため割高になったが、それでも背に腹は変えられない。引越し業者の若い人が本が詰まったダンボールを2つ抱えて階段をタッタッタと駆け上がる姿を目にすると若い頃引越し屋でアルバイトしていた時分を思い出し、血が騒いだ。そんなこんなで業者の人たちはものの数時間で大量の荷物を運び終えてくれた。

しかし残念だったことがある。今回引越し業者に手伝ってもらいたかった最大の理由はドラム式の重い洗濯機を新居の2階まで運んでもらう必要があったからである。重い洗濯機を慎重に運んでくれたところまでは良かったが、その設置は別料金だと言って置きっ放しにされてしまった。その場で別料金を払うと言っても、別の電気工事部の人が来る必要があるということで、「連絡しておきます」とだけ言い残して颯爽と引き上げて行ってしまった。その後、2日待っても電気工事部から連絡はなく、コインランドリー通いが続いた。

結局、こちらから引越し業者に連絡したら電気工事部を手配するまでに数日かかるということで、インターネットで別の業者を探して洗濯機を設置してもらった。

引越し屋のなんとも杓子定規な対応に切なくなった。以前私がアルバイトをしていた頃は依頼主の細かい注文に臨機応変に対応していたものだが、おそらくそうして現場で裁量を効かせることから、稀に問題を引き起こし、リスク管理の観点から全ては契約に基づいて対応するようになったのだと思う。

その一方で、エアコンの設置業者は当初の工事よりも余分にカバーが必要だったということで4万円も余計に支払わされた。現場でこれから取り付けるという時にそのような値段をふっかけられて断るという選択肢はなく、否応無しに4万円を支払った。この「先進国」日本にもまだこうした「ぼったくり文化」が残っているという点では新鮮だったが、財布には優しくなかった。

どちらの業者も当事者視点が欠けていることが何よりも残念だった。引越しという困難を乗り越えようとしているという意味で、私の世帯は誰かの助けを必要とする脆弱な存在である。その弱みに付け込んだり、その弱みを見て見ぬ振りをしたりする業者が普通に存在することにショックを受けたが、同様の対応を福祉サービスの中にも頻繁に散見することができると思った。引越しは数年〜数十年に一回のイベントだから良いが、同様の対応を毎日の生活の中で受けたらどれだけ苦痛だろうか。弱い立場に立って改めてそのようなことを考えた。

※掲載原稿と若干変更する場合があります。